一ヶ月に2回満月を迎える月を「ブルームーン」という。 そのブルームーンを見ると願い事が叶う・・・・。






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「曲がり角をまがったさきに」

...2017/04/02 17:15...

四月 (卯月)
卯月の由来は、卯の花が咲く月 「卯の花月」 を
略したものという説があります。新年度または
新学期の時期で、学校 ・ 官公庁 ・ 会社などでは
入社式 ・ 入学式が行われる慌ただしい時期だ。
そして出会いの季節でもある。

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毎年この時期は、「1年生になったら」 と、桜花が祝うかのごとく、
タイミングよく咲いてくれています。小便小僧に会いにJR浜松町
駅で途中下車したら、4月はお決まりで、ピカピカの一年生の姿
でした。きっとそれまで、名札作りだのさまざまな準備にお母さん
の苦労があったのだろう。そんな苦労を感じ取れる子に育って
ほしいものですね。 もう一度、背中にしょいたいランドセル。

さて、アンデルセンの童話に 「父さんのすることはいつもよし」
というお話がある。自分でも思い出すたびに、面白くなってくる
ような気がする。

ある農民の夫婦がいる。
妻に父さんと呼ばれ、絶対的に信頼されている夫が、飼って
いる馬を市で何かと交換しようと思いつく。市への途中、馬を
雌牛、羊へと次々に交換し、ついに腐ったリンゴに変わる。
それでも信じあう夫婦に最後、金貨が舞い込むというお話だ。

父さんがいろいろと交換する場面に子どもは笑い、
大人は信頼で結ばれた夫婦の姿にひかれる。老いて読めば、
人生の素晴らしさをしみじみと感じられる。アンデルセンの
童話は人生で三度楽しめるという理由がよくわかる。

今日2日は、アンデルセンの誕生日だという。
デンマークの貧しい靴職人の家に生まれ、
ろくに学校に行かない落ちこぼれだった。
貧乏の悲しみ、恋の悩みや人生への懐疑を
通して描かれたその世界は深い。

いよいよ新学期。道徳を成績評価の対象などと考える
前に、子ども自身が読書から学ぶ機会を増やしてあげたい。
アンデルセンに限らず子どもも大人も童話や昔話の世界
から学ぶことは多い。2日は 「国際子どもの本の日」 でも
あるようだ。ならば、新学期を迎える人には、
たくさんの本を読む習慣をつけて欲しい。


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「曲がり角をまがったさきに」

先日、娘の机の本棚で目にしたのが 「赤毛のアン」。
「ちょっと借りるね」、そういって久しぶりに読んでみました。
『赤毛のアン』 を読んでとても印象的だったのは、
「曲がり角をまがったさきになにがあるのかは、
わからないの。でも、いちばんよいものにちがい
ないと思うの」 という言葉でした。

他にも、たくさんすてきな言葉があるのに、
なぜその言葉が私のなかに残ったのだろう?
自分なりに考えたとき、きっとそれは子どものころに
私自身もそう思っていたからだと気づきました。
知らない道を探検するのはワクワクすることだったし、
その先に何があるかは分からないけれど、
怖いという気持ちより好奇心のほうが勝っていた。

何か物事を始めるとき、どうしても不安が先に来ます。
大丈夫だろうか?出来るのか、失敗しないか、と
大人になると何かをやる前にたくさんの知識や情報が
入ってきて、安心・安全を求めて怖がることが増えてしまう。
試す前から諦めてしまったり、自分の力を自分で
評価してしまったりします。
全力でぶつかれば必ず 「自分にふさわしい結果」
が返ってきます。その “ 結果 ” によって 「変化」 がうまれ、
変化が 「成長」 につながるのです。結果が判らないから
『決断』 が必要なのだが、中々決断もしがたい。

後ろ向きな脳は、何事についても積極的な行動をとろうと
しないので、脳に刺激が与えられないという。そうすると、
脳の機能は低下し、性格はさらに後ろ向きになってしまう
という悪循環に陥るのです。反対に、前向きな脳は、
次々と新しいことにチャレンジしようとするので、脳は新鮮な
刺激を受けます。そうすると、脳は活性化し、いっそう前向き
な性格になる、という好ましい循環を起こすんだそうです。
ある分岐点を境にして、後ろ向きな脳は、ドンドン後ろ向き
になり、前向きな脳はさらに、前向きになるというわけです。

決断とは、「決める」 「断つ」。そして、「断つ」 には2つあって、
ひとつは、迷いを断つ。ふたつめは、退路を断つなそうです。
そして人生は、踏み切る、割り切る、思い切るの 「三切る」 だと、
入社したての頃、人生の先輩である上司に言われた言葉です。
踏み切ったらまずは割り切って一所懸命やってみなさい。
それでダメなら思い切ればいいじゃないか。
君たちは踏み切ったばかりで、もう思い切ろうとしているが、
それはまだ早い。もうしばらく割り切って続けてみるべきだ。
この言葉で原点に返って、仕事に打ち込む決意をしたものです。

NHK連続テレビ小説の 『花子とアン』 という
ドラマの主題歌は 「 にじいろ」 でした。

 これから始まるあなたの物語
   ずっと長く道は続くよ
     にじいろの雨降りそそげば 空は高鳴る

私たち大人は、子どもみたいに新しいものにぶつかっていく
勇気を、知らず知らずのうちに忘れてしまっているような気がします。
ですから、「曲がり角をまがったさきに・・・」 は、
私に久しぶりに勇気をくれた言葉です。
子どものときのような好奇心や、新しいことにぶつかって
いく勇気をもつことのすばらしさ、どんな状況でも希望を
もって頑張っていれば、きっとその思いは報われると思います。

子供向けの本なのに、娘が初めて自分から 「ほしい」 と
言った本なのに、大人が読み返して見ても、こんなに生きる
喜びと希望が湧きあがる。本を読むことは、自分をその本と
対峙させることです。自分の知識、経験、感性と目の前の
本に書かれていることとの対話なのです。

読書をすることで、読み手が登場人物の気持ちを考える
ことで、他者理解・多様な価値観を享受することができます。
主人公や登場人物たちの動きを追い、気持ちに触れる
ことで相手の考えや気持ちを察する力が身に付きます。
人の気持ちがわかるようになれば、人間関係の悩みを
抱えている場合、自分だけではなく相手の立場に
なって物事を考えることもできるようになります。

本というのは、先人たちの経験が集約されたものです。
そこには、彼らの人生で得た教訓や過去に犯した失敗
などが綴られているわけです。それを読むことで、
私たちは同じ間違いをせずに済むことになります。
真剣にぶつかっていくと、真剣に答えを返してもらえます。
どんな本でもやっぱり読書って大事ですね。
本を読むことの大切さを知った気がします。


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  「春日局のお墓 」 
         麟祥院 (東京都文京区) 
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湯島天神に出掛けた時、境内で近所のカメラ好きの方と遭遇。
帰りに近くの麟祥院へと誘いを受けて立ち寄ることにしました。
湯島天神から春日通りを本郷方面に向かって徒歩で6分くらい。
御存じ江戸幕府・三代将軍徳川家光の乳母で、大奥で絶大な力
を持った春日局のお墓があります。以前に撮った関連する写真
がありますので、それを交えて紹介します。

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地下鉄・後楽園駅の北側、春日通りの富坂交差点に礫川公園 (上)
があります。歩道の左側が公園で、右側が富坂 ・ 春日通りです。
湯島神社から続く通りを 「春日通り」 といいます。(下)

文京区 「春日」 の地名は、春日局が乳母として使えた3代将軍徳川
家光より拝領した土地に由来し、昔は春日殿町と呼ばれていました。
また春日局の菩提寺 ・ 麟祥院が湯島にあり、このように文京区は、
春日局と歴史的に深い縁があり、町名や 「春日通り」 (道路名)
など、春日局にちなんだ地名が今も残っています。

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東京都文京区にある礫川公園は、地下鉄丸ノ内線、南北線 「後
楽園」 駅から徒歩1分、文京シビックセンター前にある公園です。
明るく開放的な公園なので、子供連れのお母さんで賑わいます。

礫川公園の地域は、明治維新まで水戸徳川家の広大な所有地
でした。 明治維新により、敷地は他の大名と同様に明治新政府
に召し上げられ、この一帯は砲兵工廠となりました。戦後、都営
住宅、中央大学や戦没者慰霊堂 ・ 公園用地に分割されました。
一部は現在の東京ドームになっています。 「礫川 (れきせん)
公園」 の 「礫 (れき)」 とは小石のことです。 つまり 「礫川」 とは
「こいしかわ」 ということになります。 このあたりは小石川後楽園
を含めて、昭和39年まで旧町名の小石川町でした。公園内には
噴水、水路、花壇、木々が植えられ、よく整備されている公園です。
駅に近い植え 込みには、サトウハチローの 「小さい秋見つけた」
のモデルになった 「ハゼノ木」 や、作家 ・ 幸田文さんにゆかりの
ある都内にはあまりない 「ハンカチノ木」 があります。

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春日通りの富坂側の入口の近くに 「大奥 」でお馴染みの 「春日
局」 の像が礫川 (れきせん) 公園内にあります。

江戸時代に流布 (るふ) していた絵図をみると、現在の春日通りは、
江戸時代もほぼ同じ所を通っていたことがわかります。通り沿いには
旗本屋敷が並び、その間に町屋が点在していました。また、伝通院
(でんづういん) などの大きな寺院も少なくありませんでした。伝通院
には、2代将軍徳川秀忠の娘 ・ 千姫や徳川家康の生母、「於大 (お
だい) の方」、3代将軍家光の正室 ・ 孝子 (たかこ) らが埋葬されて
いる寺として知られています。明治時代に入り武家地が廃止されると、
春日通り沿いも市街地化され、明治41年 (1908) には本郷三丁目交
差点と伝通院前の間に市電が開通しました。2年後には大塚仲町ま
で軌道が伸びました。この路面電車は、昭和46年 (1971) に廃止
されるまで多くの人びとに利用されました。

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春日局 (かすがのつぼね) は、安土桃山時代末期から江戸時代
初期の女性で、徳川幕府三代目将軍、徳川家光の乳母を務め、
家光が父 ・ 秀忠の後継者となり、将軍職に就任するにあたって
大きな功のあった人物です。

昭和64年1月 (1989) より、1年間NHK大河ドラマ 「春日局」 が
放映されました。文京区ではこれを契機として 「文京区春日局推進
協議会」 を設立し、区民と共に区内の活性化地域の振興を図ること
を目的として種々の事業を推進し、本事業を記念して 「春日局像」
を建立することになったようです。 平成元年に建立されました。朝廷
から 「春日局」 という称号を賜って、従二位にまで昇叙した 「やり手」
です。当然、今に残る肖像は失礼ながら、こんなに美しくはなく、もっ
と迫力があったといいます。これはやはり、この時のドラマ化のヒロ
イン、大原麗子さんが影響しているものなんでしょうね。(笑)

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春日局の像は、本人と似ているかどうか定かではありませんが、
歴史上の有名人なので、さぞかし尊厳のある顔かなと思ったので
すが、凛々しい感じの可愛い顔をしていました。ただ春日局は幼
少期に病にかかり、顔に痘痕が残っていたともいいます。 詳しく
はわかりませんが、後添いに入った稲葉家ではうまくやっていた
様子なので、美貌よりは才知に長けた上昇思考の強いキャリア
ウーマンタイプだったのかもしれませんね。春日局 (福) が乳母
になったのは25歳ごろ、銅像も若さを感じさせる姿で、お局様と
いうよりお福様と呼びたいような像ですね。大奥総元締めにして
時の将軍徳川家光も頭が上がらなかった彼女の雰囲気をよく
表現した仕草と表情でした。台座付きで、扇を持った立像です。

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皇居は皆さんもご存知の通り、元々は江戸城でした。かつて江戸城
にあった本丸と二の丸 、三の丸の一部の跡地を整備して作られた、
約21万平方メートルの敷地が 「皇居 ・ 東御苑」 です。本丸跡は影
も形もなく芝生だし、天守閣跡は土台のみ、門や一部の建物・建築
物を除いてあまり遺構は残っていません。大奥と中奥を結ぶあの、
「上様の、おな~り~」 で有名な 「御鈴廊下」 は向かって右側、
地図で見ると石室の前あたりでしょうか。(上)

大奥の跡は、江戸城本丸跡 (皇居東御苑) の天守閣跡寄りにあり
ます。 (下右)  芝生が敷き詰められている天守台の南に広がる広
場です。今では全く面影もなくわからないです。大奥はドラマや映画
で知られるように、御台所と呼ばれた将軍の正妻をはじめ家族や女
性たちの生活の場でした。想像するしか無いですが、敷地面積から
すると、かなりの広さがあったように思います。天守台の上から眺め
ると、その広さを感じることができます。(下左) 芝生が広がる一帯
に女の争いの場があったと伝えられています。

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「大奥跡地」
皇居 ・ 東御苑内の本丸跡の芝生広場の東側に位置する場所に、
(上) 現在は特に建物や石碑等は残っておらず、大奥跡には一
応それを示す小さな表示板が立っています。(下)

大奥は江戸城本丸にありましたが、1863年に火災で焼け、幕末
の緊急時という事もあって再建は先延ばしとなり、そのまま明治維
新を迎えます。大奥と江戸城の中枢機能は西の丸に移り、明治天
皇も東京に皇居を移した時は最初江戸城西の丸を御所としました。
しかし、西の丸の御殿も明治6年に火災によって焼失し、往時の大
奥をしのぶものはほとんど無くなってしまいました。目を閉じて、当
時の情景を想像するしかないです。(笑) 現在江戸城西の丸は皇
居に、本丸二の丸三の丸は皇居東御苑となっており、皇居東御苑
は無料で一般公開されています。月曜日と金曜日が休日です。

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「井戸」
大奥の賄所か東長局調跡に残る井戸。(上) 御広敷の中でも広い
のは調理場で、井戸つきの板の間があったようです。かまどは6つ
あり、それで煮炊きをしたそうです。それにしても、井戸はさすがに
生々しく感じられます。調理場で働く男たちは下男を含め約140
名ほどいたようです。

天守閣前に広がる芝生とその周辺には、将軍の正妻や家族、女性
たちの生活の場であった大奥、中奥、表に分かれていた本丸御殿
が立ち並んでいました。中奥は政務を執る場所、表は公的儀式や
役人の執務を行う場でした。大奥は御台所 (正室) や側室、生母、
奥女中たちが生活する場であり、将軍の私邸でした。大奥でも御
台所が住む 「御殿」、奥女中たちの住む 「長局」、そして幕府の男
性役人が勤務する 「御広敷」 の三つに分かれていたようです。

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「麟祥院の山門」 (上)  
さて、湯島天神から徒歩で5~6分くらい、春日通りより少し奥ま
ったところに山門が建っています。山門は瓦屋根が葺かれた木
造の山門で、木の素材が黒光りしており風格を漂わせています。
境内に入ると前に大きな 「お堂」 が建っています。(下右) この
お堂は客殿と呼ばれるもので、比較的新しく鉄筋コンクリート造
です。客殿というお堂は、昔から禅寺には設けられることが多い
そうです。信者や檀徒の皆さんの集会所になっているのでしょう。
左手方面に境内が広がっており、綺麗に手入れされた木々が植
わっており、(下左) 都心の一等地にある寺院にしてはかなりの
広さです。周囲も繁華街ではなく住宅街なので、境内はひっそり
としており、時計の進みが遅く感じるような空間になっています。

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「天澤山 ・ 麟祥院 (りんしょういん)」 (上)
功なり名をとげた春日局は、隠居所として寺院を建てようと思い立
ちます。これを知った将軍家光は、願いをかなえさせるために本郷
湯島の土地を贈ります。土地を拝領し、寺院を寛永元年 (1624)
に創建され 「報恩山天澤寺」 と名づけられました。春日局は大奥
を辞した後、この寺に隠居し、1643年に65歳で亡くなりました。
天澤寺はそのまま春日局の菩提寺になり、春日局の法名にちな
んで 「天沢山麟祥院」 と改名されました。残念なことに戦災で消
失、現在の建物は戦後に再建されたようです。境内の周囲にから
たちの木を植えていたことから、別名 「からたち寺」 とも呼ばれ、
なんと夏目漱石の 「三四郎」 にも登場します。

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麟祥院の境内に 「春日局の墓はこちら」 という案内板がありました。
それをたどって行くと、墓地の奥に石の柵にかこまれた大きな墓が
ありました。後ろの方からガサガサと音がしてビビりました。春日局
が現れた~と思いきや、墓を訪れた年配の女性でした。ビックリした
~。思わず脅かすなよと叫びそうでした。(笑) 燈籠がいくつも立っ
ていて、由緒ある墓であることが分かります。

春日局は、幼名を福といい、父は織田信長を本能寺で殺した明智
光秀の重臣・斎藤内蔵助利三でした。父が処刑されるという苦難の
うちに人生のスタートを切った福は、天下が豊臣家のものとなり、幼
少期は周囲から 「謀反人の娘」 と見られながら育った。お福は母と
ともに京都の祖母の実家である三条西家に奉公に上がり、公家の
しきたりや教養を身に付けます。成人して母方の一族稲葉重通の
養女となり、小早川秀秋の家老であった稲葉正成と結婚します。
しかし、小早川秀秋が若くして亡くなった為に夫は浪人となりました。
お福は京都の母のもとへ身を寄せますが、二代将軍の秀忠に子ど
もが生まれ乳母を必要としていることを知ると、京都所司代の推挙
を受けて江戸へ下ることとなります。これには、夫のもとを離れる直
前にお福が四男を生んだばかりであったことも功を奏し、公家の下
で養育され生来の利発さが認められたからでしょうか。

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これが 「春日局のお墓」 です。「お局さま」 という言葉の語源とも言
われる春日局ですが、大きな権力を手にした理由には、やはり江戸
の政治を真剣に考えていたその姿勢があったからなのでしょうか。

戦国の乱世を生き抜き、その器量を徳川家康に見込まれ、将軍秀忠
の息子 ・ 竹千代 (のちの三代将軍 徳川家光) の乳母として採用され、
以降、お福は竹千代の養育に力を注ぐことになります。2年後に竹千
代の弟・国松が誕生。病弱で内気な竹千代に対し、利発で容姿端麗
な国松を秀忠とその妻 ・ お江 (於江与) は寵愛します。次期将軍に
長兄である自分を差し置いて国松をと願う両親の心中に心を痛めた
竹千代は、わずか10歳ながらに自殺未遂を図る。深く傷ついた竹千
代に、お福は根気強く向き合い実母以上の愛情で接しながら家光が
将軍職に就くため献身的に活躍します。

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墓の正面に立つと門扉の左側には、お仕えをした徳川家の三つ葉
葵の御紋と右側には横三本の紋章がありました。 これは福が三代
将軍家光の乳母になる前に嫁いでいた稲葉家の家紋です。(下右)

家光は病弱であったり内向的であったため、弟忠長が将軍の後継
者になりそう情勢になったりする中、必死になって家光を守ります。
忠長との後継者争いの際には、伊勢参りのふりをして、駿府に行き、
大御所家康に訴えました。これより家光は後継者になりました。また
家光が疱瘡にかかった際には、薬だちの誓いをしてまで回復を願い
ました。乳離れが済むとお払い箱になるのが普通ですが、お福は家
康にその力量を認められたことなどから長期に渡り乳母として江戸
に留まることになり、次第に将軍家の世継を育てることに大きな使
命感を抱くようになっていったようです。こうしたことから、家光に対
しても強い影響力をもち、大奥を統率し、次第に権勢を振いました。

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春日局の墓石は、無縫塔と呼ばれる上部が少し太い円柱状のもの
です。(上) 無縫塔は、当初は禅宗高僧の墓の形式でしたが、近
世以降は僧侶以外の一般人の墓にも使われるようになりました。
その無縫塔の上部と塔の下の基部には、四方に貫通した穴が設
けられていました。(下左) これは、春日局の 「死後も黄泉 (よみ)
の国から天下の政道を見通せるようにしたい」 という遺言に、衆議
して建立したものと言われています。春日局の強運と賢徳に、又墓
石に穴が通っていることから、「肖る」 とか 「願いが通る」 と江戸時
代より港間に伝えられてひそかに参詣する人が多くあったそうです。 
墓の至る所に稲葉家の家紋が見られます。(下右) 春日局の墓を
訪れる方が絶えずいて、忠臣蔵でお馴染みの泉岳寺のように、誰
かが必ず訪れている感じでした。歴史好きの方々が多いんですね。

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周りには春日局御廟所の碑や石燈があり、よく見ると寛永二十一年
九月十四日と記されています。春日局が逝去したのは寛永20年の
ことでした。春日局が亡くなった翌年に奉納されたのしょうか。実に
374年の歳月が流れているんですね。凄いですね。

明智光秀の重臣がお福の父です。明智光秀のために本能寺で命を
落としたのは、言うまでもなく織田信長です。その姪にあたるのが将
軍・秀忠の正室であるお江与の方で、その息子である家光の乳母が
春日局ということになりますから、まさに奇縁と言えるでしょう。家光
の妹の和子 (まさこ) は後水尾天皇に嫁いでいました。これを気遣
っていた家光は、朝廷との橋渡しをお福に命じ、名代として京都に
時の天皇に謁見させようとします。しかし本来、お福は無位の身で
あり、天皇に面会できる位ではありません。お福を三条西家の仮の
妹ということで宮中に入れることになります。後水尾天皇はお福に
従三位の位とその地位にふさわしい名前を賜ったのです。その名
こそが 「春日局」 でした。再び台命により上洛し、明正天皇より従
二位に叙せられます。従二位は北条政子に比定する位階です。

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寛永3年 (1625) に秀忠の正室 「江」 が亡くなると、 お福は大奥を
一手に任され御年寄という大奥最高の位を手に入れます。そして江
戸時代の大奥のいろいろな組織は、この 「お福」 の時代に定まるこ
とになります。大奥のみならず、将軍の権威を背景に大奥総取締役
として老中も上回る実質的な権力を握るようになりました。春日局は
晩年に大奥を辞してこの寺に隠居。権力者の 『春日局』 にも病気と
寿命はどうすることもできなかったようで、寛永20年 (1643) に病
に倒れ没します。享年65歳でした。その少し前に詠んだ、春日局
の辞世の句が残っています。

西に入る月を誘い
   法をへて今日ぞ
     火宅をのがれけるかな

このように、江戸幕府初期のころの体制安定につながる大きな業績
をあげた春日局ですが、その陰でさまざまなご苦労があったことでし
ょう。この辞世の句の中の 「火宅をのがれける」 という一節に春日
局の深い感慨がかいま見える思いがします。" 火宅 " とは仏教用語
で、「この世の、汚濁と苦悩に悩まされて安住できないことを、燃えさ
かる家にたとえた語」 でしょうか。あの OL の間で使われている 「お
局さま」 という言葉の語源とも言われる春日局ですが、高い教養を
身につけ、乳母として将軍家の役に立ち、戦のない世の中を作る
ために懸命に働いた彼女の生きざまは胸を打つものがありますね。

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春日局の墓の周囲には、春日局の夫 ・ 稲葉家の墓や大きな燈籠
がいくつも立っていていました。春日局は、稲葉家の出身ですが、
稲葉家も繁栄します。長男の稲葉正勝は老中となり小田原藩主と
なり、その子孫からは老中が何人も輩出し、幕末は、淀藩の藩主
として明治を迎えました。

あの時代に徳川の血筋な訳でもなく、ある程度武家の中での仕事
をしたことはあったにせよ、稲葉家に嫁いで離縁しながら、将軍の
乳母となり、ましてや天皇に称号までもらってしまう。 歴史上の人
物として名を残してしまうというすごさは、何だか魅せられてしまう
なあというのが正直な感想です。「うちの会社の大奥は」 とか 「そ
ろそろおつぼねさまのポジションに来ちゃったな」 と、それでも男
社会の中で女性がどのように生きていくのかということを、ずっと
先輩たちから手探りしながら、今の若い子たちにもつながってい
るいうことを思うと、現代に脈々と引き継がれて、今の世がある
感じがして感慨深いですね。

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「東洋大学発祥の地」  (上 )  「東洋大学」 (下右)
麟祥院の山門を入ってすぐ左手に、茶色の自然石に 「東洋大学
発祥之地」 と刻まれた碑が建っています。(下左) 哲学館は明治
20年に、この境内の一棟を借り私立 「哲学館 (東洋大学の前身)」
を井上円了によって創設されました。 「哲学館大学」 の名称を経て、
明治39年(1906) 「東洋大学」 と改称。 現在は、白山 (文京区)、
朝霞(埼玉県)、川越(埼玉県)、板倉(群馬県) の4ヶ所にキャンパ
スがあります。

【メモ】 井上円了 (いのうえ えんりょう)
東洋大学の創立者である井上円了は、安政5年 (1858) に新潟県
長岡市浦の慈光寺に生れました。10歳の時に明治維新を体験して、
その年から漢学を学び、洋学などを学びました。その後、創立間もな
い東京大学に入学しました。東京大学で若き円了の人生を変えた学
問が 「西洋哲学」 でした。哲学を学んだ目で改めて日本の学問を見
つめた円了は、「洋の東西を問わず、真理は哲学にあり」 と確信しま
す。哲学とは物事の原理・原則を探究する学問であり、あらゆる学問
の基礎となる――この考えから、29歳の円了は東洋大学の前身 「哲
学館」 を創立します。時代は欧米の価値観を求める文明開化。その
中にあっても、西洋・東洋双方の哲学を探究することが日本の近代
化につながるはず。そんな円了の信念が成し遂げた船出でした。
日本に多大な影響を与えた1 人といえるでしょう。大正8年 (1919)
に中国・大連で講演中に倒れ、61歳で逝去しました。

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明智光秀家臣の娘という立場で戦国の乱世を生き抜き、その器量
を徳川家康に見込まれて大奥を取り仕切り、後の三代将軍徳川家
光の乳母を任された女性・春日局の生涯は波乱な人生だったでし
ょう。それまで 「強い女」 「烈女」 のイメージが強かったのですが、
献身的に家光の母代わりになろうと生きた女性としてのその姿。
「お局さま」 という言葉の語源とも言われる春日局ですが、大きな
権力を手にした理由には、やはり平和な世を希求し、真剣に考え
ていたその姿勢があったからなのでしょう。彼女の辞世は、その
人生がいかに激しいものであったかを物語っています。墓の前
で両手を合わせずにはいられませんでした。 374年前へ合掌。





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