一ヶ月に2回満月を迎える月を「ブルームーン」という。 そのブルームーンを見ると願い事が叶う・・・・。








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「捉え方ひとつ」

...2018/04/08 14:19...

先週から入学式、新年度を迎え、
お子さまが進学したり、職場でも異動が多い
時期ですから、生活環境が変わったという方も
いらっしゃるかもしれませんね。何かと緊張したり
忙しい季節です。私の友人も転勤になったようで、
ギリギリの日程まで東京で仕事をし、この週末に仙台へ!
仕事をしながらの引っ越し準備、距離に関わらず
なかなか大変そうでした。

一週間前には枝一杯に咲き誇っていた
桜の花ですが、東京はもう花よりも緑の葉が一面
に顔をのぞかせる存在に変わってしまいました。

それでも桜の木の下から見上げると、のんびり屋の
花でしょうか、葉の陰からぽつりとひと花、はずかし
そうに遅れて咲いている姿を見かけます。葉っぱの
影から顔をのぞかせるその姿はなんとなく、
「遅刻しました・・・。」 と、はずかしそうに、
教室に入ってくる子のようです。

春眠暁を覚えず、桜の花にもついうっかり朝寝坊
してしまった、うっかり屋の花なのかもしれません。
自分の朝寝坊は困りものですが、花の朝寝坊なら
大目に見てもよさそうです。朝寝坊の余花の
おかげで、ちょっとだけ春の風情を楽しませてもらう
ことが出来るのも嬉しいものです、

春におくれて咲く花を 「余花 (よか)」 と言うんだそうです。
のんびり屋さんでも、一歩一歩の歩みが大事なんです。
今週もマイペースでいきましょう。


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「捉え方ひとつ」

「先生、〇〇君は掃除の後、ちり取りをきちんと
しまわず、箒たてに、立てかけたままにしていました。
掃除用具はみんなが使うものだから、きちんと
決められたところに戻さないといけないと思います。」

小学校の一日の終わりにあった 「反省会」 で、
よくこんなことを言われました。私の場合はもっぱら、
ここで登場した 「〇〇君」 で、指摘される側の立場でした。

こう言われると、反論の余地はありません。
確かにおっしゃる通りで、間違っているのは
「〇〇君」 であるのは、誰の目にも明らかですから。
内心では 「その場で言ってくれれば、すぐに直したのに」
なんて思いながらも、反論の余地なしなので 「ごめんなさい。
これからは気を付けます」 と、謝ることになります。 
もっとも、こんな粗忽な〇〇君は、何日かしたらまた同じ
ことをしてしまって、また 「反省」 させられるのですけれど。

思い出してみると、まあ、よくあんなどうでも
よいことを大真面目にやっていたものだなと思います。
とはいえ、小事を疎かにするものは大事をなせないと
いいますから、小さなうちからこんな指摘を受けて、
自分の粗忽さを認識しておくことは無駄では
ないかもしれませんが。

さてさて、子供の頃にはよく見かけたこんな光景を
最近、全国ニュースで目にしました。多分皆さんも
ご存知と思いますが、舞鶴市で起こったあの事件。

知らない方もいらっしゃるかもしれませんので、
その事件のあらましを書けば、相撲の地方巡業が
行われた舞鶴市で、挨拶のために土俵に上がった
舞鶴市長が突然倒れ、倒れた市長を救護するために
何人かの人が土俵に駆け上がりました。その中には
市長に救命処置を施した女性もいたのですが、
このときに 「女の方は土俵から降りてください。」
という場内アナウンスが流れたことが 「大問題」
だというのでした。

今でも相撲協会は伝統的に女性を土俵に
上げないということから、こんな時にまで、
それを言うのかということで、それを非難する
論調で報道されたことが多かったようです。
「相撲協会の体質が問われる」 とか、「市長の命
よりも伝統が大事なのか」 という批判が集中しました。

確かに間違いじゃないと思います。
だけど、それほど大上段に構える問題なんでしょうか。
どこの世界にも、融通の利かない人はいますし、状況
判断出来ずに、とんちんかんなことをしてしまう人もいます。
めったにない出来事などに遭遇すると、普通の人でも
おかしな行動をとってしまうことはよくあります。

この一見とんでもない場内アナウンスにしたって、
そうしたおかしな行動の一つであって、「何があっても
女性は土俵に上げてはならない」 などという信念の
もとのアナウンスとは私には思えませんでした。

それに、居合わせた関係者のだれも、救護措置を
行う女性を、力づくで土俵からおろそうなんてして
いなかったわけですから。相撲の巡業ですから、
それこそ力持ちの力士が沢山いたでしょうに、
人命より相撲協会内の慣習を優先させたという
ことではなかったと思います。

「みんな、大人なんだから、いちいちそんなことで
揚げ足取りするなよ」 と報道に言いたくなります。
今回の例だけでなく、なんだか近頃はこんな 「小学校
の反省会」 並みの批判や、指弾が目に付くようになった
と感じます。むしろ、こうしたアナウンスがあったにも
かかわらず、人命を優先して土俵上で救護活動を
つづけた女性の勇気を讃えたいです。

現実の社会での善悪、正邪の判断なんて、
小さなころに思っていたほど、単純なものばかりじゃなく、
画一的なものではありませんでした。でもその難しい
ことができるようになるってことが、大人になるってこと
なんじゃないのかなと思っていました。

倒れた市長さんは、くも膜下出血だったそうですが
一命はとりとめたとか。何はともあれ、これだけは
よかったですね。救護活動に当たられた方々の
迅速な対応には、賛意を送りたいです。
この点だけは、たぶん異論はないでしょうね・・・。
人の命より伝統を重んじる人なんていません。


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「皇居 ・ 東御苑」 を散歩・・・・。

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春季皇居・乾通り一般公開を見学した後、せっかくなので、皇居 ・
東御苑を見学するために移動しました。「乾門」 の脇の小公園を
廻って北桔橋門から入りました。皆さん、武道館のある北の丸公
園か、東御苑の方へ進んだようです。歴史の詰まった場所なの
で紹介してみます。二の丸庭園の方は、お兄さん疲れちゃって
素通りしてパスしました。(笑) ご了承くださいませませ。

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「北桔橋 ・ 門」 (上) 「平川豪側」 (下左) 「乾濠側」 (下右)
『北桔橋 (きたはね ばし) 』 は、竹橋から千鳥が淵に抜ける通称
「代官町通り」 の北の丸公園入口の正面にある小さな橋です。
ここは、東の 「平川濠」 と西の 「乾濠」 を分ける 土橋 になってい
る部分で、いわゆる 「橋」 になっているのは、皇居東御苑の入口
から僅か5~6mの部分のみです。乾通り一般公開を見学した一
部の方々が東御苑を散策しようと訪れていました。この 『北桔橋』
を渡って、「北桔橋門」 から皇居東御苑に入ることができるのです。

【跳ね橋】
江戸時代ここには 「北桔橋門」 という 「枡形門」 がありました。
この門を入ったすぐ正面には江戸城の 「天守閣」 があり、この門は
江戸城北側の守りの最重要地点でもあったわけです。そのため橋
の形状を 「跳ね橋」 (橋の片方を跳ね上げて渡れなく出来る) とし
たことから、 『北桔橋』 と呼ばれるようになっています。江戸時代に
はこの橋はほとんど跳ね上げた状態になっていたらしいですが、
現在でも、門の柱には橋を跳ね上げるために滑車をつるしたと思
われる金具が残っています。

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「北桔橋門」 をくぐって、なだらかな坂を進むと天守台の裏側に
たどり着きます。(下左) 石垣の脇にテントが設置されていました。
「荷物検査」 が行われていました。(上) 普段、御苑内に入るのに
荷物検査は無いのですが、乾通り一般公開という特別な日なので
しょう。バックなどの中身を調べられました。 テントを抜けると見え
てきたのが 「桃華楽堂」。(下右) 昭和41年に完成し収容人員は
200名の音楽堂で、音楽好きの香淳皇后さまの還暦記念として建
設されたようです。「桃華」 の由来は、香淳皇后さまの誕生日が三
月なので桃の節句にちなんで桃とし、華の字形は十が六個と一で
構成されていることから、還暦 (数え年61歳) を意味するというこ
とで命名されました。花弁を形どつた屋根と八面体が珍らしいです。

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江戸時代、江戸城に入城するまでに全国からやってきた大名達は
各門に設置されていた番所 (検問所) を通っていました。「番所」
とは、警備の詰所のことす。現在、百人番所、同心番所と大番所
の三つが残っています。江戸城最後の固めのため、検問所で睨
みを利かせ、昼夜警固にあたっていました。

「百人番所 (検問所)」 (上)
大手門から大手三の門を抜けたところの左手にあるのが、長さ50
メートルを超える百人番所です。大手三の門を守衛した江戸城本丸
御殿、最大の検問所でした。日常の任務は江戸城大手三之門の警
備を4組の百人組が交替で詰め、その詰めた番所が 「百人番所」 と
して東御苑に現在も残されています。

「同心番所」 (下)
大手門から三の丸尚蔵館の前を過ぎた大手三の門の内側には
同心番所があります。江戸城へ登城する大名を監視しました。
ここを駕籠に乗ったまま通ることができたのは、尾張 ・ 紀伊 ・ 水
戸の徳川御三家だけで、それ以外の大名はここで降ろされ、検問
を受けました。同心とは、江戸幕府の諸奉行 ・ 所司代 ・ 城代 ・
大番頭などの配下に属し、与力の下にあって、庶務・警備の仕事
をしていた下級役人を総称したものです。

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本丸と二の丸に進む分岐点の百人番所を過ぎ、最後の番所であ
る 「大番所」 を過ぎ、石垣を見ながら坂道を上ると、本丸正門の
中雀門があります。中雀門を抜けると、現在は広々とした広場で
すが、かつてはここに広大な本丸御殿が広がっていました。

「中之門跡」 (上)  
大手三の門を抜けると左手に百人番所、右手に中之門があります。
中之門の石垣は、丁寧に加工された大形の石材が隙間なく積む 「切
込みはぎ」 と呼ばれる技法で積まれています。また、石垣に使われて
いるのは、瀬戸内海沿岸から運ばれた白い花崗岩で、西国大名から
献上されたと考えられます。こうした石垣は、大名の登城路や天守台
主要な部分だけにみられるものです。

「大番所」 (下)
大番所は、大手中之門の内側に設けられ、他の番所よりも位の高い
与力 ・同 心によって警備されていたといわれています。江戸城本丸
へは最後の番所であり、警備上の役割はきわめて重要であったと考
えられています。大番所は再建されたものですが、背後の射撃用の
石段も古く風格のある立派な建物です。

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「江戸城本丸御殿跡広場」
この天守台から見える大芝生とその周辺は、江戸城本丸御殿が立
ち並んでいました。現在は広々とした芝生の広場となっていますが、
約150年前までは、この場所に幕府の中央政庁や将軍の政務を執
るための部屋と私的空間、そして大奥などがありました。当時平屋の
建物がびっしりと立ち並び、江戸を動かす中枢が存在していたこの
場所に想像を巡らせながら眺めるとワクワクしますね。

本丸御殿は、表、中奥、大奥という三つの空間に分かれていました。
表は、将軍の謁見など公的な儀式、行事、幕府諸役人の執務の場で、
中奥は将軍の日常生活、政務を執る場で、大奥は御台所と呼ばれた
将軍の正妻をはじめ家族や女性たちの生活の場でした。江戸城本丸
の玄関に達するまでに、大名は家格により大手門、大手下乗門まで
に馬や駕籠を降り、武家最上位の御三家でも大手中ノ門まで、玄関
に乗り物を横付けできたのは朝廷の勅使のみであったようです。

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「本丸大芝生広場」
広い芝生広場は解放され、寝転がって休むこともできます。ただ、
場所が場所だけに節度ある行動を求められます。芝生から周囲に
ある各樹木園の花がよく見えます。とにかく広いです。明治維新の
直後、本丸跡は焼け野原で、第二次大戦後も野菜畑や桑畑の時
代もあったようです。そして本丸跡は気象台発祥の地でもあり、
明治期から昭和30年代まで気象庁の官舎もありました。

この広い大芝生の広場の端の方に、小さな石が埋め込まれている
のを発見。近くに寄ってみると、石碑には 「午砲台跡」 とありました。
(下) 明治の時代から正確な時間を知らせるために、ここに午砲台
が設置され、正午を知らせる空砲が打たれていました。 この空砲の
音は 「ドン」 と呼ばれ、土曜日は正午にドンと鳴ったら仕事が終わる
ので、一日の半分が休みで 「半ドン」 と呼び、今でも半ドンと言う言
葉が残っているわけです。昭和4年 (1929) に廃止されたようです。
砲台と言うと戦時の物かと思いましたが、時間を知らせる平和な目
的の物だったんですね。また、あまり知られてませんが、この広場
で皇宮警察音楽隊によるランチタイムコンサートも行われています。
開催日は不定期ですが、いつも人々を賑わかせているようです。
次回は4月12日(木) 12時15分~12時45分に開催予定です。
雨天は中止のようです。平日じゃん、無理ス。

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「江戸城天守跡 (天守台)」
東御苑北側、本丸広場に佇む石垣は 「江戸城天守台跡」。この台
の上に、江戸城の天守閣がそびえ立っていました。現在の国会議
事堂程度の高さであったと言われています。 展望台として眺望を
望むことができ、この日は普段と違って柵が設けられ行列が出来
ていました。(下左) 天守台の上はベンチのみです。(下右)

江戸城最初の天守閣は慶長12年 (1607)、二代将軍徳川秀忠の
代に完成。その後、寛永15年 (1638) 三代将軍家光の代に、江戸
幕府の権威を象徴する国内最大の天守閣が完成した。「江戸図屏
風」 によると金の鯱をのせた五層の天守閣でした。この壮大な天守
閣も明暦3年 (1657)、完成から僅か19年で 「明暦の大火」 の飛び
火のために焼失し、城下の復興を優先すべきとの提言により、以後
天守閣は再建されることはありませんでした。 「天守閣石垣跡」 だ
けが当時の様子を偲ばせています。 復元してほしいですねぇ~。

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「大奥跡」
大奥は現在の天守台跡の南側一帯。広々とした芝地となっている
広場の敷地の半分を占めたという大奥跡。かつて徳川の姫たちの
生活の場であった場所に立っている事を思うと、その心は300年
前の大奥へ・・・。現在は井戸と思われる場所のみで、残念ながら
往時を偲ぶものはありません。 (下右)

大奥は大別して玄関口である 「広敷向」、将軍の寝所である御小
座敷、御台所居所などのあった 「長局向」、奥女中たちの居住空
間となる御殿向に区画されていました。「御台所」 をはじめ将軍の
生母や子ども、さらには側室の居室、「長局向」 と呼ばれる2階建
ての長屋などが何棟も立ち並び、部屋数は軽く100を超えていた
といわれています。掟は厳しかったようで、3代将軍家光の乳母で
権勢をふるった春日局は、ある時に門限に遅れ、門衛が掟の例外
を認めず、春日局は寒い一夜を門前で過ごしたという話もあります。

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「石室 (いしむろ)」
本丸跡の蓮池濠沿いにあるのが石作りの蔵です。文字通り、石で
組んだ室 (むろ=部屋) で、内部は20平方メートルほどの広さと
なっています。入口には扉を取り付けた穴があるので、耐火性に
優れた扉があったことがわかります。 表の石組には焼けたような
痕があり、本丸御殿が度重なる火災で炎上したときの焼痕と推測
できます。一見防空壕にも見えるため、抜け穴だとか、金蔵という
説もあるようですが、耐火性の必要なものを納める蔵だったので
はと思われることから、大奥御納戸の脇という場所柄から大奥の
調度品や文書類を収蔵する富士見御宝蔵と考えられます。

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蓮池濠側から見た 「富士見多門」 。(上) 蓮池濠に面する石垣の
上にあります。一方、東御苑側は、西側に面した天守台に向かって
左手の坂道を上った小高い場所に位置し、木々に囲まれています。
東御苑側から見た富士見多門です。(下)

「富士見多聞」
城郭の石垣上に建てられた 「富士見多聞」 は、正確な建築年代は
不明ですが、明暦3年 (1657)、明暦の大火で焼失した多聞を万
次2年 (1659) 頃に再建した可能性があるという説があります。
その後、関東大震災での損壊や昭和43年の解体修理を経て、現
在に至っているようです。江戸時代の江戸城本丸には,このような
多聞が各所に築かれていましたが、現存するのはこの富士見多聞
だけのようです。

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東御苑側の 「富士見多聞」 のある場所では、長い行列が出来てい
ました。(上) これまでは外観しか見ることが出来ませんでしたが、
一昨年から内部が一般公開されました。平日はすぐ入れる様です
が、土・日曜日ともなると混雑するようです。入る時は靴を脱ぎ、ビ
ニール袋に入れて行動します。(下右) 室内は写真撮影OKです。

日常的に公開されている東御苑の中にあるため、従来も外観を見
ることはできたが、外国人観光客の増加を目指し政府が進める国
の施設公開の一環として、新たに開放されることになったようです。
東御苑の公開日で、公開時間は季節によって異なりますが、午前
9時~午後3時半。入場料は無料です。月曜日と金曜日が休み。

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これが内部で~す。建物内部って意外と殺風景なものですよね。
室内は木材を組み合わせたシンプルな構造となっていて、天井の
高さは思ったよりも低かったです。内部中央には、江戸時代に敷
居の裏側に使われていた材木が展示されており、(下右) 古い大
工道具による仕上げ跡が確認できます。造りはしっかりしている感
じです。(上) 斜めの補強木材が目立つせいか思ったより古さを
感じさせません。補強木材は関東大震災後の修理時のもののよ
うです。(下左)

「多聞」 とは、防御をかねて石垣の上に設けられた長屋造りの倉庫
のことで、多聞長屋とも呼ばれていました。 鉄砲や弓矢が納められ、
戦時のときには格子窓を開けて狙い撃つことが出来ました。本丸の
周囲は、櫓と多聞で囲まれて万が一に備えられていたようです。日
本各地の城にあった多聞の中には、武器、諸道具、文書等の収蔵
庫として使われた例もあり、平時には多様な用途に使用されていた
ようです。

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蓮池濠から富士見多聞までの石垣の高さは、約19 mにもなる為
に内部の格子窓からは皇居の美しい景色が眺められます。格子窓
からは、普段は入ることができない皇居内の乾通りや、宮内庁庁舎
などを見ることができるのです。 四季折々に.秋の紅葉山の紅葉や
春の乾通りの桜など新しい眺望の場になりそうです。(下左) 窓は
引き戸になっていて、開閉ができ格子窓にガラスがはめ込んでます。
現代においては、雨風凌ぐためには仕方がないことです。富士見多
聞が築かれた頃は、徳川幕府によって統治された天下太平の時代。
あまり戦を想定する必要性もない可能性もありそうですが、その施設
が残っているだけでも、すご~いと思いませんか。

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細長い部屋とはいえ、次から次へと入場したら大混雑になります。
入場数が制限されていて、一組のグループが見学し終わると、次
の組が入るというシステムでした。待つのは大変ですが、おかげ
で戦国時代より取り入れられ、平時は武器庫や書物の収蔵庫と
なっていた 「富士見多聞」 の内部を堪能できました。

本丸御殿内の将軍の日常生活の場である 「御休息」 の近くに位置
している為に 「御休息所前多聞」 とも呼ばれていた 「富士見多聞」。
築かれた時には徳川の地位は安定しており攻撃に備える必要性が
なく、確認はできませんでしたが襖 (ふすま) が備えられていた形跡
がある事から、倉庫以外の用途があったと言われています。

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「松の廊下跡」
天守台に向かって左手の木立となっているところに、将軍との対面
所である白書院等がありました。忠臣蔵の刃傷事件で有名な 「松
の廊下」 の場所には、所在を示す碑が建てられています。(下)
周囲は木々に囲まれた静かな場所なので、散策の途中でゆっくり
休憩したい方が、近くのベンチに座って、当時江戸を騒がせた大
事件を想像しているようです。東御苑で必ず立ち寄る場所ですね。

「朝廷と幕府の儀式」
江戸幕府では毎年の正月に将軍名代として高家が京都御所に上
り、新年の祝賀を申し上げ、朝廷は答礼として朝廷と幕府の間を取
り持つ武家伝奏役の勅使が江戸に下向、将軍に拝謁して天皇の聖
旨、上皇の院旨を伝える行事がありました。この慣例は朝廷と幕府
の関係を密接に保つための重要な儀式であり、朝廷、幕府の双方
とも最大級の饗応を持って対応したといわれます。 この儀式を司る
高家筆頭が吉良上野介で、勅使饗応役は播磨赤穂藩主の浅野内
匠頭だったのです。松の廊下は、浅野内匠頭が吉良上野介に斬り
かかる刃傷事件が起きた場所です。殿中での刃傷はご法度であっ
たので、浅野内匠頭はその日のうちに切腹となりました。 その後、
赤穂藩は取りつぶしとなり、家臣たちは浪士となります。

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江戸城本丸の大広間から将軍との対面所である白書院を結ぶ L
字形の廊下がありました。これが 「松の廊下 (松之廊下再現模型
・ 江戸博物館)」 です。(上) 畳敷の廊下に沿った襖に狩野探淵
による浜の松に千鳥が乱舞する障壁画が描かれていたことから
「松の廊下」 と呼ばれた。刃傷松の廊下 (長安雅山画) (下左)

<松の廊下刃傷事件>
「殿中でござる!!」 「お放しくだされ、梶川殿!!」 という、あの
シーンです。元禄14年 (1701) 3月14日、京都からの使者 (勅使、
院使) を江戸城でもてなすための接待役を命じられていた赤穂の
藩主 ・ 浅野内匠頭長矩が、江戸城松之大廊下で高家 ・ 吉良上野
介に刃傷に及んだことに端を発します。この一件で加害者とされた
浅野内匠頭は即日切腹となり、被害者とされた吉良はお咎めなしと
なった。その結果を不服とする赤穂藩家老 ・ 大石内蔵助をはじめ
とする赤穂浪士47名は、紆余曲折の末、元禄15年12月14日未
明に本所 ・ 吉良邸への討ち入りに及び、見事その首級をあげる。
その後の浪士たちの切腹までの一連の事件を総称し、「元禄赤穂
事件」 と呼んでいます。欲に言う 「忠臣蔵」 です。

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「富士見櫓」
皇居坂下門右手奥に高くそびえる三重の櫓が、「富士見櫓」です。
こちらは東御苑内から見た富士見櫓です。(上) 高い石垣の上に
慶長11年 (1606) 三層の初代富士見櫓が完成。その後に起きた
「明暦の大火」 により天守閣とともに焼失。その二年後に再建され、
二度と再建されることがなかった天守閣に代わって、この富士見櫓
を天守閣の代わりにし、江戸城のシンボル的な役割を果たしました。

「櫓」 とは、城郭の隅や城門の上などに設けられた見張りや防御の
ための施設です。多聞と同様,平時には収蔵庫等,多様な用途に
使用されたようです。現存するのは、伏見櫓、桜田巽櫓、富士見櫓
の3ヶ所だけです。慶応4年 (1868)、幕府軍 (上野彰義隊) との
戦いで、討伐軍を指揮した大村益次郎は、富士見櫓から上野 ・ 寛
永寺の堂塔が炎上するのを見て勝利を確信したといわれています。

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どこから見ても美しいその姿から、「八方正面の櫓 」 とも呼ばれ、
江戸時代には将軍が時折、この櫓にのぼり品川の海や両国の花
火を眺めていたという。その風格と威容は、戦国の世を忍ばせる
貴重な文化遺産です。日本固有の歴史美 「富士見櫓」 は、江戸
時代の姿を幻想させてくれます。

富士見櫓前に広場が整備され、従来よりもより間近で櫓を鑑賞で
きるようになっています。苑内は緑豊かな雑木林に日本庭園や皇
室関連の施設、江戸城の遺構など歴史的な史跡も見ることができ、
国内のみならず海外からの旅行者も多く訪れます。 2018年3月
27日に入園したイギリス人で、開園以来の来場者数が3000万人
に達したようです。欧米の方は個人行動が多いと聞きますが、この
グループは団体客のようで、皆さんで写真に収まっていました。
「スミマセン、オネガイデキルマスカ」 怪しげな日本語で写真撮り
を何人もの方に頼まれて,パシャ。お兄さんは写真撮りの腕は確
かですから、皆さん大喜び。うふ ここでも外国の方の多いこと。

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「大手門 (高麗門)」 (下)
大手門は、江戸城の門の中で、大名が通った門として知られてい
ます。最初の大手渡櫓門をくぐると枡形と呼ばれる広場があらわれ
ます。(下右) 大名たちは、この枡形の広場で威儀を正し、馬を下
りて右手の高麗門を潜ったようです。(下左) この門をくぐると東御
苑の中を散策することができます。

日本史上最大の城郭といわれる江戸城。その大きさは一般的な
大名の70~100倍もあったそうです! さらに城内には威信を
かけて築かれた巨大天守閣があったとされています。というのも、
江戸城は将軍 ・ 徳川家の居城。豪華絢爛な構築物が建ち並び、
徳川家の力を世に知らしめた城郭だったのです。江戸時代の火
事や関東大震災、そして空襲などの影響で、残念ながら多くの
歴史遺産は焼失してしまいましたが、今でも壮大で威厳のある
石垣を見ることができます。緑豊かな都心のスポット皇居。史跡
巡りをしながら東御苑を、たまには散歩するのもいいものです。





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