一ヶ月に2回満月を迎える月を「ブルームーン」という。 そのブルームーンを見ると願い事が叶う・・・・。






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「世のすす払い」

...2016/12/18 12:15...

12月になり、増々日が短くなってきました。
そして21日は冬至です。冬至にはカボチャを食べて
ゆず湯に入ってという風習が有名ですが、カボチャを
食べると金運アップになるという記事を見かけました。
ベータカロチンが多く含まれるので、体内でビタミンに
変わりやすいことから、風邪予防のためにということは
知っていたのですが、初耳です。 本当かな!
皆さんはご存知でしたか?

ちなみに、「ん」 のつく食べ物を冬至に食べると 「運」
アップになるのだそうです。カボチャは別名 「なんきん」
で 「ん」 がつく食材なんですね。あとは、みかん、うどん、
にんじん、れんこん、ぎんなん等、いろいろありますね。
これらを食べて 「運」 アップだなんて、食べない手は
ないですね! (笑)

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久しぶりに浅草へ行ったら相変わらず凄い人出。(上左) 日本有
数の観光地なのであたりまえですが、年の瀬といえ和服姿の人の
多いこと。(下) でも、いまいち着こなせない感じでした。それもそ
のはず外国の方が多数でした。仲見世の貸衣装で着物を借りて、
日本気分を感じるためらしい。もうすぐ本物の着物姿の日本人が、
この仲見世通り (上右) を埋め尽くすはずです。

さて、
もうすぐ新年かと思うと、過ぎて行った一年が一瞬の間で
あったように思えてしまいます。その一瞬の間にも、さまざま
なことがあったはずです。 でも、あと2週間は残っています。
過ぎてしまえば一年は短いですが、まだ来ぬ13日間は結構
長いもの。気を緩めずに残りも過ごしてゆかねばなりません。

そんなことを考えていたのに、一夜明けて、
今朝は早速寝坊しちゃった。 いわゆる二日酔い。(笑) 
残13日、まだまだ山あり谷あり、色々ありそうです。
風邪などひかないよう気を付けて・・・・・、
行く年を惜しみながら過ごしたいものです。

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「世のすす払い」

年の瀬、と言えば忠臣蔵。赤穂浪士が定番のひとつですね。
12月14日には泉岳寺で義士祭があったようです。
名場面の多い中で、必ず登場するのが大高源吾と宝井其角の
両国橋での場面でしょうか。大高源吾は四十七士の中でも、
とりわけ俳人として名高い人でした。討ち入り前日、大高源吾は
吉良邸の偵察に出かけます。すす払いの竹竿売りに扮装した
その姿を、宝井其角は両国橋の上で見かけます。

あまりに零落した姿に自分の羽織を与えます。橋の上から
隅田川の流れを見ながら、「年の瀬や、水の流れと人の身は」
と一句、投げかけます。この意味は、年月がたつと、人の運命
は大変変わるものだ。特に落ちぶれた時は、年末の時が余計
に身にしみる。水の流れは止まらず、流れていくように、
人の身も本当に分からないものだ、というものです。

それに対して大高源吾は、こう詠み返します。
「あした待たるる その宝船」。
明日になれば討ち入りは終わる。長年の願いがかなう。
吉良を討つことができれば最高だ。万一失敗しても、
皆で切腹するのだから亡き主君の元へいける。
ともかく、長年の念願であった本懐を遂げることができる。
「宝船」 みたいだ、というものです。

宝井其角は、この意味が分からず、その足で、俳諧の
指導をしている旗本 「土屋主税」 の屋敷へ行きます。
そして、この話をすると土屋主税 は、この 「付け句」 のなぞを
解くのです。宝井其角は大高源吾の句の意味を初めて知る
ことになります。土屋主税の屋敷は吉良邸の隣だったのです。

先日、職場の忘年会のあいさつで、上司がこの句にまつわる話を
され、その感想として七七で自ら 「年の瀬思う 世のすす払い」
と付け加えて話されました。迷走を続ける政治、与野党が対立して
きたカジノ法案、年金支給額の新たな改定ルールを盛り込んだ
年金制度改革関連法案。原発事故処理額がさらに国民の負担に
なるという。庶民の思う通りに進まない政治。そして足もとで再び
経済を覆い始め兼ねない米・トランプ次期大統領の行方。 現在、
日本は試練のときを迎えている。国としての求心力が失われ
つつある今、我々は何を目指して歩いていけばよいのか。

日本という国家そのものが衰弱してきているように思えて
仕方がない。何故こんな国になってしまったのだろうか。
幕末の不安定な日本を憂いた、あの坂本龍馬は、
「日本を今一度、洗濯いたし申し候」 と姉に手紙を書いた。
まさに、命を懸けて国を救おうとした若者たちの純粋な
利他の精神が、日本という国の丸洗いを可能にしたのです。
今一度・・・・・、「世のすす払い」 をして、
明日に希望を持ちたいものです。

余談ですが、江戸時代のすす払いは12月13日に行われて
いたようです。正月を迎える庶民の大事な行事だったそうです。
さて、2016年も暮れようとしています。皆さんの一年はいかが
でしたか? 今 「払う」 べ き 「すす」 は何でしょう。
「宝船」 はいずこに。なかなか庶民の願いは叶いません。
日々、お日様の温もりが感じられ、日本中にたくさんの
笑顔があふれることを、来る年に願いたいものです。

「あした待たるる その宝船」。


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 忠臣蔵 ・ 吉良祭 (元禄市) 2016

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12月と言えば歌舞伎の世界では忠臣蔵が定番です。でも歌舞伎
を楽しむ方法は、歌舞伎を観るばかりではありません。 歌舞伎の
演目にゆかりの深いところを歩く歌舞伎散歩も良いものです。10
日には吉良邸のある両国で 「吉良祭・元禄市」 があるというので、
歴史好きの友人に誘われて行ってきました。憎まれ役、吉良邸付
近を歩いてみましたが、「泉岳寺」 も外せないでしょうと、合わせ
と 「忠臣蔵」 にかかわる場所も回って来ましたので紹介です。
一日では回り切れなかったので翌日との2日間でした。疲れまし
たが、行く先々で同じような方に遭遇して、改めて 「忠臣蔵」 の
人気の程を知りました。

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「吉良邸跡」 として残る 「本所松坂町公園」 墨田区両国3-13-9
赤穂四十七士が討ち入りした、吉良上野介の屋敷はここにありま
した。この屋敷は浪士討ち入り後、没収されています。吉良邸は
広大なもので、2557坪の長方形の土地でしたが、この公園は七
十六分の1に過ぎないという事です。幕府の儀式典礼を司る高家
の格式を示すなまこ壁の長屋門を模した塀が、わずかに往時をし
のばせまています。尚、吉良邸付近は大勢の人で埋め尽くされ、
全景写真が撮れなかったので、以前に撮ったものです。

「吉良祭」
討入で義士同様、主君を守り命を投げ出して、犠牲になった20名
の吉良上野介の家臣達の供養として、昭和48年 (1973) より毎年
12月の第二、または第三土曜 ・ 日曜は、吉良邸跡の本所松坂町
公園周辺で 「吉良祭・元禄市」 が開催されるようになったようです。

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「吉良上野介像」 (上左 )  「吉良首洗いの井戸」 (上右)
「松坂稲荷大明神」 (下左)  「吉良家 ・ 家臣供養塔」 (下右)

現在の 「本所松坂町公園 (旧吉良邸)」 は昭和9 年、地元の有志
が発起人となって、屋敷の中庭にあった 「吉良首洗いの井戸」
中心に土地を買い取り、東京市に寄付、それを公園としました。今
は、ほんの小さな敷地に吉良上野介座像、邸内見取り図のパネル、
上野介の首を洗ったと言われる首洗い井戸、討ち死にをした吉良
家家臣の碑、上野介を祀った稲荷神社が残されています。凄く狭
かった上に、この日は大勢の見学者でもう大変でした。(笑)

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「元禄十五年の頃の吉良邸図」 (上左) 「前原伊助宅跡」 (上右)
「吉良邸正門跡」 (下左)  「吉良邸裏門跡」 (下右)

【本所松坂町公園図 (吉良邸)】  (赤印のホンの一部分)
吉良上野介の屋敷は、はじめ鍛冶橋の屋敷を拝領していましたが、
刃傷事件のあと、赤穂浪士が吉良屋敷に討入るという噂があり、本
所松坂町の松平登之助の屋敷を拝領し移り住みました。屋敷の表
門 (下右) は東側、今の両国小学校に面した方にあり、裏門 (下左)
は西側で、東・西・南の三方は周囲に長屋があり、北側に本田弥太
郎、土屋主税の屋敷と地続きになっていました。吉良邸跡として残
されているのは、ほんの一部分のみです。当時の吉良邸は2550
坪 (赤印)、母屋が40室、東西南あわせて百人余が住む警備長屋
もありました。
「前原伊助宅跡 (赤印の手前)」 (上右) 墨田区両国2-3 付近
前原伊助は、吉良家が屋敷替えで本所に移ると、吉良邸すぐ裏手
に 「米屋五平兵衛」 という名前で店を構え、邸内の情報を探ります。
行商も行って情報を得る一方、「安売り五兵衛」 と呼ばれ繁盛して
いたとのことですから、如才無いですね。江戸詰めの金奉行として
勤仕したため財政に明るく、これが後に商人に成りすます際に大
いに役に立ったという。 前原伊助宅は討ち入りの集合場所のひと
つでした。この日 「忠臣蔵歩きツアー」 の方達が次から次へと訪
れていました。ちゃっかりガイドを聴き入りました。(笑)

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【松之廊下刃傷事件】 刃傷松の廊下 (長安雅山画) (上)
「松之廊下再現模型 ・ 江戸博物館」 (下右)

「江戸城松之廊下跡 (皇居東御苑内)」 (下左)
松之大廊下は、江戸城本丸の大広間から将軍との対面所である
白書院に至る全長50m、幅4mのL形の廊下です。 畳敷の廊下
に沿った襖に狩野探淵による浜の松に千鳥が乱舞する障壁画が
描かれていたことから松之廊下と呼ばれているようです。皇居東
御苑のなかに石柱があります。

<松之廊下刃傷事件>
「殿中でござる!!」 「お放しくだされ、梶川殿!!」 という、あの
シーンです。元禄14年(1701) 3月14日、京都からの使者(勅使、
院使) を江戸城でもてなすための接待役を命じられていた播磨国
(兵庫県) 赤穂の藩主浅野内匠頭長矩が、江戸城松之大廊下で
高家 ・ 吉良上野介に刃傷に及んだことに端を発します。この一件
で加害者とされた浅野内匠頭は即日切腹となり、被害者とされた
吉良はお咎めなしとなった。その結果を不服とする赤穂藩家老 ・
大石内蔵助をはじめとする赤穂浪士47名は、紆余曲折の末、元
禄15年12月14日 (1702) 未明に本所 ・ 吉良邸への討ち入り
に及び、見事その首級をあげる。 その後の浪士たちの切腹まで
の一連の事件を総称して、今日の史家は 「元禄赤穂事件」 と呼
んでいます。欲に言う 「忠臣蔵」 です。

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「浅野内匠頭終焉の地」 (上) 港区新橋4-3117 日比谷通り
「浅野内匠頭」 (下左) 「血染の石 (泉岳寺)」 (下右)

「浅野内匠頭終焉の地」 は、新橋近くの日比谷通りにあり、
付近は長い間工事中で石碑は別の所に保管されていましたが、
やっと工事も終わり、現在は元の場所に新たに設置されています。
「血染の石」 は、浅野内匠頭が田村右京大夫邸の庭先で切腹
した際に、その血がかかったと伝えられている石です。

<浅野内匠頭・切腹>
元禄14年3月14日午後3時頃、刃傷に及んだ浅野内匠頭は護送駕
籠で江戸城平河門の不浄門より退出させられ、一の関藩 (岩手県)
田村右京太夫邸へ移された。その日、庭先の大きな銀杏の木の下
で切腹は執り行われました。35歳であった。家臣とて付添を許され
ず、無念のうちにこの世を去った心持ちはどのようであったのでしょ
うか。 辞世の句は、「風さそう 花よりもなお 我はまた 春の名残を
如何にとかせん」。この未練を残すような句が仇討ちを督促するよう
にも思えるのです。なお、この日の検分役で指揮官の大目付庄田
下総守は、かりにも5 万3 千石の一国一城の主を庭先で切腹させ
たかどにより後に罷免させられています。

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「南部坂」 港区赤坂2-22付近 (上左) 「大石内蔵助像 (泉岳寺)」
(上右)   「浅野土佐守邸跡 (氷川神社内)」 (下)

「南部坂」 の右側がアメリカ大使館宿舎で、警備が厳重です。
氷川神社内に 「史跡 浅野土佐守邸跡」 と書かれた立て看板があり、
浅野内匠頭夫人は、初代備後国三次藩主の浅野長治の三女でした。
父の死後、その跡を継いだ浅野長照の養女となり名は阿久里とし、こ
の地で育ちます。赤穂事件後、出家し瑤泉院と称し、生家である三次
浅野家に引き取られ、以後、正徳4年(1714)に死去するまで幽居し
ました。事件後に赤穂浪士の遺児の赦免に尽くしたと言われています。
「大石内蔵助」 が手に持っているのは連判状で、江戸城の方角で
ある東の空をじっとにらんでいる姿とのこと。

<南部坂・雪の別れ>
浅野家断絶後、浅野内匠頭の夫人瑶泉院は、生家である浅野土佐
守の下屋敷 (現 ・ 赤坂氷川神社) に住んでいました。元禄十五年
(1702) の12月14日は朝から雪が降り続いており、その中で討ち
入りを控えた大石内蔵助は瑶泉院に暇乞いにおもむきます。(下左)
が、吉良方に計画の漏れることをおそれて、ついに討ち入りのことを
告げずに去ります。 ” 嘆く瑶泉院、苦しむ内蔵助 ” となる訳です。
大石が帰りに下った南部坂が 「忠臣蔵」 でも有名な 「南部坂 雪の
別れ」 の場面です。

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葛飾北斎 「忠臣蔵討入」 (上) 「討ち入り後泉岳寺への経路図」
(下右) 「仮名手本忠臣蔵・十一段目 (三代目豊国画)」 (下左)

今から314年前、お江戸で仇討ち事件がありました。
播州赤穂浅野家の浪士四十七名が吉良上野介の屋敷に討ち入り、
その首級を挙げたというおなじみのお話です。折しも 現在放送中の
NHK土曜時代劇 「忠臣蔵の恋」 は、討ち入りに加われなかった女
性が主人公の異色作を放送中。そして、今年で開場50周年を迎え
た国立劇場では、歌舞伎 「仮名手本忠臣蔵」 で 「討入り」 し、引揚
げる 「花水橋引揚げ」 を上演中だ。歴史や歌舞伎ファン成らずとも、
年末は忠臣蔵の季節というイメージが強いのではないだろうか。

<討ち入り>
元禄15年12月14日、めざすは本所松坂町 「吉良上野介屋敷」。
赤穂浪士達は、本所林町の堀部安兵衛宅、本所三ツ目横町の杉野
十平次宅、本所二ツ目相生町の前原伊助宅に集結する。吉良邸の
門前に来ると、表門から入る 「表門組」 と、裏門から入る 「裏門組」
の二手にわかれて侵入した。表門組の大将は大石内蔵助。裏門組
の大将は、内蔵助の息子である大石主税だった。そして、その双方
が、両門から討入ったのでした。戦いが始まっても、肝心の吉良上
野介がなかなか見つからない。そして、夜が明ける直前の午前6 時
前に、ようやく小屋に隠れていた吉良上野介を見つけ、打ち倒すこ
とができた。こうして、仇討ちは成功した。激闘2時間の末、見事、
御首を挙げたのでした。

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「回向院」 (上左) 墨田区両国2丁目にある浄土宗の寺。
明暦の大火で亡くなった人々を供養するために幕府が建立され
たものです。 鼠小僧の墓や家畜 ・ 諸動物の供養塔もあります。
「永代橋」 (上右) 永代橋が架橋されたのは元禄11年 (1698) 、
江戸幕府5 代将軍徳川綱吉の50歳を祝したもので、現在の位置よ
りも100 m 程上流でした。関東大震災復興事業の第一号として現
在の橋が再架橋されました。赤穂浪士の吉良屋敷への討ち入り後
に上野介の首を掲げて永代橋を渡り、泉岳寺へ向ったという。
「一之橋」 (下) 
本所は、もともと低湿地であったため、幕府は洪水の被害を食い止
めるため、排水路を堀り、掘り出した土を陸地の補強に当てました。
排水路は隅田川にたいして縦、横に彫られました。一之橋は、縦の
代表格。竪川にかけられ隅田川から入って一ツ目といゆ橋の意味
で 「一之橋」 と名付けられました。一之橋は、赤穂浪士が泉岳寺に
引き上げる際に、最初に渡った橋として有名です。現在の橋は昭和
54年に架けられた橋です。

<引き揚げ>
見事本懐を遂げた一行は、上杉家 (吉良上野介の息子が上杉家に
養子に入り藩主となっていた) の反撃に備えるため回向院において
態勢を整えようとしたが、断わられやむなく両国広小路で追手を待つ
ことにした。なぜか追手は現れず、降り積もった雪を踏みしめながら、
未明の江戸の街を縦断して、主君の眠る高輪泉岳寺へと向かうこと
になり、両国橋へたどり着きます。意外にも一行は両国橋を渡らず、
遠回りになるのだが、そのまま一之橋を渡って隅田川沿いを南下し
ます。 毎月15日は、旗本・大名が登城する日になっており、その
行列などに遭遇するような、無用なトラブルを避けるための配慮だ
ったのだろうと思われます。四十七士は隅田川に沿ってさらに南下
を開始し、永代橋のたもとに到着します。

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「赤穂浪士休息の碑」 (上左) 「乳熊ビル (江東区佐賀1-1-15)」
(上右)  「ちくま味噌と甘酒」 (下右)

毎年好評で、元禄祭と討ち入りの日には浪士休息の地記念碑横
にて特設コーナーを設けて、「ちくま味噌」 や 「元禄浪士 あま酒」
を限定販売しているようです。(下左) 忠臣蔵ツアーのお土産に
購入される方が多いようです。私もその一人で 「ちくま味噌」 と
「甘酒」 を購入しました。(下右) 「限定販売」 には弱いな~。(笑)
地震で耐震性に問題があるため現在、新ビルを建設中。(上右)

【豆知識】
ちくま味噌店は元禄元年 (1688) に永代橋際で創業し、歌舞伎
「四千両小判梅葉」 に 「味噌はちくまにかぎるのう」 というセリフが
あるくらい有名で、創業以来320余年を迎え、宮内庁を始め今も
多くの食通に愛されています。甘酒は一切の添加物及び砂糖も
加えず、昔ながらの手造り製法で造り、風味豊かな自然の甘さが
あります。初代作兵衛は赤穂浪士の一人、大高源吾と宝井其角
を師と仰ぐ俳諧の仲間であったといいます。

<赤穂浪士休息>
一昨日に降った雪が凍りつき、12月の朝の6 時頃は相当寒かっ
たろうと思います。四十七士は隅田川に沿って南下をし、一之橋
を渡り、怪我人を駕篭に乗せ、万年橋を過ぎ、義士たちが永代橋
へ差し掛かったとき、ちょうど上棟の日だった乳熊屋味噌店では、
店主・作兵衛が一同を店に招き入れ、甘酒を振る舞い労をねぎら
ったといわれています。 ここで休息してから永代橋を渡り、高輪
泉岳寺 (港区) へ向かいました。

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「仙石伯耆守屋敷跡」 (上左) 港区虎ノ門2-9-16 
日本消防会館 (ニッショーホール)   
「説明表示板」 (下左)   「義士洗足の井戸」 (上左)

現在は、虎の門病院の前に日本消防会館が建ち、もと大名小路
といわれたこのあたりも、ビルが林立して当時の面影はありません。
わずかに消防会館の一角に史実を顕彰する記念碑があるのみで
した。 「義士洗足の井戸」 がビル内に 「四十七士を現代風にモチ
ーフした彫刻」 のモニュメントとが再現されています。義士が足を
洗う場面のようです。(下右)

<討ち入りの自首>
上野介の首を打ち取った義士たちが泉岳寺へ向かう途中、統領
大石良雄は副統領格の吉田忠左衛門と富森助右衛門の両名を
大目付仙石伯耆守邸に自首し討ち入りの顛末を報告させました。
他の義士たちは泉岳寺で主君の墓前にあだ打ちの報告を済ま
せた後ここに出頭し、後に細川、毛利、松平、水野の四家に預け
られました。浪士らのもっとも長い日がこれによって終焉しました。

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「泉岳寺」 港区高輪2-11-1 「泉岳寺・本堂」 (上)   「山門」 (下)

「泉岳寺」 は、慶長17年 (1612) に徳川家康が創建。寛永18年
(1641) の大火で焼失したが、徳川家光の命で毛利、浅野、朽木、
丹羽、水谷の5 大名により、現在の高輪の地で再建された。浅野家
も援助した縁で、泉岳寺は浅野家の菩提寺になっています。赤穂事
件で有名な浅野長矩と赤穂浪士が葬られていることで知られ、現在
も多くの参拝客が訪れる。また、毎年12月14日には義士祭が催さ
れます。 堂々たる佇まいの山門は、天保3年に再建されたもので、
二階部分には十六羅漢が安置されており、一階部分の天井には
江戸三龍の一つと言われる彫刻がはめ込まれているそうです。

<四十七士 ・ 泉岳寺に到着>
朝の6 時ごろ吉良邸を出発した四十四士は、10時頃ようやく泉岳
寺へ到着します。寺側は義士を堂内に招き入れ、食事や酒を振舞
ったという。この後、全員は仙石伯耆守邸へ向かい、深夜になって
から4つの大名家へ預けられます。全員が泉岳寺に帰ってくるのは
翌年2月、切腹を果たした後であったといいます。

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「赤穂浪士引き揚げの図・安藤広重」 (上) 「首洗い井戸」 (下左)
「義商天野屋利兵衛浮図碑」 (下右)

「首洗い井戸」 は、赤穂浪士が主君の墓前に報告する前、吉良上
野介の首を洗ったとする井戸です。本所松坂町の吉良邸にもやは
り首洗い井戸がありました。首を2 回洗ったということなのだろうか?
さらに、「義商天野屋利兵衛浮図碑」 がありました。天野屋利兵衛
は、元禄時代に熊本藩細川家と岡山藩池田家の大坂屋敷に出入
りしていた大坂の商人で、赤穂浪士に武器を用立てしたとされる。
町奉行により捕縛され使用目的を自白させるために拷問にかけら
れたが、答えずに討ち入りが成功した後にようやく自白したという。
芝居でも、役人の拷問に耐え忍びながらも、 「天野屋利兵衛は男
でござる」 と口を割らなかった人物だ。気付かない人が多かった。

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「播州赤穂浅野藩主 ・ 浅野内匠頭の墓所」 (上 ・ 下左)
「内匠頭夫人の瑶泉院 ( 阿久里) の墓」 (下右)

<主君へ仇討報告>
ついに四十七士は、主君の眠る墓前に首級を供えたのです。 この
快挙に江戸市民はやんやの喝さいをしました。この時代は、ご存知
犬公方様の “生類哀れみの令” で庶民はビクビク暮らしており、又、
貨幣改鋳という悪政によるインフレにも喘いでいたのです。この事件
は、そういう息詰まり状態を一挙に晴らした一大爽快事だったのです。
墓前に報告をし、焼香を済ますころには、噂を聞きつけた人々が泉
岳寺に押し掛け、大変な騒ぎになったという。人々は義士を讚え、
喝采を送った。中には差し入れをする人までいたようです。

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「伊予松山藩主松平隠岐守定直の三田中屋敷跡」 
(港区三田2-5-4 現イタリア大使館)

松平定直は赤穂浪士47名のうち10名の預かりを命じられた。この
頃、病床にあった定直は江戸城への登城ができず家臣を通じてこ
の命令を受けたという。元禄16年1月になって浪士達と会い、会見
の遅れの謝罪と仇討ちへの称賛を送り、「もっと大歓迎をしたいとこ
ろだが、幕府からのお預かり人であるためできない」 と述べている。
大石主税ら10名の切腹の地で、イタリア大使舘内庭の池泉は往時
そのままと伝えられています。庭の奥へ進むと、静かな林の中にそ
の記念碑があり、イタリア語と日本語でその史実が刻まれているよ
うです。その碑が昭和14年 (1939) に当時駐留していたイタリア
大使によって大使館内に建立されたという。命日には、歴代イタリ
ア大使が供養をおこなっているんだそうです。

大石主税、堀部安兵衛、中村勘助、菅谷半之丞、不破数右衛門、
木村岡右衛門、千馬三郎兵衛、岡野金右衛門、貝賀弥左衛門、
大高源五。松平家預かり十人。この地で切腹しす。

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「三河岡崎藩主水野監物忠之の三田中屋敷跡」 
(港区芝5-20-20)

浅野長矩が高家吉良義央に刃傷沙汰に及んだときには、赤穂藩
の鉄砲洲屋敷へ赴いて騒動の取り静めにあたったようです。赤穂
浪士9名の預かりを命じられ、彼らを三田中屋敷で預かりました。
熊本藩主細川綱利に倣って、水野忠之も浪士たちを賞賛。しかし、
幕府を憚ってか、6日後になってようやく浪士達と会見し、浪士達
を厚遇したようです。その後、幕命に従って切腹させました。場所
は、JR田町駅を降りて第一京浜国道を超えた向かい側 「慶応仲
通り商店街」 を少し入った右手にありました。飲食店街の一角と
いうようなところにひっそりと、忘れられたように残っていました。
「水野監物邸跡」 と書かれた港区の案内板があるだけで、一番
分かりにくい場所でした。

水野家は、奥田貞右衛門行高、茅野和助、神崎与五郎、間重
次郎、間瀬孫九郎、三村次郎左衛門、村松三太夫、矢頭右衛
門七、横川勘平の9名の預かりを命じられ、三田の中屋敷で預
かりました。この藩は細川家同様、義士を丁重に扱ったという。

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「長門長府藩主毛利甲斐守綱元の麻布上屋敷跡」
(港区六本木6-9-11 六本木ヒルズ内毛利庭園)

毛利綱元は江戸城にて命令を受取ると、藩士200名余りを仙石伯
耆守邸に向かわせ10人を引き取りました。護送の途中では、駕籠
の戸に錠をかけ、青網をかけるという扱いであり、上屋敷では長屋
に入れるなど、当初、赤穂浪士は罪人扱いされたようです。 ここ預
けられた10人の中に間新六もいました。間新六は、近親者から遺
骸引き取りの申し出があり引き渡しがされ、築地本願寺に埋葬され
ました。従って、間新六だけが唯一泉岳寺に埋葬されていません。
また、この屋敷では嘉永12年 (1849) に陸軍大将 「乃木希典」
が生まれ、幼年期9年をここで過ごしています。現在は、かの有名
な六本木ヒルズ内になっており、毛利庭園に記念看板が作られて
いました。池の向う側の建物がテレビ朝日です。

岡嶋八十右衛門、吉田沢右衛門、武林唯七、倉橋伝助、間新六、
前原伊助、村松喜兵衛、杉野十兵衛、勝田新左衛門、小野寺幸
右衛門の10人が討ち入り後、お預けとなり、この地で切腹しました。

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「肥後熊本藩細川越中守綱利高輪下屋敷跡」
(港区高輪1丁目 都営高輪アパート内)

細川綱利は、大石内蔵助ら17人御預けの命を受けると大藩の威力
と識見を以て優遇し、御預四家のうちで即日引見したのは細川家だ
けであったという。預かり人の部屋とは思えぬ庭に面した部屋を義士
達に与え、風呂は1人1人湯を入れ替え、さらに毎日の料理もすべて
が御馳走であり、大石らから贅沢すぎるので、普通の食事にしてほし
いと嘆願されたほどであったようです。綱利は幕府に助命を嘆願もし
たという。しかし、願いもむなしく赤穂浪士たちを切腹させるようにと
いう幕府の命令書が届きます。 このような細川家の義士たちに対
する厚遇は、江戸の庶民から称賛を受けたようで 「細川の水の (水
野) 流れは清けれどただ大海 (毛利甲斐守) の沖 (松平隠岐守)
ぞ濁れる」 と狂歌からも窺われる。これは細川家と水野家が義士を
厚遇したことを称賛し、毛利家と松平家が待遇が良くなかったことを
批判したものです。熊本藩細川家といえば、第18代当主が元総理
の細川護熙氏です。庭の一部分が保存されています。預り大名四
家のうち唯一切腹の場が残っている場所のようです。

大石内蔵助、吉田忠左衛門、原惣右衛門、片岡源五右衛門、間瀬久
太夫、小野寺十内、間喜兵衛、礒貝十郎左衛門、堀部弥兵衛、近松
勘六、富森助右衛門、潮田又之丞、早水藤左衛門、赤埴源蔵、奥田
孫太夫、矢田五郎右衛門、大石瀬左衛門。十七名、この地で切腹。

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「浅野内匠頭邸跡」 (中央区明石町10-1 聖路加看護大学)

泉岳寺へ引上げる浪士達が、永代橋を渡って中央区内に入り、
今の聖路加看護大学校舎横、暁橋の向う側を通り、西本願寺の裏
手を通過したという俗説があり、かつては主君の邸のあった方をふ
りかえりふりかえり通過したとの話も伝わっている。 浅野家断絶が
決まると、当然江戸屋敷も明け渡さなければならない。 浅野家の
家臣は数日のうちに、何のトラブルもなく粛々と明け渡しを済ませ
江戸市民の賞賛を浴びたという。 現在は聖路加看護大学が跡地
で、聖路加国際病院に隣接しています。浅野家の上屋敷は約9千
坪。そう大きくはないが、それでも大名屋敷というものはどこも広い
ですね。この地は福澤諭吉が蘭学塾を開きのちに慶應義塾となっ
た場所でもあるのです。近くに、「慶應義塾発祥の地記念碑」 も
建っています。また、芥川龍之介の生育地でもあるのです。

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「泉岳寺 ・ 墓地入口の門」 (上左)  「参道」 (上右)
「四十七士墓所」 (下左)  「線香」 (下右)

<泉岳寺 ・ 赤穂四十七士墓所>
赤穂事件の主役である浅野内匠頭長矩と大石内蔵助良雄以下
の四十七士が眠っています。参道の先に 「四十七士墓所」 がある。
墓所の入口で売っていた線香 (一把100円) を購入して、皆さん
お参りいたします。毎年、赤穂浪士が討ち入りした12月14日には
義士祭りが執り行われ、多くの人たちが赤穂四十七士のお墓を参
拝し、線香がたかれます。「墓地入口の門」 は、浅野内匠頭の上
屋敷の裏門を移したようです。私も線香を購入してお参りしました。
線香の煙の中での合掌は、心にジーンと来るものがありました。
四十八士と浅野内匠頭と夫人計50回も線香をあげてお参り・・・・
もう腰が痛くなって大変でした。(笑)

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四十七士の墓は、事件後の預け先別に分かれて配置されている。

赤穂浪士は一般に 「四十七士」 と呼ばれていますが、泉岳寺の赤
穂義士墓地には四十六人と萱野三平の供養墓、浪士の中で唯一
人切腹をまぬがれた寺坂吉右衛門の遺骸の埋葬を伴わない供養
塔を含め48基の墓塔があります。

泉岳寺に葬られているのは切腹して果てた四十六人と、唯一生き残
った寺坂吉右衛門の墓もやはりありました。寺坂吉右衛門は討ち入
り後、大石内蔵助の密命を受け、瑶泉院や広島の浅野本家等へ事
件を報告して廻り、のち江戸に戻って自首しましたが赦免され、麻布
・曹渓寺で83才の天寿を全うしたといわれます。寺坂の墓は慶応4
年 (明治元年・1868年) に供養のために建てられたもののようです。
本人は討ち入りを熱望したものの周囲の反対に遭い、討ち入り前に
忠孝のはざまで自刃した萱野三平の供養墓があり、遺骸を遺族が
引き取ったため泉岳寺には埋葬されていない間新六の供養墓は他
の義士の墓と一緒に建立されたようです。なお寺坂以外の浪士の
戒名はすべて最初の文字が 「刃」 が刻まれています。

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筆頭家老である大石内蔵助の墓には囲いがされて一番立派。

「大石内蔵助の墓」 (左) 享年45歳
播磨赤穂藩の筆頭家老。浅野家再興を図るも、その望みが絶たれ
た翌年、赤穂義士の首領として主君の敵 ・ 吉良上野介を討った。
自身は、幕法違反として肥後藩預けとなり切腹しす。物静かで飾り
気のない性格だが、内面は厚く人望があったという。
辞世の句。
  「 あら楽し  思ひは晴るる
        身は捨つる  浮世の月に  かかる雲なし 」
明治時代に日本にやってきたフランス人が、赤穂の花岳寺で、「我が
国の英雄ナポレオンは、自分の為に戦ったが、内蔵助は恩人の為に
命を捨てた。こんな人は世界にいない」 と言って、一文を残しています。

「大石主税」 (右) 享年16歳 
大石内蔵助の息子。刃傷事件のときは、数え年で14歳であり元服
前だった。幼少の折、殿様から武蔵野蒔絵の印籠をプレゼントされ
るが松の廊下事件の時に真っ二つに割れて不吉を感じたとか。
矢頭右衛門七は主税とは親友で、おたがい励まし合って心を磨き
合っていたといいます。 右側が義士の十三回忌供養碑です。
大石主税は、四十七士中で一番最年少でした。切腹のあと泉岳寺
に埋葬されて、お墓には若い女性が毎日のように、たくさんお墓参
りに訪れていたそうです。大石主税のお墓参りをすると、良縁に恵
まれるってことだったそうです。

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「菅野三平 ・ 大高源五 」 (左)
「菅野三平 (左側)」  享年37歳
早水藤左衛門と早駕籠で事件の第一報を赤穂へもたらした人。
道中、たまたま摂津・伊丹の故郷にさしかかったとき母親の葬列
に偶然にも出くわしたが 「非常の場合だ。駕籠屋、行け!母上!
なにとぞお許しくだされえ!」 と涙ながらにスルーしたエピソード
があります。仇討ちの連判状に名を連ねながらも、親に士官を勧
められ、忠義と孝行の板挟みに合い、討ち入り前に自害したため、
四十八番目の志士といわれ 「刃道喜劍信士」 と彫られたのが萱
野三平のものと言われている。
「大高源五 (右側)」   享年32歳
12月14日の吉良屋敷で茶会がある、という情報を入手した人。
俳人宝井其角とも交流があり、討ち入りの前夜、煤払竹売に変
装して吉良屋敷を探索していた源五が両国橋のたもとで、其角
と出会った際に詠んだ返し句はあまりにも有名です。松平家預
かりの浪士10人の最後に切腹の座につき、「梅で呑む茶屋も
あるべし死出の山」 の一句を残しました。介錯した松平家家臣
の宮原頼安は、著名な俳人でも殺さねばならない武士稼業と
いうものに嫌気がさし、武士を捨てて酒屋に転じたといいます。
「赤埴源蔵 (左側墓)」 (右)  享年35歳
討ち入りの日、雪の中を饅頭笠に赤合羽姿で、一升徳利をぶら
下げて義理の兄に別れの挨拶に行くが留守で、仕方なく対応に
出てきた女中に兄の羽織を持ってこさせ、羽織に向かっていとま
ごいをする。赤埴源蔵 「徳利の別れ」 は、芝居でお馴染みです。
実はお酒はあまり飲めなかったようです。討ち入りが成功し、い
ったん屋外に出たものの、再び吉良の屋敷のなかに入って火鉢
に水をかけるなどして、吉良の屋敷が火事にならないようにした。

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「堀部安兵衛 (右側墓)」 (左)  享年36歳
堀部安兵衛は、越後の侍の子でした。父親は浪人をし安兵衛が
14歳の時に亡くなる。彼は剣で身を立てようと江戸へ出て、剣客
堀内源左衛門の道場で修業していた。そんな折、友人が果たし合
いをするということを聞いて、八丁堀から高田馬場まで駆け抜いて
助太刀をした話は有名。その時の武勇伝が縁となって赤穂藩士 ・
堀部弥兵衛の娘へ婿入りし、浅野家の家臣となった。 江戸では
「けんか安兵衛」 で人気ものだったようです。四十七士のなかで
唯一 「決闘 ・ 討ち入り」 と2度の実戦を経験。義に厚い武闘派
で、仇討ちを強く主張した江戸急進派のリーダー的存在でした。

「矢頭右衛門七」 (右)  享年18歳
志半ばで亡くなった父の意志を受け継ぎ、吉良上野介への仇討
ちを心に決めるも、若すぎるので除外されるはずだったが、父親
の代理にと願い出て、血判のときは末席に加えてもらう。討ち入
りには、裏門組として参加。父の戒名をかぶっていた兜の奥に入
れ、亡くなる前に父がくれた腹巻をして討ち入ったという。 泉岳寺
のお坊さんが 「義士に女がいる」 と言われるほどの眉目秀麗の
美少年だったとか。病弱な母は足手まといにならぬようにと自害。

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「潮田又之丞 ・ 早水藤左衛門)」  (左)
「潮田又之丞 (左側)」   享年35歳
親戚筋に当たるため大石内蔵助の信頼が厚く行動を共にすること
が多かった。大石内蔵助が仇討ちを決意した事を同志達に伝える
べく江戸へ下向。吉良邸討ち入りでは裏門隊に属して庭で戦い、
本懐後、吉良の首を槍先に括りつけて歩いたとも伝えられています。
剣術にもたけ、その腕前は大石内蔵助に次ぐと言われていた。
「早水藤左衛門 (右側)」   享年40歳
刃傷事件のときは浅野内匠頭の参勤交代のお供をして江戸にい
た。萱野三平とともに事件の第一報をはやかごでたった4日半で
江戸から赤穂へ知らせた。 吉良邸討ち入りでは、表門隊に属し
弓矢で戦った。 弓矢にかけては赤穂義士のなかでも並ぶものが
いない、と言われたほどの弓矢の達人。 吉良家家臣たちも早水
の弓の命中率の高さに怯えたという。

「貝賀弥左衛門 ・ 岡野金右衛門 」 (右)
「貝賀弥左衛門 (左側)」   享年54歳 
討ち入りの意気込みをあらためて探るために血判状を返却して回
った。ある日、宿で泊まり客から泥棒騒ぎが起き、ある娘に容疑が
かかる。彼女は身におぼえの無いことから投身自殺をはかろうとし
た時に通りかかったのが貝賀弥左衛門。「天の神には慈悲がある。
目に見えないがみほとけには情がある。ぬれぎぬはいつか晴れる
から待つのだ」 と被害額3 両を立て替えてくれたが、泊まり客の勘
違いだったとわかる。娘は父親と江戸まで名も知れぬ侍にお礼を
言うため旅に出ます。そして恩人の侍を討ち入りから引き上げる
赤穂浪士の中に見つけたのでした。
「岡野金右衛門 (右側)」   享年23歳 
刃傷事件後は江戸で吉田忠左衛門の酒屋の手代をやっていた。
この酒屋の客の中に岡野を慕う娘さんがいた。吉良邸をてがけた
大工の棟梁の娘だったのです。好きな人の為ならば、と吉良邸の
絵図面を手渡します。「色仕掛けじゃなく、ほんとに君のことが好
きだったんだ」。「恋の絵図面取り」 で有名な金右衛門さんです。
結構な美男子で、仇討ちが成功した後に一人残される妹のこと
を心配する心やさしい若者でもあったのです。

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300年以上たった今も、線香の煙が途絶えたことがないといいます。
ひとりが線香をあげ、消えるとまた誰かが訪れて線香をあげる。この
日もそんな感じで線香の煙が立ち込めていました。そっと花束が添
えられているお墓もありました。 義士祭の時はあたり一面、線香の
煙で周りが見えないほどになるといい、墓所に着くまでも大変とか。

< 切腹 >
討ち入りの後、間新六は毛利藩にお預けの身となり、謹慎していま
したが切腹の処分となりました。当時の切腹は、形式化されており、
実際には介錯人が首を落とすことで切腹が成立していました。間新
六は形式的な切腹を嫌ってか、ただ一人、古式の切腹の作法に基
づき、三宝の小刀を手に取るやいなや刀を腹に突き立て、自らの意
思と行為で腹を切り裂いたという。それを見た介錯人は、慌てて首
を切り落としたようです。この様子を見た役人は、その潔さを褒め讃
えたとされる。新六さんは、本当におなかを刺して切腹したんです。
当時ではなかなか考えられないことですが、まわりはみんな 「スゲ
~人だな!」 って感服したんでしょうね。。時流に流されることなく、
自らの苦痛を顧みず、本来の切腹作法に従って切腹を果たした
ことは、他に対する無言の教訓になったことと推測されます。

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「俵星玄蕃・道場跡 (国技館前)」 (上左) 
吉良家の近所 (横網町) で道場をやってる槍の名士で、腕を見
込まれて吉良家側から用人になることを進められるが、これを断
ります。討ち入りの夜、陣太鼓の音を聞いて飛び出した玄蕃は、
両国橋で上杉勢を単身、通せんぼする。諸説あるが真相は謎。
「浪曲」 に出てくる 「おおー蕎麦屋か!」 のソバ屋とは、赤穂浪
士 ・ 杉野十平次のことです。
「大高源吾の句碑」 (上右) 両国橋付近
両国橋東詰の橋台地の公園の一角に赤穂浪士のひとりであり、
室井其角の弟子と伝える大高源吾の 「日の恩やたちまちくだく厚
氷」 の碑があります。 「おかげさまで、長年の恨みも氷が溶ける
ようにとけました」 という意味でしょうか。忠臣蔵ツアー客がいっぱ
い押し寄せていました。ここも欠かせないコースなのでしょうね。
「堀部安兵衛碑」 (下左) (中央区八丁堀1-14 亀島橋のたもと) 
赤穂義士・堀部安兵衛は、当時の水谷町 (現在の八丁堀一丁目)
に居住し、赤鞘安兵衛と称し、剣道の達人として知られていま した。
元禄7年、有名な高田馬場の仇討ちで、彼の武勇は江戸中に伝わり
ました。昭和44年、八丁堀一丁目町会によって碑が建立されました。
「間新六供養塔」 (下右) 築地本願寺境内 
討ち入りあとの引き揚げの途中、通りかかった菩提所の築地・本願寺
に自身の供養を願い、五両のお金と共に槍を境内に投げ入れたとの
伝承があります。その槍は非公開だが現在も本願寺に安置されてい
るようです。 間新六の遺体は遺族が引き取って築地本願寺に葬られ、
泉岳寺には供養碑が建てられています。享年24歳

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1702年12月14日 (旧暦) に起きた、赤穂四十七士による本所
松坂町 (現・墨田区両国3) の吉良上野介・屋敷への討ち入り事
件から314年目にあたり、両国を中心にさまざまな 「忠臣蔵」 イ
ベントが開かれました。

毎年12月第二週の土日の二日間、討ち入りの舞台となった、吉良
邸跡地を中心に「吉良祭」 「元禄市」 が開催されます。討入で義士
同様、主君を守り命を投げ出して、犠牲になった20名の吉良上野
介の家臣達の供養として、昭和48年 (1973) より 「元禄市」 とあ
わせて開催されているようです。町会や地元企業の人たちが出店
して、バザーが開かれる 「元禄市」 もあるほか、赤穂浪士が歩いた
道をたどるツアーも企画されています。例年、全国各地から観光客
など大勢の人が訪れるそうです。私もこの日、寒かったので 「元禄
そば」 (下中) を食べて甘酒を飲んで温まりました。 あっ、本場の
「ちゃんこ」 も食べました。近くに相撲部屋が沢山ありますからね。

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同時に開かれる 「元禄市」 では衣料品や日用雑貨、観光コーナー、
ちゃんこ屋台、野菜の直売など80店舗を超える露店が立ち並び、
和太鼓演奏などなど見所満載で多くの人で賑わっていました。元
禄汁、甘酒などとても美味しくて冷えたからだが温まりました。甘
酒の接待や振舞酒にによる、歳末助け合い募金を行うなど、年末
の風物詩となっているようです。とにかく 「忠臣蔵」 ツアーよろしく
各史跡を回る人が多かったです。通常よりかなり安いらしく、多く
の人々が押し寄せていました。通路は人でいっぱいでした。

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大石さんと吉良さんに扮した方がいたので、お願いしたら気楽に
写真を撮らせて下さいました。314年の時を超えて、こうして一緒
に写真に収まる何て、当のお二人も思っていなかったでしょうね。

ここ、吉良邸の地元では吉良びいきの人も少なくありません。
「いい殿様だったんだよ」 と熱弁をふるいます。実際、そういった
記録は残されています。カッとなって前後を忘れて吉良上野介に
斬りかかり、お家は断絶、多くの家臣を路頭に迷わせ、ついには
切腹にまで至らしめた浅野内匠頭こそ、あまり褒められた主君で
はないのかもしれません。とはいえ、そこは勧善懲悪の芝居の
世界。判官びいきで仇討ち物の好きな日本人好みのこのお話は、
芝居に映画にと語り継がれています。地元では立派なお殿様だ
ったという吉良さんも、こんなにハッキリ悪役にされてしまっては、
なんだか可愛そうな気もします。「俺が何をしたっていうんだ~」
そんな叫びも聞こえてきそうです。

いかがでしたか? これが世にいう 「忠臣蔵」 です。
東京って、本当に歴史の宝庫ですね。





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風船に乗せてとばします
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