一ヶ月に2回満月を迎える月を「ブルームーン」という。 そのブルームーンを見ると願い事が叶う・・・・。







いつも訪問して頂きありがとうございます。


締め言葉に 「感謝」 を

...2017/06/11 08:15...

突然ですが、
6月10日は何の日だったかわかりますか?
昨日の6月10日は 「時の記念日」 でした。
初めて知った! という方もいるでしょうか。
英語でも 「Time is money. (時は金なり)」 という
ことわざにもあるように、時間というのは誰にでも
平等に与えられた、二度と取り返すことのできない
大切なものです。

時ははるかにさかのぼり、天智天皇の時代。
天智天皇が日本で初めて設置した水時計、
「漏刻 (ろうこく)」 が時を刻み、 鐘を打ち鳴らしました。
日本初の時計が時を刻み鐘を打った日。
その日が6月10日だったのです。

楽しく過ごした思い出の時間と過ぎ去った時間の
尊さを考え、これから訪れるであろう未来の時間
を大切にしたいですね。

さて、うっとおしい梅雨の季節に、鮮やかな花を咲か
せて、気分を晴れやかにしてくれるのが紫陽花です。

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近所にも紫陽花が咲いていました。わあ~綺麗というほどでも
ないのですが、この時期に見かけると、そろそろ梅雨の時期か
なと感じさせる。小さい花がよりそって、一つの美を作り上げて
いるところに日本人らしい、相手を想い寄り添う気持ちという
のを連想させてくれます。

関東地方も梅雨入りしたようです。
この時期は雨や曇りの日など、すっきりとしない日は、
紫陽花の美しい姿に出会うと心もゆるみます。
紫陽花は、つぎつぎと色を変えてゆくので 『移り気』
という花言葉があるらしい。フランスでは 『元気な女性』
となるそうだ。アジサイのように色とりどりに未来の夢が
描けるような社会になってほしいですね。

華やかでありながら慎ましい” 紫陽花 ” を、
恋しい彼女の姿にたとえるなら・・・・
そう、あなたかも知れません。うふ
楽しい週末を・・・・・・。


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締めの言葉に 「感謝」 を。

職場で会議が終わり、休憩のひとときを仲間と
雑談していた時の事。同僚がちょとした残業を手伝って
もらうた後輩に 「突然悪かったね」 と、ねぎらうと 「いいえ、
とても勉強になり、ありがとうございました」 と思いがけなく
感謝され、改めて後輩を見直したと話していた。

一方、他に依頼した仕事が終わった時に 「忙しい中、
大変だったろう、お疲れ様」 と言うと 「はい、忙しくって
バタバタだったので本当に大変でした」 と返事した人も
いたという。人それぞれだけれど、珍しくぼやいていた。

「終わりよければすべてよし」 と言いますが、一つの物事
の締めの言葉が 「感謝」 で終われたらいいに違いない。
忙しくて大変だったかもしれないけれど、その中にも
「こんな発見がありました」 「すごくためになって、
ありがたかったです」 などと。

社内の旅行を企画した先輩が、いみくじも言って
たことがある。「終わった時に、いやぁ、疲れたけれど
楽しかったたよ!」 と言われると、やって良かったって
元気が出るけれど 「疲れた、天気も悪いし」 と文句
ばかりの人にはがっくりくるね」 と話した事がある。

言葉には、やはり思っている本心が声のトーンや表情に
なって、自然に相手に伝わるものです。お行儀よく相手に
愚痴を言うな、ということではないのです。それ以上に相手
に対する 「ありがとう」 の気持があるかないか、なのだと思う
のです。研修、勉強、進学、就職など世話になった人に、
どんな感謝の言葉を贈っていくかだと思います。

本当の気配りは人間性からにじみ出てくるものです。
仕事をするに当たって、まず心を磨くことも大事なん
ですね。「締めには感謝を」 は、人間関係を信頼に
導く土台なのかもしれない。

枕草子に 「よろずのことよりも、情けあるこそ、
男はさらに女もめでたくおぼゆれ」 というくだりが
あります。すべてのことに優先して、思いやりの心が
あることは男はもちろん、女にとっても素晴らしい・・・・。
そんな意味合いだろうか。

一日の仕事の終わりに 「お」 や 「さま」 まで付けて
「お疲れ様でした」 と言い交わすのが 「僕らの国」
ニッポンなはず。「お疲れ様」 に、たった 「一言」
の感謝の大切さを感じたしだいです。


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  「神田祭」  神輿 ・ 宮入 2017

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「天下祭」 として知られる神田祭に行ってきました。実は前日に行
なわれる神幸祭の方に行く予定でしたが、雨天のため諦めました。
実際には、雨天でも神幸祭は行なわれているのですが、ただ私が
行かなかっただけです。(笑) 神幸祭は、神田・日本橋エリアを巡
行し、大規模な行列の祭礼絵巻を繰り広げる神田祭のメイン神事。
翌日に行なわれた神輿宮入の方に行ってきました。圧倒されました。

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神田明神前の大鳥居がある場所に着いた時には、もう人と 宮入
する神輿でいっぱいでした。熱気と暑さでムンムン。混雑は予想
していましたが、神田明神付近で混雑するところは境内と参道と
鳥居の前付近だけです。これらだけが異様に混雑し、他は道路
も通行止めになっていて、特に混乱した感は有りませんでした。
祭囃子の音が心地よく聞こえ、神輿を担ぐ威勢のいい声が聞
こえてきました。やはりお祭りです。興奮してきました。

東京都心に初夏の訪れを告げる 「神田祭」。
神田明神への神輿・宮入ばかりでなく、神輿一行は、千代田区
神田・ 丸の内・日本橋・電気街秋葉原・神保町と都心のオフィス
街に繰り出し各地で賑わいます。特に秋葉原駅前の中央通りは
幾つもの神輿が担がれ、大変な賑わいだったようです。

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江戸時代より続く 「神田祭」 は、元和年中までは船渡御であった
と言われています。延宝年中までは毎年斎行されていたが、山王
祭 (千代田区 ・ 日枝神社) と隔年で斎行することになり、以後は、
今日までに2 年に一度、斎行されることが恒例となっています。
今年は本祭にあたり、神幸祭もあって華やかなお祭りになります。

江戸は東京になり、政権は薩長連合。「神田祭」は徳川将軍の祭り
ですから、こんな祭りは擁護するはずもなく、祭りそのものが低調に
なっていったようです。美しい文化財のような山車は、栃木や青梅
や鴨川などの関東各地の都市にどんどん売却されてしまいました。
そこで、小江戸と呼ばれる地方の祭礼文化が発展したようです。
江戸市民は、山車に変えて電線を潜れる神輿を神田祭に採用。
そして現代の 「神田祭」 は、神輿が中心となりました。このように
時代と共に変化してきたのが 「神田祭」 の文化です。

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「神田明神 (神田神社)」
平安時代の天平2 年 (730)、武蔵国豊島郡芝崎 (現在の千代田
区大手町将軍塚周辺) に創建された古社で、延慶2年(1309) に
平将門の霊を相殿に祀り、「神田神社」 と名付けられました。 時を
経、徳川家康が江江戸城改築に伴い神田台に、さらに江戸城 の
表鬼門に当たる現在地に移転しました。それ以降、歴代将軍の崇
敬も篤く、神田明神は江戸の総鎮守として庶民に至るまで人々の
崇敬を集めてきました。 神田明神の正式名称は 「神田神社」。
でも、江戸っ子は 「神田明神」 と呼ぶ。(笑) 「大己貴命 (だいこく
様)」 と 「少彦名命 (えびす様)」 に 「平将門命 (まさかど様)」 が、
祀られています。【縁結び】 【火伏せ】 【商売繁昌】 【勝運】 の御利
益があります。江戸に鎮座して1300年の歴史をもつ神田明神。

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「宮入儀式」
御社殿前に到着した氏子たちは、2 礼2 拍1礼の参拝をしたあと、
全員頭を垂れ、恵比寿様と大黒様から福鈴と打ち出の小槌での
お祓いを受けます。 その後、地区の総代より挨拶があり、一本締
で締めます。 「良い」 に通じる3 ・ 3 ・3 ・1 の手拍子が境内に響
きます。 皆様方、お手を拝借 「いよ~、シャンシャンシャン・・・・」。
無事に宮入を済ませ、担ぎ手の労をねぎらいます。興奮の宮入参
拝も無事に滞りなく・・・。さあ、地元へ戻るぞぉ! 手締のあと神輿
一行は随神門手前の脇道から町内に戻ります。参道は群衆で埋
まり、遅々として進みません。氏子町会の神輿宮入は、一日がか
りの難作業なのです。朝8時30分頃から始まり、最後の神輿宮
入りは夜の8時過ぎになってしまいます。正直、私などは、そこ
まで付き合えません。(笑)

「宮入り」
「神輿」 というのは、神様の乗り物です。お祭りの多くのパターンは、
神社で神様を神輿に乗せ、氏子地域を巡回し、神社に帰って神輿
から神様を降ろすという形をとります。その神社に帰ることを 「宮入
り」 と言うわけです。神社から出すときは、「宮出し」 といいます。

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「セイヤー」 の威勢のいい掛け声で気合の入った一団は、随神門
を潜って一気に境内へ入ります。その後も、色とりどりの半纏を身
にまとった氏子たちが神輿を担いで境内に入り、祭りは最高潮に
盛り上がっていきます。夏を思わせる強烈な陽射しが神輿に反射
する光景はまさに圧巻です。 一度に次から次へと神輿が宮入した
ら大混雑になりますので、各神輿の 「神輿渡御委員」 の方が本殿
と連絡を取りながら進行をさせます。神田明神近くの本郷通り湯島
聖堂前交差点から神田明神下交差点。巡回のゴール地点は神田
明神前ですので、多くの神輿がここで宮入の為に待機します。(下)
木々の生い茂っている所が、湯島聖堂になります。

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これぞ江戸の祭りという注目イベントが、この 「神輿 ・ 宮入」。
200基の氏子町会神輿が、おおよそ決められた時刻に神社へ練
り込み宮入参拝します。ふんどし姿の担ぎ手もいて、境内は 「神
田っ子」 の熱気と興奮でいっぱいになります。おみこしを担ぎ、上
下に揺すり、ワッショイ、ワッショイすることを 「もむ」 と言いますが、
「もむ」 という言葉には、いろいろな意味があります。ここでいちば
ん近い意味は、激しくゆすり動かす。大勢の人が入り乱れて押し
合う。 おもいきり元気よく、激しくゆすり動かす 「もむ」 ですね。

「江戸っ子だってねぇ」 「神田の生まれよ!」 「嬉しいね、寿司食い
ねぇ」 。神田を語らずして江戸は無し、というくらい切っても切れな
い縁。今回は、各町会の神輿を紹介しながら、昔の街の様子も紹
介してみます。江戸や明治時代に想いを馳せてみて下さい。

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「外神田一丁目 万世橋町会」  (上)  
万世橋の名前は、明治6年 (1873) 昌平橋よりもやや下流に架け
られた 「萬世橋 」 に由来し、日本初の石橋です。当時、武家地だ
った神田仲町と神田花房町は町屋となり、商人や職人が移り住む
ようになりました。神田花田町と合わせ外神田一丁目に変わり、現
在に至っています。電気街として有名な秋葉原も、この万世橋地
区内にあり、戦前からすでに電気部品やラジオなどを扱う問屋や
小売店があったようです。
「外神田四丁目 松富会」 (下左)  
江戸時代この地域は、武家屋敷以外に商人や職人の住居が立ち
並ぶ 「松下町」 「永富町」 と呼ばれる町屋があり、町名から一文字
ずつ取って新しい 「松富町」 が誕生しました。町の真ん中を走る
道は、江戸時代に将軍が上野の寛永寺へ参詣するときに必ず通
る道で、将軍御成の当日は沿道の家は火を使うことも許されない
ほど、厳重な警備体制が敷かれていたようです。
「神田中央連合 神田猿楽町町会」 (下右)
猿楽町は古来、芸術文化に関係の深い町です。「猿楽」 は今で
いう 「能楽」で、武士達に親しまれ江戸幕府の儀式の際に用いる
音楽、舞踊 に指定されました。 徳川家康と縁が深かった猿楽師
の人々の屋敷が、こ の一帯にあり 「猿楽町」 という町名が生まれ
たと言われています。文学では夏目漱石が青春時代に、この近く
に住み、町内の錦華小学校 (現お茶の水小学校) に在籍し、
秀才ぶりを発揮したといわれています。

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「外神田地区連合 神田五軒町々会」 (上)  
「五軒町」 の名前の由来は、江戸時代、この界隈に上総久留里藩
黒田家、下野黒羽藩大関家、安房勝山藩酒井家、播磨林田藩建
部家、信濃上田藩松平家と、5つの大名屋敷が並んでいたことか
ら名付けられました。明治維新の時に政府によって屋敷は召し上
げられ、この地は神田五軒町とかわります。 その後、人家が立ち
並ぶようになり、てんぷら屋や寄席などができ町は賑わいました。
「東神田地区連合 岩本町一丁目町会」 (下左) 
町の北側を通る 「金物通り」 の名前が示すように、かつては金物
問屋が軒を並べて、竜閑川を利用した木材の運搬とともに物流の
中核地でした。かつて町内を流れていた 「竜閑川」 は終戦後に埋
められ現在に至りますが、江戸の頃より変わらないのは、この川筋
を神田と日本橋の境界としていたことです。現在は千代田区と中央
区の区境となっています。
「東神田地区連合 神田東紺屋町会」  (下右)
江戸時代、この界隈は町人と武士の屋敷が混在している地域でした。
明治2年(1869)に、これらの町が合併して 「東紺屋町」 となりました。
「紺屋」 という町名は、江戸時代から明治時代にかけて、紺屋頭の拝
領地であり、藍染職人が住んでいて染物業が盛んであったことに由
来 します。非常に仲良くまとまった町会で、町会の仲の良さは神田一。

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「外神田地区連合 宮本町会」  (上)  
宮本町は、明治2年 (1869) に神田明神門前町となった後、明治
5年 (1872) には境内などの社地を編入して、神田宮本町となり
ました。江戸総鎮守のお膝元で生活することを、誇りとする住民の
心意気が形になった名前です。宮本町には、明治10年 (1877)
創業の 「開花楼」 があります。料理屋としての他に、当時として
は貴重な文化事業が再三開催されました。
「日本橋一部地区連合 室町一丁目会」  (下左)  
日本橋魚河岸、呉服屋、両替店が栄え、現在にまで至り、老舗と
なっている店も多く、商業・金融の中心地となっています。宝町一
丁目内にある 「三越」 は、延宝元年 (1673) に越後屋号で旧本
町一丁目に店を出し、「店前現銀無掛値 」 の看板を掲げ、現金に
よる正札販売商法と、切り売り商法の新商法によって成長しました。
明治37年 「三井の越後屋」 を二字につめて 「三越」 と改めたと
言われています。
「神田中央連合 小川町」  (下右)
古くは鷹狩に使う鷹の飼育を行う鷹匠が住んでいたことから、元鷹匠
町と呼ばれていたが、元禄六年 (1693) に小川町と改称されました。
五代将軍綱吉が 「生類憐みの令」 を施行、鷹狩を禁止したため改称
されたという話が伝わっています。 明治時代、小川町には西洋料理
店や ビリヤード場、小川町警察署があり、学生たちで賑わう街でした。

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神田明神で行われる 「神田祭り」 は、山王祭 (日枝神社)、深川
祭 (富岡八幡宮) と並ぶ江戸三大祭りの一つです。 江戸時代、
神輿をはじめ氏子町々より出された山車や附祭、幕府御用の御
雇祭りといった長蛇の祭礼行列が江戸城内、内郭内へ入り、徳
川将軍や御台所 (将軍夫人) が上覧し、大奥女中たちも見物し
たことから 「天下祭」 と称されていました。現在では2年に一度、
山王祭と交代で開催され、今年は本祭りというわけです。江戸
の天下泰平を祈願し、幕府公認の祭礼であったようです。

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「中神田十三ヶ町連合 神田須田町一丁目南部町会」  (上) 
江戸時代の町内には菓子屋や薬屋、塩や油を扱う問屋、神具や
仏具を売る店など、さまざまな商品を扱う店があったと言う。現在
の町内にも、東京都選定の歴史的建造物に指定されるような老
舗の商店が数多く営業しています。 かつて、須田町交差点の一
角で、銀座線の入口近くには 「立花亭」 という寄席がありました。
寄席は震災で焼けましたが、東京でも有数の寄席の一つでした。
「東神田地区連合 神田松枝町会」  (下左)  
江戸のころ 「お玉が池」 という広大な池があり、桜の名所で池畔の
茶屋の看板娘お玉は美人で、二人の男の間で悩み、池に身を投じ
てしまう。亡骸は池の畔に葬られ、そんな伝説から名が付きました。
そのゆかりの 「お玉稲荷」 もマンションの狭間にぽつんと現在も残
っています。周辺には江戸の文人や学者が多く暮らし、伊東玄朴ら
蘭方医達が、安政5年 (18581) 種痘館を設立します。お玉が池種
痘所が、いまの東大医学部の出発点と言われています。北辰一刀
流で知られる千葉周作が開いた江戸の三大道場 「玄武館」 も 「お
玉ヶ池」 そばにありました。坂本竜馬が通ったのは千葉周作の弟 ・
貞吉の 「桶町小千葉道場」 でした。
「東神田地区連合 神田大和町会」  (下右)
この地が 「大和町」 と呼ばれるようになったのは、享保年間の頃です。
内神田にあった大和町の人々が、ここに代地を与えられ移転してき
たため、大和町代地となりました。幕末のころには、この町から隣の
東竜閑町にかけて、駄菓子問屋が数百軒ほどが軒をつらね、ずい
ぶん賑わっていたと言われています。またここには、蝋燭やべっこ
う細工、箪笥などをつくる職人も多く住んでいました。

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「中神田十三ヶ町連合 神田鍛治三会町会」 (上) 
この界隈が鍋町と呼ばれていた理由は、江戸幕府の御用鋳物師
を務めていた、椎名山城が屋敷を構えていたためであると言われ
ています。鋳物師とは、鍋や釜をつくる職人のことです。鍋町に住
んでいたのは、このような御用職人ばかりではありません。紅や白
粉などの化粧品、傘、菓子、釘や打物などを扱う各種の問屋を
はじめ、馬具や武具をつくる職人まで店を構えて住んでいました。
「東神田地区連合 東神田豊島町会」 (下左) 
豊島という町名の由来は、町奉行が 「この一帯が属している豊島郡
には豊島村という地名がすでにあるが、それとは別に豊島町という
町名があってもいいだろう」 として名付けられたという説があります。
江戸時代、このあたりには「比丘尼横丁」や、髪油として美男葛の油
を売る店もあったことから俗に 「桂横丁」 と呼ばれた通りもありました。
明治になると旅館や砂糖商等も集まり、大変活気のある町会です。
「外神田地区連合 神臺会」 (下右)
この地は、日蓮宗の幸龍寺や曹洞宗の万隆寺の寺領でしたが、明
暦の大火 (1657年) 後、江戸幕府の火災対策の政策により、神田
神社の裏手も、この新政策に沿って、城内の御台所御賄方の武家
屋敷として再建されました。この地の住んでいた武士たちの希望も
あり、町内に 「町屋」 が作られ、以降、町人の町として発展を遂げ
ました。「神臺会」 の名称は、日露戦争戦勝記念の山車 「石橋」
の提灯に 「神臺会」 の文字となっていたため現在も、この名称を
町会名として使用しています。今年で123年の歴史があります。

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神田明神の境内は、ご覧のような状態。凄い人でしょう。
狭い境内は人で埋め尽くされ、そこへ宮入の神輿が入って来る
わけです。身動きが取れない上に、神輿が容赦なく動き回ります。
酸欠状態必至です。祭です・・・。まさに非日常の世界を楽しめる
二年に一度の神田祭です。「ゆっくり。ゆっくり。真っすぐねぇ」 誘
導すり係の声が飛び交います。一方、神田の各町内会でも神輿
が練りあるいて盛り上げて、宮入するわけです。終始こんな感じ。

神田明神の歴史は古く、西暦700年頃には神田明神の元になる
神社があったと言われています。 かの平将門公をお祀りし、広く
関東で崇拝される神社となりました。現在の場所に移動したのが
16161年。この頃から神田明神の名称を名乗るようになりました。
今年がご還座401年というのは、この場所に移って約401年と
いう事なんですよ。凄い歴史ですねえ~。

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江戸っ子にとってお祭りは血が騒ぐイベント。前日の神幸祭が厳
かに行われるとしたら、この日は彼らの威勢の良いセイヤ!セイヤ! 
が、一日中響き渡るということに。きらびやかな神輿を楽しみながら、
迫力ある勇ましい掛け声に圧倒されちゃって下さい。(笑)  江戸幕
府開府以降、代々の徳川家に保護されるようになり発展していきま
した。お祭りの山車が江戸城内に入り、将軍が見物されたという
「天下祭」 の異名もあるのですから、もう凄いの一言に尽きります。.

「江戸っ子だってね」 「神田の生まれよ」。「寿司悔いねぇ」。
ちなみに私は、神田生まれではありません。 _| ̄| ガクッシ

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今もなお神田、日本橋、秋葉原、大手町・丸の内など108の町々
の総氏神様として、伝統と創造を併せ持つ、これらの町々を常に
見守り続ける 「明神様」 です。そんな明神様を慕い敬う神輿が社
殿前に到着。突然、大歓声が沸き起こりました。 ムム、人気の神
輿か? と思ったのですが、よく見ると緑の半纏を着た女性に注
目しています。小池百合子東京都知事でした。(下右) 祭壇前
の階段に整列していた手古舞さんたち全員が振り向き、(下左)
観衆はスマホ手に大騒ぎなのです。こんなにも人気があるんだ
と呆気に取られてしまいました。(笑) 

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各町内会の持つお神輿が一斉に神社に集結します。前日の神幸
祭が優雅なら、こちらの神輿宮入は熱気が弾けんばかり。威勢の
よい掛け声が神田中に響き渡る様子は、粋そのものです。前日は
神田明神のお神輿が氏子各町を巡幸したわけですが、今度は氏
子各町の神輿が神田明神を目指します。とにかく神輿の数が多く、
一体、何基あるんだろうかと思うくらい後から後から明神目指して
坂道を上ってきます。鳥居の前の本郷通りは待機神輿で一杯です。
大小200超えの神輿、揃いの半纏を着た氏子たちの姿。これだけ
の数が集まるのは神田祭だけといえます。氏子たちの熱気あふれ
る雄壮な神輿宮入に圧倒される一日になります。

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神田明神境内には、二基の人形山車が展示されていました。
江戸三大祭は、「神輿深川、山車神田、だだっ広いが山王様」
と謳われたように、神田祭も元々は山車の出る祭りでした。

「桃太郎人形山車」  (上)
岩本町二丁目岩井会所有の 「桃太郎人形山車」。型式は江戸
単層型お太鼓山車の中間的な作りで、桃太郎人形の背後には、
桃に吹貫をつけた江戸初期の型式を引き継いだ 仕立てになっ
ています。右手に軍扇、左手に太刀の凛々 しい立ち姿。前髪た
ちの少年の初々しさと厳しい目力を持 つ武家の強さが同居する
清清しいお顔が上品な雰囲気を 醸し出しています。紅顔のその
表情は憂いに満ち、 まるで今にも微笑みそうでした。

「加茂能人形山車」  (下)
加茂能人形山車は、徳川上期の作で江戸時代の有名な天下
祭りに第十番に曳き出し、鉾山車のうち最も精巧優美なもので
あったようです。上覧の際、将軍家より再三褒章を賜り、また、
浮世絵版画に単独で山車の一枚檜として売り出されたのは、
この山車のみで、その華麗は他に比肩するものがなかったと
いう。大正12年関東大震火災により惜しくも烏有に帰した。
江戸時代そのままの姿を昭和30年に復元されました。

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「神田松枝町会の羽衣の山車」
江戸時代の神田祭では37台もの山車 (だし) が巡行したそうです
が、 現在は神輿が中心となっており、山車は再現されたものなど、
3台が神輿の渡御にあわせて巡行するに過ぎないようです。 神田
松枝町は、現在ほとんど姿を消してしまった山車を今も 大切に守
り伝えているわけです。今回、唯一宮入した山車です。

羽衣山車 (はごろもだし) は、昭和13年 (1938) に松江町町会が
造ったものです。戦時中は疎開していたため焼損を免れた。 町名
の 「松江」 と能の三保の松原の天女伝説 「天女の羽衣」 をひっか
けたものだという。山車は単層囃子台型で、人形 のみがカラクリで
上下したり、クルリと一周する自慢の構造になっています。(下左) 
後側には大太鼓が置かれ、後から歩きなが ら叩けるようになって
いるようです。

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ねじり鉢巻きキリリと締めて・・・。江戸っ子の 粋で鯔背 (いなせ) な
姿は、やはりこの鉢巻きからでしょうか。 (上左) 最近、神輿を担ぐ
女性の進出が著しいですが、鉢巻も女性に似合う結び方です。これ
は 「くわがた結び」 というそうです。昨今のお祭りギャル に、最も人
気のあるスタイルのようです。 祭りだワッショイ!ワッショイ! 威勢
のいい掛け声が聞こえます。 お神輿の進路を決まる役割の方が先
頭で誘導します。「お先棒を担ぐ」 とは人の手先となってものごとを
すること。特にお先棒の先端は 「華棒 (はなぼう)」 といい、神輿の
進路を決める大事なポジションのようです。(上右) 前日に神幸祭
が行われたのですが、途中から 「附け祭」 の行列も加わりました。
附け祭とは、曳き物 (ひきもの) と呼ばれた巨大なはりぼての人形。
人気漫画 「こちら葛飾区亀有公園前派出所」 が参加したようで、境
内に展示されていました。(下) この行列は江戸時代から続いてい
るそうで、当時も最も人気があったんだとか。江戸時代の人も現代
の私達も、こういうものに喜ぶところは同じなんですね。

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神田祭の本祭り。裏祭りが終わって、氏子の血が騒ぐのはもちろん
のこと、神田の街そのものが落ち着かない。祭りのもう一つの華で
ある 「半纏」 も花咲かせます。なかなかの魅力、そして各町会のオ
リジナリティが見えてきます。町会の揃えた誂え袢纏に袖を通す優
越感は、神輿担ぎ者の醍醐味なようです。 祭り気分に染まる感じ。

徳川政権の精神的基盤を支えた祭礼が、神田祭です。明治維新
の とき徳川慶喜が大政奉還して身をひいたのですが、一部の幕
臣彰 義隊が寛永寺に立て篭もりました。 江戸の人々は幕府軍と
新政府 軍のどちらを支持したでしょうか。 魚河岸の人々は260年
の恩義 のある徳川家びいきでしたから官軍に対して竹槍を持って
刃向か おうとしたのです。徳川様あっての江戸市民は、寛永寺に
立て篭 もった彰義隊を憐れんだといわれています。幕府の巧みな
宗教政策を含めて、巧みな政治手腕がそこにはあったのであります。
政治と宗教は切っても切れないということの例証でしょうか。

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恙無く立派に美しく神輿 ・ 宮入参拝を終えると、それぞれの地域
に静かに帰ります。神田界隈を練り歩くお神輿を見て外国人観光
客は興奮し、日本人の僕らも興奮。神田はこの日一日中、活気に
満ち溢れていました。 神輿宮入、おめでとうございます。

今や神輿には、セイヤ ・ ソイヤが主流となってしまった感じですが、
かつては現在でも頑固にその伝統を守っている、深川祭同様、「ワ
ッショイ」 であったといいます。和を背負う、和をもって平和を担ぐ。
和一処、皆がひとつになって、力を合わせることの意味のようです。
聖徳太子の 「和をもって尊し」。 ひとつの目的を達成するためには
秩序が乱れていてはいけない、と、「和」 を尊んできたのではない
でしょうか。何事も大事なことですね。

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江戸時代は武家社会ですから、通常は庶民が将軍の前に行くこと
などはできません。ただ、庶民が山車とともに江戸城内に 入ること
ができた神田祭を誇りとした伝統は今もなお受け継が れています。
「神田祭」 が終わり、浅草の 「三社祭」 も終わり、そして、日枝神社
の 「山王祭」 を迎え終えると、東京は暑い夏に向かいます。

  「 神前に 一本締の 祭かな 」






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