一ヶ月に2回満月を迎える月を「ブルームーン」という。 そのブルームーンを見ると願い事が叶う・・・・。
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              aisatu10_20100424143608.gif 皆さまも楽しい夏休みを!!
               家族サービス&夏休みのため旧盆を挟んで
           8月10日から8月20日 頃まで、このブログをお休み致します。
               どうか、ご了承ください。熱中症にはくれぐれも注意を!

いつも訪問して頂きありがとうございます。


「どうせ」 なら挑戦しよう

...2019/02/17 09:50...

昨夜、帰宅途中の電車。
連日の疲労が溜まりに溜まっていたのだろうか、
どうにもできないほどの睡魔が襲ってきた。
知らず知らずのうちに頭が左に右にグラリグラリと
揺れ始め、見知らぬ隣人の肩にフィットイン! 
寝入ってしまった。ふう、これでようやく安眠でき・・・・・。

トントンと肩を叩かれて気がついた。
目を覚ますと年配の女性の方。恐縮してお詫びしたら
「良いんですよ、随分お疲れのようでしたから」 と、
優しい返事。寄り添ってご婦人の肩に寝入るなんて、
我ながら困ったものだ。土曜休日出勤は、やはりいやだね。

さて、北国ではまだ厳寒の季節がつづくけれど、
ここしばらく寒い日が続いた東京でも、日差の匂いに、
小さいけれど確かな芽吹きに、春が近いことを感じて
ほっとすることが間々あった。

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先週、ジョギングした公園では、もう梅が咲いていました。紅梅とい
う梅の一品種。濃い桃色の花が咲きます。紅梅と白梅の違いを聞
くと花の色でしょって言われますが、それは違うようです。紅梅と白
梅かは枝を切ってみないと分からない。切り口が赤いものは紅梅、
そうでないものは白梅です。時折目にする、1本の木から紅梅と
白梅の2種類が咲いているものは、品種改良か接木だそうです。
花だけではなく木の中も美しいなんて自然の神秘を感じますね!

各地で積雪が聞かれ、まだまだ寒さ本番とはいえ、
東京では、どこかで春の大きなかたまりがうずくまっている
のではないか、と予感させる日和もある。夏も冬もどっと
駆け足で迫りくる感じがあるが、春だけは目をつぶって
いる間に、ゆっくりゆっくり移動している感じがあります。

公園では子ども達が、懐かしい 「かごめかごめ」 と
遊んでいた。子は風の子と言え、まだまだ寒い中に
思いがけなく春が近いと感じる時の小さい感動でした。
「後ろの正面だぁ~れ」 と振り返れば、不意打ちを
された春の笑顔が見られるのではないだろうか。
春よ来い、早く来い。春を待ちたい。


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「どうせ」 なら挑戦しよう

久しぶりに学生時代の後輩達と遭遇して、
先輩ぶって居酒屋に誘った。色々と話が盛り上がったが、
気になることがひとつあった。「どうせ」 とか 「しょせん」
といった言葉を彼らは盛んに使っていたことだ。

「どうせ」 とか 「しょせん」 といった言葉は、
後ろ向きで否定的なものとされている感じです。
確かに、演歌などの歌詞にもこの二つの言葉はよく
使われていて、聴いていると気がめいるような感じに
なるのは、私もこのましく思っていない。

しかし、ただ一つ使っていい場合と思うのは、「どうせ
一回きりの人生です。あっと言わせるようなものにしょうでは
ありませんか」 という勧めの言葉の時だ。これは、可能思考
の提唱者であるロバート ・ シュラーの言葉だったと思うが、
このように使う時は、同じ 「どうせ」 でも決して後ろ向き
ではない。むしろ積極的かつ査定的なニュアンスになる。

可能思考は、テニスの大坂なおみ選手を指導していた
コーチも参考にしていたようだが、大阪なおみ選手が
うまくいかない時、「大丈夫だよ」 「君ならやれる」 と
声がけする姿が見られた。そう言われて、気を奮い
立たせない者はいないだろう。考えてみれば、人は皆、
そう言ってくれる人を求めているのではないだろうか。

日本は今、少子高齢化に 「超」 が付くほど縮小社会に
向かいつつある。東京オリンピックを控えて盛り上がって
いるようにみえるが、実態は火の車だ。誰もが五輪後を
考えると苦難を覚えているのが実情だ。そんな時、
何かに挑戦する人を見ることは大きな励ましになる。

プロスキーヤーの三浦雄一郎さんは、御年86歳になるが、
南米最高峰アコンカグアに挑戦した。まさに可能思考の
体現者である。誰もが同じようにできるとは思わないが、
その挑戦心だけは学べるように思う。今年こそは 「どうせなら、
思い切ってやってみよう」 とする挑戦心を持ちたいものです。
それが反社会的だったり非論理的でない限り、たとえ小さな
ことであっても挑戦する価値があるなら取り組みたいものだ。

特に、高齢になってくると何事も慎重になり、
「攻め」 の生き方が難しくなってくる。前向きな姿勢は若者
だけに求められるものではなく、むしろ高齢者に対して
かもしれない。体力、気力が衰えていく中でも、好奇心や
挑戦心を失わずに、「前を見て」 いや時には 「上を見て」
前進して欲しいものです。

2019年を 「挑」 あるいは 「闘」 の一文字で表せる
ような一年にしたいものです。どうせなら、悔いのない
有意義な一年にするためにも・・・・・・・・。

「知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼れず」


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   ― 芝増上寺 ・ 徳川将軍家墓所 ―

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節分で増上寺に訪れたものの、そのまま帰ってしまうのはもったい
ないと徳川将軍家墓所を拝観して帰る事にしました。以前は期間
限定で年に何回か特別公開していたのですが、現在は常時公開
しているようです。歴史好きの人は一度は訪れてみたい場所でも
あります。近頃は外国の観光客も訪ねる方もいます。将軍に興味
があるようです。徳川将軍家の墓所を紹介です。

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増上寺は、上野の寛永寺 (霊廟非公開) と共に徳川家の菩提寺
で、当寺に埋葬されているのは、二代秀忠、六代家宣、七代家継、
九代家重、十二代家慶、十四代家茂の6人の将軍の他、女性は
将軍正室の二代秀忠夫人崇源院、六代家宣夫人天英院、十一
代家斉夫人広大院、十三代家定夫人天親院、十四代家茂夫人
静寛院の5人、将軍の側室には三代家光の桂昌院、六代家宣の
月光院など5人、その他、将軍の子女を含む計38人が埋葬され
ています。昭和33年、文化財保護委員会が中心となって、発掘
された土葬の遺体は、綿密な調査が行われた後、東京・桐ヶ谷
にて荼毘にふされ現墓所に改葬されたようです。

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「徳川将軍家墓所」 
現在の増上寺徳川家墓所の入口の門は、もと文昭院殿霊廟 (六
代将軍 ・ 徳川家宣公) の 「中門」 だったものです。(上) 左右5つ
の葵紋、昇り龍 ・ 下り龍が鋳抜されているのが特徴です。左手に
徳川霊廟前チケット札所 (下右) があり、拝観料の500円を納め、
記念品 (徳川将軍家旧御霊屋絵葉書10枚セットと旧境内全図)
が頂けます。徳川将軍家墓所の左側にある入口から特別拝観で
入門します。(下左) 葵の御紋がチケットになっています。

第二次世界大戦前には台徳院 (秀忠) 霊廟、崇源院 (秀忠夫人)
霊牌、文昭院 (家宣) 霊廟、有章院 (家継) 霊廟が旧国宝 に指定
されており、その壮大さは日光東照宮に引けを取らないものだった
が、 昭和20年 (1945) に2度の空襲があり、その建造物群のほ
とんどを焼失した。現在は台徳院霊廟の門4棟と、有章院霊廟二
天門、文昭院霊廟奥院中門 (鋳抜門) を残すのみのようです。

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【 十二代将軍 ・ 徳川家慶 (慎徳院) 】 (1793-1853年)
徳川家慶は11代将軍・徳川家斉の次男として、寛政5年 (1793)
に江戸城で生まれる。天保8年 (1837) に45歳で将軍職を譲ら
れ たが、家斉が大御所として強大な発言権を保持していた。家慶
は 「天保の改革」 に着手するが、改革は失敗に終わり、幕府は没
落の道を進むこととなる。 嘉永6年 (1853) アメリカのマシュー ・
ペリーが4 隻の軍艦を率いて浦賀沖に現れ (黒船来航)、幕閣が
その対策に追われる中、病のため薨去。享年61歳。 
熱中症による心不全が死の原因と言われている。

家慶は趣味に生きた将軍で、政治を省みなかったという。そのため、
評判が悪く、家臣の意見を聞いても 「そうせい」 というのみであった
ことから、「そうせい様」 と呼ばれていたという。 家慶は歴代将軍の
中でも推定身長は154.4cm と小柄で独特の体つきだったという。
頭が大変大きく、六頭身で顎が長かった。ゆえに、現存する肖像画
は家慶の生前の特徴をかなり忠実に描写したものと推定されている。
毛髪等の調査の結果、血液型はB型であったようです。

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【 九代将軍 ・ 徳川家重 (惇徳院) 】 (1711-1761年)
徳川家重は、8代将軍・徳川吉宗の長子として、正徳元年 (1711)
に江戸赤坂の紀州藩邸で生まれる。家重の時代は吉宗の推進した
享保の改革の遺産があり、綱吉が創設した勘定吟味役を充実させ、
現在の会計検査院に近い制度の確立、幕府各部局の予算制度導
入など、幾つかの独自の経済政策を行った。余談だが、鷹狩りを好
んだ父と違い、とにかく引きこもりな家重さん。江戸城から上野の寛
永寺へ行くだけで何カ所も便所を設けなければならなかったほど、
おしっこが近かった為、小便公方と揶揄された。49歳で将軍職を
譲り、 宝暦11年 (1761)、51歳で逝去。

調査によれば死後、埋葬された歴代将軍の中でも家重は、最も整っ
た顔立ちをしており、さまざまな行事で諸大名に謁見した際に非常
に気高く見えたという。四肢骨から推定した身長は156cmで、当時
の男性の平均身長(157cm)よりわずかに低かったそうです。死因
は尿路感染、尿毒症のためと推測されている。血液型はA型だった。

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徳川家霊廟は、江戸幕府の将軍職を務めた徳川将軍家歴代の
墓所のことで、江戸(現・東京)の寛永寺と増上寺、及び栃木県は
日光の輪王寺にあります。江戸時代の華麗な建築技術・意匠の
粋を集めた建築群として日光東照宮と並び称されるが、このうち
寛永寺と増上寺の霊廟は、大部分の建物が戦災で焼失しました。
現在は、増上寺の裏に徳川将軍家墓所があり、立ち木に囲まれ
た約1000平方メートルの将軍廟霊域は真ん中が広場になり正
面側右に二代将軍秀忠公、左に六代家宣公等その他、将軍の
子女を含む人々が眠っています。

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【 六代将軍 ・ 徳川家宣 (文昭院) 】 (1662-1712年)
徳川家宣は、徳川家光の三男、甲府藩主・徳川綱重の長男として
寛文2年 (1662) に生まれる。子に徳川家継ほか。 徳川綱吉は
「生類憐れみの令」 を厳守することを遺言して世を去ったが、徳川
家宣は葬儀の2日前に綱吉の柩の前で 「生類憐れみの禁令に触
れ罪に落ちた者は数知れない。私は天下万民のためにあえて遺命
に背くこととする」 と言って、政治の刷新をはかり 「生類憐みの令」
を廃止するなど、「正徳の治」 をなしとげ、これほど学問を好まれた
君主は他にいない勤勉ぶりだったという。たが、将軍職わずか3年
にして病に倒れ、正徳2年 (1712)、51歳の生涯を閉じました。

増上寺で徳川将軍家の墓地が改葬された際に、家宣は細面で鼻筋
が通っていて穏やかな顔立ちをした美男であったといい、父・綱重と
は猫背であったこと以外に似ている部分は非常に少なかったという。
家宣の身長は当時の日本人としては平均よりやや高い160cmあり、
現在までに判明している歴代将軍の中で最も高いという。 死因は、
当時流行した感冒 (インフルエンザ) とみられている。父・綱重と同
じ く O型でした。正室・近衛熙子 (天英院) と合祀されています。

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【 七代将軍 ・ 徳川家継 (有章院) 】 (1709-1716年)
徳川家継は、6代将軍・徳川家宣の子として、宝永6年 (1709)
に生まれる。父・家宣の逝去とともにわずか4歳で将軍職につく。
幕政は幼少の家継に代わって生母・月光院や側用人等が主導。
しかし、将軍の権力が弱すぎて、譜代の大名たちから抵抗に遭い、
幕臣間の腐敗も進行して幕政は停滞しがちだったという。家継は
利発で聞き訳が良く、才覚があったといいますが、如何せん病弱
で家継存命中に、後継者を巡って、家宣正妻の天英院と家継の
母・お喜世の方(月光院)の間での権力闘争を横目に、幼少将軍・
家継は正徳6年(1716) 8 歳で短い生涯を閉じる。家継の死に
より、二代将軍秀忠の系統は断絶し、後継の八代将軍に紀州の
吉宗が迎えられることになります。

調査で家継の棺を開けた時、長年の雨水が棺の中に入り込み、
骨を分解し流し去ったためか家継の遺骨は存在せず、 ただ家継
のものと思われる遺髪と爪、及び刀等の遺品があったのみだった
という。死因は風邪が悪化したためといわれる。土葬されていた遺
体は発掘し荼毘 (だび) にふして徳川将軍墓所に改葬されました。

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かつては増上寺山内の北側と南側に、厳粛かつ壮麗な徳川将軍
家霊廟が広がっていました。御霊を祀るために造営された墓所 ・
本殿 ・ 拝殿を中心とした施設の数々には、その当時最高の技術
が駆使され、戦前国宝に指定されていました。しかし昭和20年の
戦災によりほとんどが焼失したようです。昭和33年文化財保護委
員会が中心となって発掘された土葬の遺体は、綿密な調査が行
われた後、東京 ・ 桐ヶ谷にて荼毘にふされ現墓所にまとめられ
改葬されたようです。

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【二代将軍 ・ 徳川秀忠 (台徳院)】 (1579年-1632年)
徳川秀忠は、徳川家康の三男として天正7年 (1579) に生まれる。
秀忠は、家康と家光の間で影が薄い印象を与えますが、家康の路
線を忠実に踏襲したのみならず、かなり独自性の強い施政を行っ
ていて辣腕ぶりは、家康をも凌ぐものであったといいます。父・家康
に 「律儀すぎる。人は律儀一点張りではいかぬものだ」 と言われた
という。 やはりそこにも側室を持たなかった秀忠の律儀さが表れて
いるのでしょうか。愛妻家だったというから、私に似ている。 (笑)
将軍職にあること18年をかぞえ、寛永9年 (1632) 54歳で逝去。

徳川秀忠の宝塔は霊廟室内に祀られ、大変大きなものでした。
しかし、惜しくも木造のため戦災で焼失。現在は夫人・江 (崇源院)
の宝塔に合祀されて 「二人仲良く」 眠っています。 秀忠の遺体も
調査が行われたが、その遺体は、棺の蓋や地中の小石等の重み
により、座した姿勢のままその衣服等とともに縦に圧縮され、畳ん
だ提灯の如くつぶれていたという。圧縮により変形が激しく、骨が
著しく分解され軟化していたため、詳細な調査は不可能でした。
毛髪等の調査の結果、四肢骨から推定した身長は158 cmで、
血液型はO型でした。

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【 江 (崇源院) 】  (1583年-1626年)
崇源院は、2代将軍・徳川秀忠夫人のことで、一般にはHK大河ドラ
マの主人公 「江」 として知られています。織田信長の妹・市を母とし、
茶々 ・ 初 ・ 江のいわゆる浅井三姉妹の末っ子として生まれる。「浅
井三姉妹」は、「戦国一数奇な運命を辿った姉妹」 として知られる。
いずれも母・市の美貌を受け継いだ美女で、幼い頃から大変仲の良
い姉妹だったと伝えられる。幼いころに戦乱で父母を亡くし、幾度も
の結婚を余儀なくされながらも、徳川二代将軍・秀忠の正室となり、
娘は天皇家に嫁ぎ、息子は三代将軍となり、戦国時代を代表する
今風のスーパーセレブでしょうか。姉・淀と敵味方に分かれて天下を
争う等、時の権力者たちに人生を翻弄されながらも、戦国・安土桃山
から江戸への移り変わりを、常に時代の中心点で直に目撃した、数
少ない歴史の証人でもあるのです。寛永3年(1626)江戸城で永眠。

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将軍家一族の中で火葬にされたのは江 (崇源院) のみで、かつ
て 増上寺には、家光が建立した崇源院霊廟を含む豪壮華麗な
将軍家霊廟がありましたが、戦災でそのほとんどが焼失されま
した。 戦国の世の苦しみを知りぬいた江は、生まれ故郷である
近江の雄大な琵琶湖のように、いかなる人生の変転に対しても
穏やかさを決して失うことなく、天下太平を願ったといいます。
今は、秀忠公と共に夫婦一緒の宝塔で静かに眠っています。

「・・・・夫婦になって、楽しゅうございましたね」 「ああ、そちには
感謝 しておる」 「私こそ」、戦いより和平を、憎しみではなく愛を、
平和な治世が続くのを、夫婦はじっと見守っているのでしょうか。
眼を閉じ、そっと手を合わせ、二人の冥福を祈りました。

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【十四代将軍 ・ 徳川家茂 (昭徳院)】 (1846-1866年)
徳川家茂は、紀州家徳川斉順の長男として弘化3年 (1846) に
生まれる。将軍家の養子となり、13 歳にて、第14代将軍となる。
日米通商問題で幕府は大きく揺れ、安政の大獄がはじまったが、
事態収拾のために公武合体策をとり、和宮親子内親王 (静寛院)
を正室に迎えた。尊皇攘夷派と幕府の対立が激化するなかで、
元々病弱であって身体を壊し、長州征伐戦の最中、大阪城で
慶長2年 (1866) 病没した。享年21歳でした。

和宮との出会いは、時代の流れが作り出した政略であったが、上洛
の際、家茂は和宮に京都の西陣織をお土産に持って帰る約束をす
るのですが、結局、病死してしまい、その遺品だけが、江戸で待つ
和宮に届けられる事になります。激動の大きな波が二人を飲む込
もうとする中で、二人は絆を深め確かな夫婦になろうとしたようです。

家茂の調査では、遺骨から面長で極めて鼻が高く、歯の虫歯の度合
いは酷く、残存する31本の歯の内30本が虫歯にかかっていたという。
羊羹、氷砂糖、金平糖、カステラなど甘いものを好み、虫歯の原因は
これらの食べ過ぎだと思われる。 四肢骨からの推算で身長は156.
6 cmあり、血液型はA型でした。

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【 和宮 親子内親王 (静寛院) 】 (1846-1877年)
和宮親子内親王は、弘化3年に仁孝天皇の第八皇女として誕生。
江戸幕府14代将軍・徳川家茂の正室。孝明天皇の妹で、5才の
ときに有栖川宮熾仁親王と婚約します。 しかし、幕府の公武合体
策により、16才で14代将軍徳川家茂と結婚、京都を離れて江戸
城に入ります。後に鳥羽伏見の戦いが勃発。 幕府は朝敵となり、
錦の御旗を立てた官軍の大総督は、かつての婚約者・有栖川宮
熾仁親王でした。 姑の篤姫と共に徳川家存続と徳川慶喜の助命
を訴え、江戸城無血開城により大奥を退去しました。家茂の死後、
和宮は出家して 「静寛院」 と名乗ります。

明治10年(1877)、32歳という若さで生涯を終えます。
当初、政府は葬儀を神式で行う予定でしたが、和宮の 「家茂の側
に葬って欲しい」 との 遺言を尊重する形で、仏式で行われた。静寛
院宮の宝塔は当時のもので、実際、家茂公と並んで祀られています。

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「和宮親子内親王」 (下左)  「菊の 御紋章」 (下右)
静寛院宮の宝塔は当時のもので、実際、家茂公と並んで祀られて
いました。宝塔の形は御夫婦同じ物でありましたが、家茂の石塔に
対して青銅製です。特徴として菊の御紋章が掘り出されています。
和宮が埋葬された増上寺の徳川家墓所は、現在の東京プリンスホ
テルの場所でしたが、同地が売却されるため、和宮をはじめ歴代
将軍及びその正側室の墓所と遺骸も発掘 ・ 改葬されました。

和宮は座棺ばかりの墓地のなかで唯一、寝棺で葬られていました。
朽ち果てた三重の木棺の床に敷きつめられた石灰の下に、 北に枕
してわずかに膝を屈し、両肘を前に伸ばすようにして静かに横たわ
っている華奢な遺骨、切り揃えられた黒髪があったようです。 ほかの
墓に数々見られたような服飾、装具はなにひとつ得られず、 かすか
に足元に絹の細片が散っていただけの副葬品のない 淋しい柩だっ
たようです。  和宮の血液型はA型か AB型で、身長は143 cm、
体重 34kg。 小柄な女性であったと推定されています。 

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皇女和宮ゆかりの茶室 「貞恭庵」
幕末の劇的な時代を生き抜いた皇女和宮様、ゆかりの茶室です。
四畳半の二間の茶室からなる建物で、茶室としては珍しい雨戸の
ある茶室なんだそうです。また、入り口も 「にじり口」 という小さい
入り口ではなく、立ち姿で出入りできる大きさ。これは客人を迎え
る茶室としてだけで なく、 生活をしていた場を示すようです。「貞
恭庵」 は茶室として使われ老朽化したので、移築・改修され、そ
の際 「貞恭庵」 と名付けられたようです。一般にも利用でき、開
催日にはお茶とお茶菓子を楽しむこともできます。観光客もなか
なか足を踏み入れない、増上寺の裏側の場所に建っています。

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和宮は政略結婚以来、家茂の無事を祈りながら、大奥での確執
に向い、 江戸城明け渡しの際の徳川家存続嘆願など、 心休まる
日は少なかったのかもしれません。 茶室で癒される時があったの
でしょうか、「江」 と同様、 まさしく時代に翻弄された女性の一人と
いえるでしょう。 徳川家茂 (右側) と皇女和宮 (左側) の宝塔。

皇女和宮の墓地の調査が始まり、見るべき副葬品こそなかったが
和宮の両腕の間に抱きしめていたかのような形で、両腕の間に名
刺判ほどの小さなガラス板が発見されました。 そのガラス板には、
烏帽子に直垂姿の、若い男性が写っていたという・・・。 ところが、
その翌日、もう一度確かめると、一種の化学反応を起こしたらしく、
ただの素透しのガラスになってしまったのです。

そのガラス板に写った若い男性とは・・・・・。

烏帽子に直垂は、四位以上の大名に許された殿中での礼装だという。
これを踏まえると、おそらく、写真の主は家茂さんでは・・・。ひょっとし
たら、和宮は、若き日に始めて会ったあの日の、礼装の家茂が一番
好きだったのかも知れません。その思いを、しっかりと胸に抱いて、
少女のように眠る・・・・・。抱えられたガラスの写真が、彼女の思いを
代弁してくれているような気がします。泣けてきます。ご婦人方、夫を
大事にしてね。 (笑)

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【合祀宝塔】
合祀以前は、徳川将軍の正室、側室、子女は、それぞれの宝塔、
多宝塔、位牌 形石塔などで独立して葬られていました。移転改
葬後は総て、一つの石造宝塔内に合祀されました。この合祀宝
塔には、11代家斉夫人 (広大院)、13代家定夫人 (天親院)、
3代家光側室で五 代綱吉生母の桂昌院、6代家宣の側室で家
継の生母 (月光院)、 その他計35名の将軍家ゆかりの子女が
合祀されています。 この合祀宝塔は月光院 (家継の生母) の
墳墓に祀られていた宝塔が使われています。ちなみに二代将
軍 ・ 秀忠の長女千姫 (天樹院) の墓は、伝通院にあります。

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徳川将軍家墓所特別拝観は、10時から16時までで、定休日は
毎週火曜日も祝日の場合、通常通り公開、拝観可のようです。
土日祝日は、港区観光ボランティアによる案内説明があります。
一日4 回ほどあるようです。この日も大勢の方が熱心に説明を
聞いていました。(下) 歴史好きの多いこと。

増上寺の隣、徳川秀忠公の台徳院霊廟の多くは、太平洋戦争、
第二次世界大戦で焼失しました。焼け残ったのは惣門、勅額門、
丁子門、御成門の4棟のみでした。西武グループ創業者、故堤
康次郎氏は、空襲で焼けた増上寺の一部を買い取り、東京プリ
ンスホテルを建てました。そして、西武ドームがある埼玉県所沢
市に狭山山不動寺という寺院を建立し、そこに焼失を免れた勅
額門、御成門、丁子門を埼玉県所沢市の狭山山不動寺 (旧ユ
ネスコ村) に移築し、今も凛々しい門姿で建っています。

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宝塔は青銅造りと石造りの二種類あり、よく観察するとそれぞれに
相違点がある事が分かります。とくに十四代将軍徳川家茂に降嫁
した皇女和宮の宝塔を目の当たりにして、徳川幕府延命の政略、
公武合体の歴史を具現化して示す遺構の迫力に圧倒されました。

実はお墓を撮るのはけっこう心理的抵抗があって、どうしようか迷っ
たのですが、歴史的な人物のお墓です。文化的な遺産の記録と勝
手に決め付けて撮ってみました。もちろんお墓に手を合わせ、それ
ぞれの将軍様にお許しを頂きました。家慶公には 「そうせい」 と言
われ、皇女和宮さまは素直に許してくれ、ただ秀忠公だけが、許可
もらったか? とか、いろいろうるさかったです。やっぱり律儀な方。
(笑) 江さまには、傳通院に娘の千姫が眠っているので、お参り
をお願いされました。たぶん (笑)

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さて、増上寺周辺は上の写真でも分かる通り、東京タワーと切って
も切り離せないほど、写真を撮ると必ず背景に映ります。墓所は思
いのほか、こじんまりとした場所でした。徳川秀忠と江 (崇源院)、
徳川家宣と近衛熙子 (天英院)、夫婦が二人、仲良く眠るなんて、
いいですよね。うまく表現できないけど、なんだかホノボノとした
雰囲気を感じます。お墓なのに、あったかい!

ご存知、代々の徳川家の将軍は日光東照宮に祀られている家康 ・
家光と谷中霊園に眠る慶喜を除いて、上野の寛永寺とこの増上寺
に葬られています。戦災で失われた文化遺産が莫大な物であった
ことが悔やまれますが、静かな一角に佇む将軍宝塔群は遥か彼方
に去っていった覇権の象徴なのでしょうか。





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