一ヶ月に2回満月を迎える月を「ブルームーン」という。 そのブルームーンを見ると願い事が叶う・・・・。






いつも訪問して頂きありがとうございます。


「耳をすませば」

...2015/07/12 08:30...

年に一度だけ会う事が出来るという七夕。
会いたくても、会えない・・色々な通信手段の発達した
現代ではなかなか想像しがたい事ではありますが、
永遠に語り継がれてきたこの恋物語。大切な人の存在を、
そしてその人への想いを、初心に返って今一度振り返る・・・・。
七夕は、そんな一日。

星の夜に 誰そや小川を 渡る音

正岡子規が明治26年に詠んだ句だそうです。
遠くの下駄の音と心地よい小川の音とが聞こえて
きそうで心が静かになります。7日の日に夜空を見上げ、
天の川物語を期待したのですが、東京は残念ながら
見られませんでした。織姫と彦星は会えたのでしょうかね。

「近頃、ちっとも晴れないな」 と、連日ぼやいていた声が、
天に届いたのか、週末は久しぶりに太陽と青い空が顔を
のぞかせました。梅雨の合間の貴重な晴れ、晴れです。
たまにはお日様を拝みたいという願いが通じたのでしょう。
でも、さすがに7月ですから、晴れると 「暑い夏」 の日です。
東京は暑すぎる夏日でした。

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かみさんが実家の母と浅草へ、四万六千日参りに行って祈祷札
「黄札」 と 「雷除札」 を授与されて来たようです。 境内は多くの
参拝客で溢れ、凄い人出だったそうです。

さて、願いが通じたといえば7月10日は、「四万六千日(しまんろく
せんにち)」 という観世音菩薩の縁日でした。 この日に参詣すると
普通の日に参詣する四万六千倍の御利益があるとされています。
四万六千日と一口に言ってもピンと来ないと思いますので、これを
年数に直すと、  46000日 ≒ 1266年にもなります。
126年というと現在の長寿世界一の方が生まれてから毎日お参り
したとしても、まだ足りないほどの期間。ちょっと話が大きすぎる気
がしますね?この四万六千日ですが、どこからこの四万六千という
数が出てきたのかはよく解りません。

一説には、一升のお米は46000粒であることから、一升 → 一生
とかけて、一生分お参りした価値があるからともいわれますが、なん
だか後付け解釈のような気がします。 本当は、別の何かの理由が
あるのでは無いかなと思いますが、よくわかりません。

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9日と10日の2日間に限り、黄色の掛け紙の祈祷札 「黄札」 が特
別に授与されるようです。(左) もう一つ、四万六千日に授与され
る 「雷除札」。(右) 「雷除 (かみなりよけ)」 は、江戸の昔、落雷の
あった農家で 「赤とうもろこし」を吊るしていた農家だけが無事であ
ったことから、以後に 「雷除」 として赤とうもろこしが売られるように
なり、明治初年に不作が原因で赤とうもろこしの出店ができなかっ
たので、人々の要望により 「四万六千日」 のご縁日に 「雷除」 の
お札が浅草寺から授与されるようになり、今日に至っているという。

この日、赤く実りかけたホオズキの鉢植えが露店に並べられ、
東京・下町の夏の風物詩 「ほおずき市」 も開催されていたようです。
一日参拝するだけで、四万六千日分お参りしたのと同じだなんて、
太っ腹な観音様ですね。(笑) 

娘が 「日々是好日」 ってどんな意味と聞いてきた。読んで字のごとく、
毎日がよい日であるという意味。現実には、良いことも悪いことも様々
に起こるのが私達の日常です。 様々なことが起こっては消えてゆく
この日常をあるがままに受けとめ、良い時も悪い時も、どんな時も
ひたすらに自分なりのベストを尽くし続ける。神頼みよりも自分で
努力することを忘れてはいけない。今週も頑張りましょう!


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「耳をすませば」


ラジオをよく聴いているという人に 「テレビは?」 と
聞くと、「見ません」 とおっしゃる。 なぜ? 
もう一度聞くと、「うるさいでしょう」 という一言が返ってきた。
テレビを消すと、ほっとすることがある。
その感じを口にすると、その人は深くうなずいていた。

テレビとラジオでは特性が異なる。
利用価値について意見が分かれて当然だが、最近、
こんな体験をした。テレビの歌番組でナツメロが流れていた。
歌手が出てくるたびに、「老けたなあ」 とか 「やせたなあ」
とか、「相変わらず派手だなあ」 などと余計なことが気になって、
肝心の歌に集中できない。で、目をつぶってみた。
ものの数秒で歌に集中することができたばかりか、その歌が
はやっていた時代模様や、当時の自分までよみがえってきた。

以来、時々テレビの歌番組で目を閉じて聴いて
みたりするが、視覚と聴覚の双方をフルに働かせる
ことは難しいのか、こんな体験もある。

高倉健さんが好きで、健さん主演の以前の名作 「遥かなる
山の叫び声」 などは、ビデオでも何度も見ている。
筋はもとより、健さんのセリフ、その時の場面も頭にきっちり
入っているが、ある時、ビデオをかけたまま目を閉じ、
耳をすまして驚嘆した。

なんと山田洋次監督は、映画の舞台となった北海道は
根室原野の牧場周辺の音をじつに丹念に収めていたのだ。
雨や風の音はもちろん、朝な夕なの小鳥やカラス、
鶏や牛の鳴き声、馬のいななきなども収め、夏のヒグラシ、
秋の虫の音と季節の音もぬかりなく入れていた。

単に映像に目をやっていただけでは気付かなかった
音の織り成す牧場の一日と、春夏秋冬の原野の移ろいを
細やかに表現していたわけで、さすが山田監督!
と、うなる思いでした。

高校の教師をしている友人が、授業で生徒たちに
5分間目を閉じてもらい、その間に気付いたことを
全部書き出しさせたことがあったという。
その一つ一つは彼ら自身の驚きと発見に満ちていて、
体内の鼓動と生命の不思議や指のすきまを通る風まで
書く生徒もいたという。

現代人は視覚に頼り過ぎだといわれる。
時には目を閉じ耳をすますひと時を持つのも大事な気がする。
呼び覚まされる感覚にハッとされることもあるのではなかろうか。
たまには日常を離れて、静かな場所で沈思黙考し、
時をゆっくり休むのもいいかも知れない。



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 「菖蒲園」   ― 小石川後楽園 ― 

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友人から知り合いの外国の方が、日本の庭園を観たいというので
付き合ってくれないかと誘われ、お供したのが小石川後楽園。
水戸徳川家の江戸上屋敷内につくられた日本庭園 (大名庭園)
であり、国の特別史跡及び特別名勝に指定されています。
訪れた時は、ちょうど菖蒲が見ごろでした。久しぶりの訪問。

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「小石川後楽園・西門」 (上)
東京ドームに隣接する小石川後楽園は、水戸黄門のモデルとして
有名な徳川光圀など、水戸徳川家ゆかりの大名庭園です。 造園
ブームが起こった江戸時代、大名たちは自らの権力と財力を誇示
すべく、領国の屋敷や江戸藩邸に広大な庭園をこぞって築いた。
そのような大名庭園は、今もなお東京や日本の各地に残されてお
り、中でも江戸時代初期に作庭された小石川後楽園は、数ある大
名庭園の中でも、その代表格として知られています。

「小石川後楽園」
開園時間   9時~17時 (最終入園は16時30分)
休園日     年末年始  12月29日~翌年1月1日
入園料     個人300円 65歳以上150円 
無料公開日  みどりの日(5月4日) 都民の日(10月1日)
庭園ガイド(無料)  土・日・祝日(午前11時と午後2時の2回)

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綺麗に管理されていて、どの季節に訪れても楽しむことができます。
まさに都会のオアシスという感じで、昼時は近くの方が、ベンチで
お弁当を食べるために、わざわざ訪れる人も多いです。

「小石川後楽園」 (水戸黄門ゆかりの庭園)
江戸時代初期、寛永6年 (1629年) に水戸徳川家の祖である
徳川頼房が、江戸の上屋敷の庭として造ったもので、二代藩主
の徳川光圀の代に完成した庭園です。徳川光圀は作庭に際し、
明の儒学者である朱舜水の意見をとり入れ、中国の教え 「(士は
まさに)天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽し
む」 によっており 「後楽園」 と名づけられました。近年は、外国
人観光客も多く、世界的にも名園として知られています。

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「大泉水」
この庭園の中心的景観。蓬莱島と徳大寺石を配し、琵琶湖を表現
した景色を造り出したもので、昔はこの池で舟遊びをしたといわれ
ています。周りをビルで囲まれてはいるが、緑の中で静寂の時を
過ごす。こんな場所があったのか、と驚かされます。

庭園は池を中心にした「回遊式築山泉水庭園」になっており、随所
に中国の名所を名づけた景勝を配し、中国趣味豊かなものとなっ
ています。そして、これらによって湖・山・川・田園などの景観が巧
みに表現されています。この地は小石川台地の先端にあり、神田
上水の分流を引き入れ築邸されました。また徳川光圀の儒学思想
の下に作庭されています。たびたびの改修や震、火災で創建時代
の壮観さこそ失われたものの遂次手が加えられるなど幾多の返還
を経て現在に至っています。

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「蓬莱島と徳大寺石」
小石川後楽園の中央は大泉水で、その中にある島が蓬莱島です。
蓬莱島 (下左) は、中国に古くからあった神仙思想に基づく島で、
大名庭園には必ずといっていいほど出てきます。蓬莱島は亀の形
をしているといわれていて、後楽園の蓬莱島も亀の形をしています。
先端の大きな鏡石は 「徳大寺石」 (下右) と名づけられ、弁財天を
祀った祠があります。 徳川頼房が満足する石組みにならなかった
ので、京都から徳大寺左兵衛を呼んで組ませたので、徳大寺石と
いう名がついたと言われます。

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「清水観音堂跡」  (上)  
京都の清水寺を模して造ったもので、崖下から柱を組み上げせり
出していてすばらしい見晴らしだったと言われています。 堂内に
は、室町時代の作と言われる如意輪観音が安置されていました
が、関東大震災により観音堂が焼失する直前に持ち出されて、
清水観音は現在東京都が管理しています。

 「ガイドツアー」  (下)
小石川後楽園では、ボランティアによる庭園ガイドを実施しています。
園内案内をおおよそ1時間30分程度かかるのですが、小石川後楽
園の魅力的な一面等、実に詳しく案内して下さいます。実施日と実
施時間は、土 ・ 日 ・ 月曜日 ・ 祝日の午前11時と午後2時の1日
2回ほど行なわれます。 英語での案内もありました。

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「 九八屋 ( くはちや ) 」 (上)  
この小さな東屋は、江戸時代の茶屋のような役割で庭園の一角の
広場にあります。休憩するのによい所です。江戸時代の風流な酒
亭を景観に取り入れ建てられたものです。 戦災により焼失したが
昭和34年に復元しました。 建物の名前は、「酒を飲むには昼は
九分夜は八分にすべし」 と酒飲みならず万事控えるを良しとする、
との教訓によることに由来しています。

 「 一つ松 」 (下左)
この松は一つ松と呼ばれています。大泉水は琵琶湖を模していて、
この一つ松も近江の唐崎の一つ松を模したものと言われ、またの名
を「唐崎の松」と呼んでいます。 徳川光圀は、この松を非常に大切
にしたそうです.。が、この松はその時代のものではなく、何度か植え
替えられた後の松のようです。この付近一帯の景色もまた絶品です。

「屏風岩」  (下右)
屏風のようにまっすぐ屹立していることから屏風岩と呼ばれている岩
で、大堰川の川原に作られています。3代将軍家光がしばしば訪れ
た際に、この近くの松の枝に手ぬぐいをかけ、川原の石に腰をおろし
たといわれています。徳川家光は水戸頼房とは年齢も近いこともあり、
後楽園作庭中から何度も水戸家を訪ねて指示もしていたそうです。

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「得仁堂」
徳川光圀は、6歳の時に兄をさしおいて世継ぎと定められ、18歳
の時、史記 「伯夷列伝」 の物語を読み自らの身の上と重ね、非常
に感銘を受けました。光圀は 「仁を行い得た人たち」 を祀る得仁
堂を建立し、泰伯・伯夷・叔斎の木像を納め参詣したと言われて
います。得仁堂の名前は孔子が伯夷・叔斉を評して 「求仁得仁」
と語ったことによります。関東大震災や戦災にも残った唯一の建
物です。三像のうち伯夷・叔斎像の木像は現存し、東京都が保管
しています。

【メモ】
「伯夷・叔斎」 とは、中国古代・殷代の小国の王子兄弟の名前です。
二人は、跡継ぎになることをお互いに譲り合い、国を去ったといわれ
ています。これに対し国民は、「聖の清なるもの」 と褒め称えました。
兄弟は善政を行っていると評判の文王を慕い周の国へいきました
が、時の王は亡くなり、子の武王が継いでいました。武王が父の葬
儀も済まないうちに殷の君主を征伐しようとすることを知り父子の道、
君臣の道に背くと諫めたが聞き入られられませんでした。そこで二人
は、「周に仕えて棒禄を受けるのは恥」 として山にこもり、ワラビで命
をつないでいましたが、ついに餓死したといわれています。

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「丸屋(まろや)」 は、昔の田舎のわびた茶屋のたたずまいを現し
ている建物です。茅葺の田舎風の酒茶屋で、丸の字を染め抜い
た暖簾を下げていたといわれています。現在は休憩所として使わ
れています。

「徳川光圀」
徳川光圀は寛永五年(1628)、水戸藩主・徳川頼房の子として生
まれ、身分は隠され 「庶民の子供とまじりて」 と、頼房の家臣の家
で5歳まで秘密で育てられました。光圀は6歳のとき、兄の頼重を
越えて後継ぎに決められました。そして、江戸小石川の水戸邸へ
移り、実父のもとで藩主としての教育を受けることになります。幼い
頃は、塀や屋根の上を走り回るような腕白な少年だったようです。
そんな光圀が青年になると、今度は遊興にふけります。江戸の繁
華街を放浪したり、家臣が諌めてもおさまる気配がありません。
しかし18歳のとき、読書が人格の確立に重大であると考え、生涯
学問に専心しようと決めます。 光圀は人が変わったようになり、
高い志を立てて、名君への第一歩を踏み出します。

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「通天橋」
大堰川の渓流にかかる朱塗りの橋は、京都の東福寺の通天橋を
見立てて紅橋をかけたものです。 紅葉の時期には周りの紅葉が
朱塗りの橋を引き立てます。通天橋のすぐ下にある石組みが音羽
の滝のようです。もともとは神田上水の水をくみ上げ流していました。
元禄大地震の時に水流が破壊され石組みだけが残りました。ガイド
の方によると、5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院が小石川後楽園を
訪れた際に、78歳の桂昌院が歩行に困らないようにと多くの奇岩
や大石が取り除かれてしまったようです。

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「大堰川 (おおいがわ) 」   (上)
この川も京都の嵐山の下を流れる大堰川にちなんだもので、三代
将軍 ・ 徳川家光がしばしば来園し、大泉水の設計と共に種々助言
を与え、家光の好みでつくられたとされています。岸には蛇篭を伏
せ、神田上水から水車で水を汲みあげ流して引き入れ、江戸時代
には清き流れで園景を引き立てていたようです。大堰川の上流は
通天橋につながり、下流には渡月橋がかかっています。この庭園
で川の景色を代表する場所です。

「西湖の堤」   (下)
この石堤は、中国の西湖の蘇堤を模したものです。西湖は、蘆山と
ともに中国の名勝地で、当時の日本人のあこがれの的でした。光圀
が朱瞬水の設計を取り入れて造ったものと言われています。円月橋
とともに中国趣味の風景で、これ以後の大名庭園の 「西湖の堤」 の
先駆けとなったものです。西湖はマルコポーロが世界で最も美しい
と褒め称えましたが、岩国の錦帯橋は、その西湖からヒントを得て
架けられているようです。

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「円月橋」  (上)  
徳川光圀があつくもてなした明の儒学者朱舜水が設計と指導により
造られた石橋。この橋は、中国の山水画にある橋柱のない橋を参考
にして、橋柱がないため橋が水に写った様が、満月のようであるので
円月橋と名づけられています。後に8代将軍・徳川吉宗が吹上御苑
にこのような橋を作らせようとして、石工を小石川後楽園に派遣させ
て研究させましたが、難しいと伝えたのであきらめたとの逸話もある
そうです。実はこの橋は一枚の石なんだそうで、小石を積み重ねた
様に溝を掘って造ったため、石工は気付かなかったということです。

「神田上水」  (下)
小石川後楽園は小石川台地の先端にあり、北部の神田上水の分流
を引入れ築庭されました。神田上水は、井の頭池を水源とした上水
で、関口でせきとめられた神田川の水が、後楽園を通って水道橋近
くの懸樋を通って江戸城や日本橋地区に流れていました。 小石川
後楽園は神田上水を泉水の水などに利用していました。
この庭園で河の景色を代表する場所です。

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「内庭」
小石川後楽園は、大別すると内庭と唐門をへだてて、大泉水のある
「後園」 と分かれていました。内庭は水戸藩邸の書院の庭であって、
江戸時代には 「うちの御庭」などと呼ばれていました。 江戸の大名
屋敷がほとんど消滅した現在、書院の庭の旧態をよく残しているよう
です。池泉には中島があり、2つの反り橋が架けれています。 藩主
や正式なお客様は、内庭から唐門を通って後園をめぐり散策したよ
うです。伝統的な庭園から東京ドームを望む光景を 「粋」 と思えれ
ばいいんですけどね。(下左)

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小石川後楽園には約3000本の樹木が生育し、四季を通じてさま
ざまな風情を楽しむことができます。昔、中学の試験で日本三大
名園の試験が出題され、誤って岡山の後楽園を小石川の後楽園
と記入し、減点になったことを思い出す。 日本三大名園とは金沢
市の兼六園、岡山市の後楽園、水戸市の偕楽園の優れた景勝を
持つ三つの日本庭園のことです。

徳川頼房が没した後、光圀は34歳で2代目水戸藩主となります。
文教中心の政治理念をかかげて、藩政の改革に懸命に取り組み
ました。特に、農民の苦しい生活に心をいため、あらゆる方法で農
民の生活を助けようと数々の施策を実行します。藩内外から名君
と仰がれ、他の領地の農民が 「水戸様のお百姓になりたいものだ」
と、言わしめるほどでした。そして、兄の子である綱條(つなえだ)を
跡継ぎにして隠居します。隠居後は、自ら田んぼを耕し、身分を隠
した質素な身なりで村々を歩いて、人々の暮らしを巡視していたよ
うです。光圀は、大日本史を編集するときに、史料を収集するため
に、全国各地に家臣を派遣しました。これが全国漫遊というフィク
ションに転換され、また質素な身なりの伝説、そして役人に対抗し
て常に農民に味方していたというイメージから、光圀の没後に黄門
伝説が作られていき、江戸末期になって、講談によって 「水戸黄門
漫遊記」 のお話が作られたと言われています。農民たちにとっては
理想的な名君の物語として人気を博し、徳川光圀は水戸黄門とも
呼ばれているのです。

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「 延段 (のべだん) 」
唐門をぬけ、木曽山をぬけると石畳の苑路があらわれます。
これは延段と呼ばれるもので、中国風の素朴な石畳で、切石と
玉石を組み合わせたものです。唐門から後楽園に入り、この石
畳の道を通っていくと大泉水が突如あわわれるという展開になっ
ています。

小石川後楽園は土の香ただよう奥深い山地と、樹林に包まれた 
静寂な水面の中に各地の名所を写し、自然の美と人工の妙とを
兼ねそなえた庭園芸術の粋を見せてくれます。四季折々の花が
豊富で都会では貴重な緑として、訪れるものに憩いの場を提供
している感じです。二人でデートするのに一番良いところです。
草木が生い茂る道を散策しながら色々なお話をして、二人の心
が一つになってゆき、次のステップに弾みがついてゆきます。
若い人ならデートに、お年寄りの方には散歩に・・・・・と、こんな
に体に良いとこはないでしょう。 (笑)

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「八卦堂跡」 (上)  
徳川光圀が7歳の時初めて3代将軍・徳川家光に謁見した折、
さまざまな品物を見せて、その中から好きなものを取ってよいと
いわれて 「文昌星」 の像を取り上げたため、家光は大変感心し
たといわれています。光圀は、「文昌星」 を思い起こし、八卦堂
を造って安置したといわれています。この八卦堂も関東大震災
の時に焼失してしまいました。

「愛宕坂」  (下)
園の最北部に愛宕山と名づけられた場所があります。この石段は、
京都の愛宕山の坂を模してつくられた石段ですので愛宕山と名
づけられています。東京の愛宕山にある出世階段という感じです。
四十七段の石段からなっていて、あまりにも勾配が急で昇り降り
が危険ですので、通行できないようになっています。脇に昇り道
があります。この石段の上に八卦堂跡があります。

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「稲田」
庭園の北側地域は、景観が一変します。東京ではとっぴな感じで、
庭園の中に稲田があるのは後楽園だけでしょうか。これは徳川光
圀が彼の嗣子・綱条の夫人に農民生活の困難さを教えようと作っ
た田んぼです。小石川後楽園では光圀の意思を継いで、田植え
行事や稲刈り行事を社会科・理科の校外学習教育の一環として
実施されています。歴史を学び、自然に親しみながら稲の実物を
手にし、実際に田植えを体験できる意義ある行事となっているよう
です。現在この田んぼは、近くの小学校の子供達によって田植え
は五月に、稲刈りは9月に行ない、伝統行事を守っています。
可愛いカルガモのお出迎えに、足を止める方が多かったです。(下)

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「藤田東湖護母致命之処」 の碑
年配のご婦人がガイドの方に盛んに藤田東湖の碑の場所を聞か
れていました。彼を知っているということは、かなりの歴史好きと思
いました。もとは白山通りの方にあったが道路の拡幅工事のため、
この小石川後楽園に移されたようです。終焉の地として、 〝母を
護 (まも) るために死に至った場所〟 の碑などとい うのはあまり
ないような気がしますね。

安政2年 (1855)、江戸にマグニチュード7 とも云われる 「安政の大
地震」 が起こりました。藤田東湖は、小石川の水戸藩邸内の自宅
でこの大地震に見舞われました。藤田東湖自身は何とか危機を脱
し、屋敷の庭へと逃れることが出来たのですが、屋敷内に取り残さ
れた母親を救出するため、屋敷内に立ち戻ったところ、頭上に大き
な梁 (はり) が落下し、東湖は母をかばって自らが梁の下敷きとな
りました。東湖は残っている全ての力をふりしぼり、体全身で大きな
梁を受け止め、母を脱出させた後、再びの強い揺れ・・・建物は天
井から崩れ落ち、その姿は瓦礫の中に消え圧死したのです。

東湖を亡くした水戸藩は、歴史が示している通り、藩内で内部抗争
を繰り返し、血の粛清が吹き荒れ、維新を迎えた頃には、ほとんど
有為な人材が残っていないかったのです。 この水戸藩の末路を
見ても、東湖の死はその後の水戸藩の歴史を運命付けました。

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「藤田東湖」
藤田東湖は水戸学の基礎を築いた理論家・藤田幽谷の次男に生まれ、
江戸時代の水戸藩の藩士として活躍し、他藩士との交流を通して尊皇
攘夷思想を広め、水戸学を実践し、数多の幕末の志士達の道標となり、
明治維新の魁ともいわれる下地を創った人物です。

徳川幕府と薩長が内戦状態になれば、ヨーロッパ列強の侵略を招くとい
う危機感を東湖は抱いた。そこで東湖は外敵に備える海防思想とともに
”忠孝一致” の新思想を唱えた。東湖がいう ”忠” とは京都の朝廷を中
心とした新しい国造りであり、”孝” とは徳川幕府もその国造りに積極的
に参加することで、この二つは矛盾しないと説いている。これが幕末の
尊王攘夷派に大きな影響を与えました。藤田東湖から学んだ吉田松陰
や西郷隆盛などは、日本人の先祖が歴代の天皇を中心として、つぎつ
ぎに尊い命を積み重ねて、我が大和島根を護ってきた事実を魂の慟哭
を持って知ったのです。そして維新の志士たちが行動を起こしたのです。

維新を起こした原動力とも云うべき水戸学思想。大政奉還も徳川慶喜公
が水戸家の血筋で尊王の気風あってのことです。維新後は、一種の懲
罰的措置として、県庁のある市の名前を県名に使用することが許され
ませんでした。全国一の勤王藩である水戸藩が、水戸県ではなくて、
茨城県となってしまったのも、歴史の皮肉というほかはありません。
まるで誰かが筋書きを書いたように、そうした要素が揃うところが、
わが国の歴史の不思議ですね。

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「花菖蒲田」
水戸黄門こと徳川光圀ゆかりの小石川後楽園では、6月中旬に
660株のハナショウブが見ごろを迎えます。その時期に合わせ、
より近くで鑑賞出来るように菖蒲田の脇に木道を設置し、「花菖
蒲を楽しむ」 と題してお客様を迎えているようです。東京都心の
オアシスで、優美なハナショウブに彩られた新緑の美しい田園
風景を楽しむことができます。

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ここへ来るまでは、菖蒲園というのは群生している美しさがあろうけ
れど、それ以上の興はわかないのでは、とも思っていました。錦絵、
浮世絵の類では、女の人たちがそれはそれは楽しそうにしている
が、遊びの少なかった昔の話だろうと。でも、来てみれば、菖蒲で
も色々の品種があるなんて、不思議の念にとらわれる感じでした

漢字では菖蒲と書きますが、菖蒲は 「ショウブ」の他に 「アヤメ」 とも
読む漢字ですね。菖蒲とだけ書くと、菖蒲(ショウブ)のことか、菖蒲
(アヤメ)なのか、はたまた花菖蒲(ハナショウブ)なのかわからない
ですね。アヤメもハナショウブもアヤメ科の植物で、これに同じくアヤ
メ科の杜若 (カキツバタ) が加わると、まさに 「何れアヤメか 」 となっ
てしまいます。ややこしいことに、ショウブはかつて、アヤメ、アヤメ草
とも呼ばれていました。 また、花の美しいハナショウブをたくさん植え、
ハナを省略して 「ショウブ園」 と称して公開しているところもあります。
「ややっこしい、どっちやねん」 と大阪風に言いたくもなりますね。(笑)

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「江戸系」  (上左)   「伊勢系」  (上右)  「肥後系」 (下左)
「長井古種」 (下右)

花菖蒲の品種には、江戸系、肥後系、伊勢系とあって、後二者が
一本ずつ鉢植えにして、座敷に置いて鑑賞する、どちらかというと
上流の人の趣味だったのに対し、江戸系のは、地面に群生してい
るようすを眺めるのに向いているそうで、その点でも庶民的。鉢を
置けるような畳の間が家になくても、行楽気分で出かけて、誰もが
楽しめる花だったのですね。江戸系の中でも、花びらが垂れ下が
らない品種が、江戸っ子の好みだったという。威勢がよく感じられ
たのでしょうね。室町から江戸時代にかけてノハナショウブの中か
ら、花の色や形に変化のあるものをさがして栽培されてきたものが
長井古種系と呼ばれています。

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「 宇宙 (おおぞら) 」  (左)
菖翁花の中でも名花と言われているそうです。澄んだ浅葱(藤紫)
地に白筋の入る半八重~八重咲きの中輪花です。花形は変化し
やすく、葉身に凸凹のうねりがあるのが特徴のようです。「宇宙」
なんて名づけられていますが、「これは現代の品種で、土井さん
が宇宙へ行ったのか何かを記念したのでしょう」 と思っていたら、
案に相違して、江戸時代の品種だそうです。白地に青っぽい筋
が入った大輪の花で、たしかに空を思わせます。その頃の人に
すでに、宇宙という概念があったのでしょうかね。

「キショウブ (黄菖蒲)」 (右)
ヨーロッパ原産で鮮やかな黄一色の花で、外花被片の爪の部分
には褐色の筋があります。観賞用に栽培されているハナショウブに
は黄色系の花がないため、その貴重性から重宝されたが、在来種
との競合・駆逐等のおそれがあるために生態系に与える影響や侵
略性が高いとして、防除または分布拡大の抑制策の検討される帰
化植物なんだそうです。一輪、目立って綺麗だったのですが、嫌わ
れ者の菖蒲なんですかね。(笑) 黄色い菖蒲は初めて見ました。

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あやめの花言葉は 「メッセージ」 「愛」 「あなたを大切にします」
「私は燃えている」 などです。あやめは 「愛」 を象徴する花とも
言われており、「太平記」 にこんな話が記されています。

源三位頼政 (げんざんみよりまさ) が 「あやめ」 という美しい女官
に恋をしたことを知った天皇が、同じ年頃の美しい女官達に同じ衣
装を着せて薄絹の陰に並ばせ、、離れたところから頼政に、あやめ
を探し出してみよと命じた。困った頼政は歌を詠むことにしました。

 五月雨に 沢辺のまこも 水越えて
     いずれあやめと 引きわづらふ

すると、歌を聞いて頬を赤らめた女性がいたので、頼政はあやめ
を見つけることが出来ました。頼政は帝からあやめを賜り、幸せに
暮らしました。「いずれがアヤメかカキツバタ」 という言葉を耳にし
たことはありませんか? これは、美人の形容詞としても用いられ
る表現で、どちらも同じくらいに美しくて迷うというような意味が
あり、この話が元になったというわけです。

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長雨の季節に花開く花菖蒲。こういう曇天の時に咲く花は、夏の
ギラギラした太陽の中で咲く真っ赤とか黄色とか、そういった原色
系じゃなくて、もうちょっとしっとりと落ち着いた穏やかな色が似合
いますね。紫から白にかけてのグラデーション。微妙に移り変わっ
てゆく世界。そういうところが日本のこの時期の豊かさを示してる
んじゃないかなと思います。

雌しべを芯と言うようです。草冠に心と書きますので、芯そのもの
が人間で言う命にあたるのでしょうか。芯を大きくすることによって
花も大きくなり、人間で申しますと精神修養ということで、小心者で
なく人間的に大きい心を持った人になって欲しいということも、この
花に託しているわけです。 気品あふれる雌しべの立ち姿。 そこに
は、花菖蒲を愛し改良を進めてきた、もののふの心が宿っている
のでしょう。

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梅雨、人々は花菖蒲と一年ぶりの再会を果たすため、花菖蒲園に
足を運びます。 「足首の埃 (ほこり) たたいて花菖蒲」 花菖蒲を見
るために、土ぼこりで汚れるほど歩いた一茶の句です。 朝な夕な、
もやの中にほの白く浮かぶ、かれんな姿・・・・。 小雨時、くっきりと
色鮮やかに咲き競うすがすがしい姿は、気品にあふれ、私たちの
心を和ませてくれます。それが 「花菖蒲」 でしょうか。

ひとつひとつの花菖蒲には、作り手の美意識が込められているん
だそうです。よく梅雨が嫌いだと言いますが、花菖蒲が咲くから梅
雨が好きという人もいます。咲き始めは花の色が濃いです。花び
らが伸びてシルクのように柔らかくなり、そして終わっていきます。
花菖蒲は、短い間に花を咲かせ、刻々と変化するさまを、「花が
芸をする」と呼び楽しんできました。多くの人の心をとらえて離し
ません。梅雨のひとときだけ見ることができる、はかない美しさ。 
日本人はそんな花菖蒲を、ことさらに愛してきたのです。

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「花菖蒲」は江戸時代に武士から愛され、品種改良が重ねられた
植物。 まっすぐ伸びた茎の上に咲く花からは気品を感じますが、
なぜ特に好まれたのでしょうか? その理由は言葉への “しゃれ心”
にありました。「菖蒲」 という音が、武士が守るべき道= “武道” を
重んじる言葉を指す、「尚武」 と同音だったことから、武士たちは
この花を手塩にかけて育てたというのです。このように言葉の響き
を大事にする日本人のしゃれ心は今でも残っています! 例えば
入学試験のときなどは、試験に 「合格」 するようにと 「五角」 の
鉛筆を使ったり、受験に 「勝つ」 という言葉と 「カツ」 を重ねて
豚カツを食べてみたり・・・。私も母が揚げてくれたカツを必死に
ほお張った思い出があります。今回の花菖蒲、先人達の風流な
暮らしと言葉を楽しむ粋な心を改めて教えてくれました。

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水戸光圀公ゆかりの庭園は、入園すると緑に囲まれた庭園が広
がり、歴史を感じることができる場所でもありました。カメラを抱え
た人や、散策する人が適度にいましたが、園内には山、川、湖な
ど自然を感じることが出来て、ゆっくり庭園を楽しめました。緑豊
かな庭園を華やかな雰囲気にさせ、都心のど真ん中で思わず
都会の喧騒を忘れさせて貰いました。 今度は紅葉の美しい
時期でも訪れてみたいと思います。






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