一ヶ月に2回満月を迎える月を「ブルームーン」という。 そのブルームーンを見ると願い事が叶う・・・・。







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「七夕」 と拉致被害者

...2015/07/05 09:50...

梅雨明け前の天候不順の日が続いていますが、
7月 (文月) になりました。小さなお子様がいるので
しょうか、近所の軒先に七夕飾りが揺れていました。

7月7日の七夕の行事は、江戸時代には五節供の一つと
して幕府の公式行事であり、民間でも盛んに行われました。
家々の屋根の上には、七夕の詩歌を書いた短冊、色紙で
切った網や吹き流しなどをつけた青竹が立ち、空を覆う
ばかりであったといいます。

その七夕ですが、『そうめんの日』 でもあるんですね。
平安時代の昔から宮中における七夕の儀式に
「索餅(さくべい)」 は、欠かせない供え物のひとつ
として神様にお供えをしていたのだそうです。
この日に索餅を食べると疫病にかからないという意味が
あったそうで、江戸時代中期には民衆の間で七夕に
そうめんを贈る習慣が普及していたとか。これらをふまえ、
現在は全国乾麺協同組合連合会によって7月7日が
「そうめんの日」 として制定されているようです。

このそうめんの先祖こそが 「索餅」 だと言われています。
「索麺」 とも呼ばれ、のちにその 「さくめん」 が
「そうめん」 に変化したとも言われています。
索餅が日本に伝わったのは奈良時代。「索」 は両手で
縄を綯う意味、「餅」 は小麦粉製品を意味し、小麦粉を
練って縄のように細長くねじって作り、乾燥させて保存し、
茹でて醤 ・ 未醤 ・ 酢付けて食べたとみられています。
日本では麦縄 (むぎなわ) と呼んていたそうです。
中国では、ある子どもが7月7日に亡くなり、その後熱病が
流行ったことから、病よけとしてその子の好きだった索餅を
お供えし、食べるようになったという言い伝えもあります。

室町後期の 『尺素往来』 には、
「殻 (かじ) の葉の上の索餅は七夕の風流」 とあり、
このころには七夕の索餅は定着していたようです。
徳川将軍の七夕の祝膳献立には素麺があり、京都の
公家社会の七夕の膳にも素麺が見られ、一般の人々も
七夕には素麺を食べたようです。
「七夕にそうめん」。7日は天の川を眺め、
昔に思いをはせながら伝統を味わうのもいいですね。


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「七夕」 と拉致被害者


七夕は朝鮮半島では 「チルソク」 と言うらしい。
牽牛と織女が天帝に引き離され、年に一度カササギの
作る橋を渡って会う物語は中国や日本とそう変わらない。
ちょっと違うのは、この時期に雨が多いせいか、2人が
流す涙と雨が結び付けられることだ。

夕方の雨は2人が会えた喜びの涙で、次の夜明けに
降る雨は、別れの悲しみのあまり流す涙だという。
そればかりか離れ離れにされた2人の涙が、地上で
洪水を起こすという物語もある。

先日、拉致被害者の方たちの講演を聞いたという知人から
話を聞いた。 日本海に面した新潟の町から一人の少女が
忽然と姿を消した。お父さんとお母さんが必死で探していたとき、
めぐみさんは北朝鮮の工作員に連れ去られ、40時間もの間、
北朝鮮に向かう船の中の真っ暗で寒い船倉に閉じこめられて
いたというのです。めぐみさんは、「お母さん、お母さん」 と
泣き叫び、出入口や壁などあちこち引っかいたので、
北朝鮮に着いたときには、手の爪がはがれそうになって
血だらけだったと言われています。

めぐみさんは、明るく朗らかな少女でした。家族にとって、
まるで太陽のような存在でした。めぐみさんの名前を呼びながら
岸を何キロも歩きました。夜になると、お父さんはお風呂で泣き、
お母さんも、家族に分からないように一人で泣きました。
どうしてこんな悲しい目にあうのだろう、もう死んでしまいたい、
とも考えました。あれから38年の月日が流れました。
13際の少女は51歳になる。

話を聞く中で、だいぶ前の話になるが、横田めぐみさんの
夫だったとされる韓国人拉致被害者の金英男さんが平壌で
会見したときの事、めぐみさんとの暮らしについて 「私として
は幸福だった」 などと語ったという。

人の情けすら冷酷な政治的計算のそろばんにのせて
利用しつくす北朝鮮だ。その用意した会見で出る発言ならば、
まずは拉致問題の幕引きを狙う宣伝と思うのが当たり前だろう。
実際、金さんの発言も従来の話の食い違いのつじつま合わせ
が目立ったという。だが、それでも同じ拉致被害者同士で
暮らした一時、そこに当人のいう 「幸福」 があったとの
言葉にウソはないと思いたい。

娘のヘギョンさんの子育てに 「心血を注いでいた」。
日本料理を作り、家族の話をしていたというめぐみさん
の姿も、真実の思い出からにじみ出た言葉と信じたい。

七夕に引き離された2人も年一度は会えるという
物語をいつくしんできた東アジアの先人たちだ。
そう思えばウソと事実を入り組ませた情報のベール
で人と人を隔てる現代の権力悪には腹立たしい。

降る雨に涙を連想しなければならぬ拉致被害者家族
の日々はいつまで続くのだろうか。冬でも緑を保ち、
まっすぐ育つ生命力にあふれた笹や竹には、昔から
不思議な力があると言われてきた。神聖な植物ゆえに、
そこに神を宿すことができるとも言われています。

人々は 「彦星と織姫のように、願い事がかないますように」
と、短冊に色々な願い事を書いて、笹や竹の葉に飾る。
拉致被害者の方々が、一日も早く帰国できるよう
短冊に願いを込めて、明後日の七夕を迎えたい。


 ♪  五しきの短冊 わたしが書いた
        お星さまきらきら 空から見てる


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旧前田侯爵邸

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東京大学・駒場リサーチキャンパス公開を見学の後、近くの駒場
公園敷内にある旧前田侯爵邸を見学してきました。行く道で大勢
の人が同じ方向へ進むので何かあるの ? と思いきや皆さん旧
前田侯爵邸へ。 駒場リサーチキャンパス公開を見学して、つい
でに・・・・・そんな方が沢山おりました。どうやら思うところは、皆
さん同じなんですね。(笑)

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旧前田侯爵邸は、目黒区駒場にあります。
渋谷駅から京王井の頭線で2駅の 「駒場東大前」 で降り、駅から
住宅街を歩いて徒歩10分位の駒場公園内にあります。この辺は
金持ち居住地なので豪邸が多いです。昔は森のようにうっそうと
して昼間でも暗いほどでした。最近大がかりな伐採を行ってこれ
だけ明るくなったようです。森と広場の公園です。

「旧前田侯爵邸」 は、加賀百万石で知られる加賀前田家16代当
主、前田利為侯の邸宅です。江戸時代、前田家上屋敷は本郷に
ありました。 東京大学の代名詞 「赤門」 は前田家の邸宅の門の
ひとつでした。 関東大震災後の復興計画の一環として、帝国大
学 (東京大学の前身) 農学部のある駒場の土地の一部と、本郷
の前田家の敷地とを等価交換し、大正15年 (1926) に前田家は
駒場の地へ移り住みました。昭和のはじめ、1万3000坪という
広大な敷地に大邸宅が完成します。

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「旧前田侯爵邸 ・ 洋館」 地上3 階、地下1階建、昭和4年竣工。
大正末から昭和にかけて建てられた大邸宅建築を代表するひと
つで、機能性を重視し、当時最新の技術を駆使した、上流社会を
偲ぶことが出来る貴重な文化財です。

建物全体のデザインは、チューダー様式と呼ばれる、英国のカン
トリーハウスで好んで用いられた様式でまとめられています。
カントリーハウスとは貴族が郊外に構えた邸宅のことで、16世紀
から20世紀にかけて流行しました。設計の総指揮は東大建築学
科の塚本靖博士と、欧州留学から帰国間もない宮内省技師の高
橋禎太郎です。施工は竹中工務店 ( 初代社長、竹中藤右衛門 )
があたり、特に電気関係の施設は当時の最先端をいくものでした。
本館のスタイルはイギリス王朝風でイギリスのハンプトン製の家具、
イタリアの大理石、フランスの絹織物などが使われ、東西古今の美
術品がふんだんに飾られて、個人の邸宅では東洋一と評された。

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玄関はチューダー様式の特徴である扁平アーチです。煉瓦造り
のどっしりしたポーチを見るだけで贅を尽くした建物であると分か
ります。車寄せも立派です。入口 (下右) でスリッパに履き替え、
靴は備え付けのビニール袋に入れて持ち歩きながらの見学に
なります。 最近はどこでもそうですが、ボランティアによるガイド
ツアーがあります。親切に詳しく説明してくれます。 (下左) 
嬉しいことに庶民に優しい入場料が無料の上、館内の写真
撮影は禁止が多いなかで、ここは写真を撮ることもOKです。

「旧前田侯爵邸」
開館日     水・木・金・土・日曜日、祝祭日
開館時間   午前9時~午後4時30分
入館料     無料  1階には喫茶室も併設されています。
※  木~土曜はガイドボランティアによる案内もあり、
    和館は耐震工事のため平成28年3月まで休館中です。

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大名華族のお屋敷なので非常に豪華ではありますが、同じ華族
でも財閥系の瀟洒な邸宅と比べるときらびやかさはありませんが、
荘厳さがあります。当時使われていた家具などは無いのでちょっ
と殺風景ではありますが、生活されていた様子はなんとなく想像
できます。

前田利為  ( 明治18年 (1885) 生まれ )
加賀百万石で知られる前田家の16代目の当主です。
陸軍大学校を優秀な成績で卒業、その類い稀なる才覚は、将来の
陸相、首相候補とまで言われる程でした。そんな前田利為侯も、当
初は軍人になることには前向きでなく、外交官を志していたと言わ
れています。しかし、前田家は江戸時代、加賀100万石を治めて
いた大名、明治時代もその権勢は衰えを知らず、華族となりました。
それゆえ、大名華族の者が軍人にならないと言うのは筋違いである
と諭され、軍人の道を歩んでいくことになります。軍に入った後もヨー
ロッパに留学し西欧をまわりパリでは、第一次世界大戦の戦後処理
にあたるなど活躍しました。陸軍の幹部を歴任し、太平洋戦争初期
に、南方戦線のボルネオに駐留する部隊の司令官として召集され、
彼の地で戦死したため悲劇の将軍とも称されました。
正二位に叙せられ、陸軍大将となる。

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「サロン」
玄関入ってすぐの広間。(下左) 右手が旧サロン (来客用の応接
室) です。現在は喫茶室になっています。(上) サロン(喫茶)の
右奥に応接室があるので、入ってみました。以外とわかりにくいの
で見落としてしまいそうです。(下右) 団体ツアーなども来るように
なり、来客を見越して喫茶をオープンしたようですね。

ここは旧サロンだった場所で、左側にある暖炉も一際豪華。上には
大きな鏡がついていますが、当時はこういった鏡はなかなか手に入
らず、富の象徴でした。また姿見用ではなく、空間を広く見せるため
に取り付けられました。寄せ木細工の様な床や、真珠のような間接
照明、片まとめのカーテンといい品よくまとめられているなぁと、当時
の設計士やインテリアコーディネーターに会って見たい気分でした。

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「大客室」 (上・下左)   「小客室」 (下右)
客間だけあってこの部屋は一段と見事です。壁紙も部屋の中で
一番華やかな柄になっています。 落ち着いたイメージの照明と
は違い、ココの照明は 「The シャンデリア!」 といった雰囲気が
あります。家具や調度品を備え付けもなくガランとしていて、寂し
さが漂っている感じでした。 しかし、奥にピアノが置いてあるよう
に重要文化財となったこの邸では、コチラの部屋をコンサート等
で借りることは出来るみたいです。ピアノや弦楽器の演奏会が行
われ、西洋建築の粋を集めた優美な邸に音がどのように響くの
だろうか。 緑の風が吹き込む壮麗な洋館に、サックスの音色が
さわやかに響き、すてきなときが流れる、そんな感じでしょうか。

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「大食堂」
晩餐会で最も重要な大食堂。侯爵邸に招かれた来客が晩餐をし
た部屋です。政財界や外国の要人を招き、華やかなパーティー
が繰り広げられました。

訪れる人が目を引くのが巨大な暖炉。(下左) 白大理石に彫りの
深い唐草文様が特徴です。暖炉の上部の壁に張られた 「金唐紙」
は、ヨーロッパの装飾品のひとつである 「金唐革」 を模して和紙で
作られたもので大変貴重なようです。 窓の曲線がなんともいえぬ
優雅さです。出窓の下にもスチーム暖房が。(下右)壁が木なのは、
音が跳ね返って、人の声がよく聞こえるようにとのことだそうです。
この部屋の窓に使われているガラスは非常に貴重なもので、現在
では手に入らないものとか。当時は大テーブルと26脚の椅子が
並んでいたそうです。天井も趣向を凝らした造りになっています。
晩さん会の様子が目に浮かびますね。

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「小食堂」
大食堂に続く部屋は、家族用食堂 (上) のほかに食事準備室で、
この大きな戸棚 (下左) は開けると、地下の厨房から料理を運ぶ
昇降機になっていて、1階小食堂と2階配膳室へ料理が運ばれた
ようです。また家具の鏡越に隣の大食堂の食事の進み具合を覗い
て、次の食事を出すタイミングを見計らったのだそうです。造り付け
の棚等の家具もあり、居室としても使用できそうです。現在ガラス
棚の中には、前田侯爵の写真等が飾られていました。

日常使用するための小規模な家族用食堂にもなっていて、前田家
の人々が揃って夕食を摂っていた部屋のようです。朝食はそれぞ
れの自室で摂っていたため、一家そろって食事するのは夕食だけ
だったそうです。食事時は敬語を使って会話していたんだそうです。
だいたい挨拶は 「ごきげんよう」、あ と「恐れ入ります」 とか、「 なん
とかなさいますか」。 家族はマナーを厳しく教えこまれたそうです。

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「1階ホールの階段」
前田邸といえばエントランスホールの優雅な階段。(中)
階段のある広間は、洋館でもっともドラマチックな場所です。ここから
優雅に2階からご夫人がお客様の前に現れたのだとか。またお嬢様
方は 「この階段で演劇ごっこ」 をしていたそうです。ドレスを軽く手で
持ち上げ、淑やかに降りてきたのでしょうね。想像するだけでまさに
演劇したくなる気分になります。

階段上の透かし窓は、仏教的なモチーフである宝相華 (ほうそうげ)
唐草を取り入れています。 (上右) 階段脇の窓はステンドグラス。
(上左) いずれも淡い色合いが特徴で、陽が射し込むとキラキラと
綺麗に輝きます。優雅な細工がなされた手摺柱。 (下左) 階段下
の空間には 「イングルヌック」 という場所です。(下右) この空間は
こじんまりとしたスペースに暖炉と椅子(造り付け)があり、ちょっと
したお客様が待つスペースになっているようです。

【豆知識】
イングルヌックとは、「暖かくて心地よい場所」 という意味のスコット
ランド古語で、建築用語としては、「暖炉の側の暖かく、コンパクト
な団欒の場所」 を指します。

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前田侯爵は 「外国の要人をお迎えするような邸宅は、まだ日本
にはほとんどなく、各国と日本が対等に渡り合うには、このような
洋風の邸宅が必要なのだ」 と考えになり、多額の財産を投資し
て、旧前田侯爵邸をお建てになったと言われています。

最初は洋館のみを建設する予定でしたが、のちに外賓のための
施設として和館も計画されました。洋館1階は外交団や皇族を招く
晩餐会を行なう重要な社交の場で、地階厨房からダムウェーター
で 1 ・ 2階に料理が運ばれました。2階は家族の生活の場で、夫
妻の寝室、家族団欒室でもあった婦人室、子供室などがあります。
個室の間には浴室が置かれ、主人の書斎には電話や呼鈴が引か
れ、電話は8回線、電話交換手が別棟で取り次ぐ仕組みでした。
地階から3階の洗濯室まで、暖房用のダクトがつながっています。

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「前田侯爵の書斎」
南西の角にある書斎には、次の間を介してしか入室できません。 
家族にとっても近寄りがたい、当主の砦だった事が想像されます。
書斎には軍人らしからぬ大きな書架が残り、利為が知的な文化人
だったことを偲ばせます。家具が置かれて当時の雰囲気は感じら
れるのですが、最近の物なのか「書斎」 にはあまり相応しいもの
ではありません。

こちらの建物は、当主が無くなった後は所有者が変わり、戦後は
米軍に摂取されたり返還後は、東京都近代文学博物館として使
われたとり、数奇な歴史を辿っています。 その間に失われた物
や変えられたものも多いのでしょう。 現在の形で一般公開され
た当時は全く家具がなく、ガランと殺風景だったそうで、追々に
往時の雰囲気に近付ける様に手が掛けられているようです。
どの時代もこの建物の歴史ではありますが、フラリと訪れる身と
しては、前田侯爵の一家が暮らしていた当時の雰囲気が偲べ
るものであると嬉しいですね。

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「侯爵夫人室」
次女居室の隣は侯爵夫人の居室です。 ピンク掛かった大理石の
マントルピースが優雅で、なんとも女性らしく華やかで照明も素敵
です。暖炉の上部にはアーチ型の装飾の鏡もあります。そのまま
ティーサロンとかになってしまいそうな雰囲気。寝室の隣が夫人室
になっていて、夫人室~次女居室~次の間~書斎まで通したドア
があり、各室へも外に出ずとも出入りできるようになっています。

2階で一番広く、夫人室としてのほか、居間として家族団らんにも
使用されていたようです。これだけ大規模な邸宅なのに、夫人には
他の家族のような 「自分専用の居室」 はなかったんですね。毎日、
家庭教師を呼んでフランス語や日本画の勉強。夜には自らがデザ
インしたオリジナルの着物で貴賓をもてなすなど、優雅ながらも、
とても忙しい日々を送っていたようです。

菊子夫人は、伯爵・雅楽頭系酒井家宗家20代当主酒井忠興
の次女。先妻・渼子(なみこ)を亡くしていた前田利為の後妻で、
旧姫路藩主、酒井家から嫁いできました。

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「侯爵夫妻の寝室」
東南角に位置するこの部屋はホールから少し奥まった位置にドア
があり、プライバシーへの配慮が感じられます。 ここは唯一家具
が設置されている部屋で、シンプルながらも品の良い家具と部屋
の雰囲気が調和しています。この部屋の家具・調度品も、ほとんど
全てイギリスからの取り寄せだそうです。

窓には透かし彫りのブラインドが嵌められていたり、南には美しい
アルコープもあり、2階の部屋の中では最も手の込んだ作りになっ
ています。 いくつかはおそらく当時のものと思われる家具が置い
てあり、そのどれもが重厚で美しい肌合いをしており、当時の優雅
な生活が想像されます。ちなみにこの部屋や夫人室の窓の透かし
彫りは「菊の花」の模様になっており、「菊子夫人」の名にちなんだ
ようです。 私などは豪華すぎる食堂と同様に、この部屋では広す
ぎて落ち着いて眠れそうもありません。 (笑)

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「長女居間」
侯爵書斎の右隣は 「長女居室」。例の酒井美意子嬢の居室です。
2階の一番いい位置で夫人室に次ぐ広さがあり、家族の中で彼女が
かなり優遇されていたのが分かります。 この部屋は玄関の真上で、
ロミオがやってきそうな大型バルコニー (下右 ) は、車寄せの真上
にあたります。このテラスに出て遊んでいたそうです。照明が下がっ
ている天井部分にまで細工がある優美な居室です。

「酒井美意子」
彼女は加賀百万石前田家のお姫様。幼少の頃はロンドンで過ごし、
乳母車で散歩した時にはかのエリザベスⅡ世も乳母車に乗って同
じ公園を散歩されていたそうな。帰国後、女子学習院を卒業。美貌
の母に似てなかなかの容姿に恵まれた彼女はいとこである元伯爵
家の酒井忠元氏と結婚。 戦後は欧米仕込みのマナーと日本の伝
統的作法を身につけた国際的マナーの第一人者として、テレビ ・
執筆・講演活動などに大活躍。ハクビ総合学院学長や京都きもの
学院長に就任した方です。お嬢様育ち=箱入り=世間知らず=
逆境に弱いという図式はまったく当てはまらない活発な方だという。

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「三女居間」 (上)  
侯爵夫妻寝室のバスルームを挟んだ隣室が 「三女居室」。 本郷に
あった旧邸で生まれた長女・二女たちと違い、三女だけがこの駒場
邸で生まれたんだそうです。長女居室ほどではありませんが、この
部屋も広めで立派です。当時の写真が展示されていて、ベビーベ
ッドが写っているので、幼い三女のお世話がしやすい様に用意され
たとも思うのですが、天井の装飾や照明は他の部屋よりずっと豪華、
窓のデザインも優雅で、過去の家具もセンスが統一され品のいい部
屋です。末っ子の部屋としてはちょっと贅沢が過ぎる様な気もします。

「次女居間」 (下)
侯爵書斎の左隣にあるのが 「次女居室」 です。南に面してベランダ
に出られる絶好の位置とは言え、他の子供部屋に比べて随分手狭。 
しかも壁一面に作りつけの書棚があったり、陶器の重厚な趣が違っ
た暖炉や青銅のシックな照明と、およそ女の子の部屋とは思えない
雰囲気です。元は図書室だったのを二女の部屋にしたものです。
床はなんと寄木細工です。今は寄木細工というと小箱などですが、
床を寄木細工で造ってあり、手が込んでます。次女の部屋だけ和
洋折衷と言うよりはアラビアンな印象を受けます。

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前田侯爵と東条英機との間柄には、こんなエピソードがあります。
前田侯爵は、東条英機と犬猿の間柄と噂されていた。 陸士で同
期でありながら四年遅れて陸大を卒業した東條英機とはソリが合
わず、前田侯爵は東條英機を 「頭が悪くて先が見えない男」 と批
評し、東條英機は前田侯爵を 「世間知らずの殿様に何がわかるか」
と反発していたといいます。前田侯爵は首相になった東條英機を
「宰相の器ではない。あれでは国を滅ぼす」 と危ぶんでいたという。

東条英機は明治天皇の 「軍人は政治に関与すべからず」 の命に反
して首相、陸相、内相を兼任し (のちには文相、商工相、軍需相、参
謀総長をも兼ね) て政権を縦にし、しかも戦局は空母四隻を失って
大敗したミッドウェーの海戦を境に、下り坂になっていたにも拘らず、
彼はラジオ放送のたびに 「皇軍は各地に転戦、連戦連勝まことに
ご同慶の至りであります」 などと虚勢を張っていたといいます。
前田侯爵の先見通りに日本はやがて国が滅びたのです。

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「会議室」  (上) 
女中ゾーンを抜けると唐突に現れる立派なフロア。何もないので
想像するしか「ありませんが、前田家の顧問たちによる会議が開
かれ た「会議室」 だそうです。よく見ると壁紙や窓枠等はオシャレ。

「三男居間」  (下左)  
長女居室の2つ隣にある 「三男居室」。女子達の部屋に比べると
狭くて位置も悪く、シンプルで見劣りします。年功序列なんですね。
残念ながら、家具等は現在配置していませんので、ガランとして
います。長男 ・ 次男の部屋はないので、男子は早くから独立した
のだろうと思います。

 「従者室」  (下右)
「三男居室」から数段降りたところにある「従者控室」。侯爵邸で働く
男性の使用人や書生が使った部屋です。三男居室の北側は階段
を挟んでフロアが半階低くなっています。 床の高い南側が家族の
個室で、低い方の北側が主に使用人の部屋になっているようです。

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「女中室」 
三女居室から使用人エリアへ続く廊下を進むと、その先は使用人
室で小部屋が並びます。使用人のスペースは家族のスペースより
半階ほど低い位置に作られており、階段を挟む事で明確に世界が
分けられています。この女中部屋は北側の中庭に面した位置にあ
ります。使用人は100人以上いたそうで加賀藩関連の人々を呼び
寄せていました。前田家の使用人は外から通って来る人の方が多
かったようです。  女中と言って下働きだけでなく、こうしたお屋敷
では知人の子弟や知人の紹介で、多くの子女が女学校を卒業し
てお屋敷に行儀見習いに来ていた人も多かったようです。

女中さんたちの休憩室のような感じでしょう。(上右) この部屋は踏
み込み付きで12畳前後の広さがあり、床の間や収納力のある押し
入れもあって結構立派です。ガイドの説明では 「女中溜まり」 でした
が、以前来た時は 「女中頭の部屋」 だったと思います。普通の住み
込みの女中室も3部屋ありました。(下)ちょっとしたスペースに収納
棚もあります。それにしても女中部屋は一貫して和室ですね。まぁ、
当時だとイギリスで暮らしていた当主の前田家の人以外は和室の
方が落ち着きますしね。

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前田侯爵は、陸軍の軍人でした。
この邸宅での暮らしは、戦争を期に終えんを迎えます。太平洋戦争
でボルネオに出征し、帰らぬ人になります。やがて終戦。華族制度は
廃止され、邸宅もアメリカ軍に接収され、ホワイトヘッド空軍司令官邸
として使用されました。返還後は、和館と一部の土地が国の所有に、
前田邸に公園が建設され、東京都が洋館を買収しました。平成14年
まで、「東京都近代文学博物館」 として利用されました。公園と和館が
目黒区に移管されます。目黒区立駒場公園として開園。 その後は無
料開放されましたが、監視が行き届かず、邸内で悪さをする者もいた
ようです。現在はボランティアの皆さんが解説を兼ねて、館内を見守
っています。平成25年 (2013) 重要文化財に指定されました。

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廊下の窓から見える屋根や中庭 (上左・下)、そこだけを見るといつ
か見たイギリス映画の名シーンがよみがえってきます。 また中庭に
は高い煙突がありました。 (上右)

前田侯爵邸の各部屋には様々な意匠の暖炉が置かれています。
最も大きく立派なのは、やはり大食堂の暖炉。「この家は一切まき
をたく暖炉はありません。全館スチームの暖房です。」との説明で
した。なんとこの邸はセントラルヒーティングで暖炉で火は使わな
かったそうです。なにより驚いたのは、この建物は昭和の初めに
建てられてた時から、地下のボイラー室で石炭を焚いて温風を
送るという地下1階地上3階の全館セントラルヒーティングになっ
ており、各部屋にあるマントルピースから温風が出るシステム。

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時々テレビドラマなどのロケ地として使われるほど素敵な外観です。
この旧前田侯爵邸はその末裔の方々が明治時代に侯爵の爵位を
授けられた華族として昭和初期から第二次世界大戦にかけて暮ら
した邸宅をそのまま保存したものです。当時の建築の粹を結集し
た華やかでもあり厳かでもある素晴らしい建物でした。

当時の洋館って、重厚でエレガントでとても雰囲気がありますよね。
建てられた当時の華やかな社交の様子が目に浮かびます。お客
さんを迎えたり、日本の新しい時代を切り開いていったのですね。
こうした邸宅が今も残っていて、一般に開放され見ることが出来る
というのがありがたいことですよね。

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さすがの加賀百万石のお殿様のお屋敷。
加賀百万石の大名として栄えた前田家は、東京大学本郷キャン
パスの 「赤門」 にその繁栄の名残を今に伝えています。当時欧
州建築の粋を集めた東洋一の邸宅と言われた旧前田侯爵本邸、
庶民の生活とは別世界を見学させて貰いました。 無料で公開さ
れている上に撮影までOKとは恐れ入ります。今回、隣接する和
館は季節の行事ごとや来賓を迎えるのに使用した迎賓館的なも
のだったようですが、現在は残念ながら、修復中だそうで、平成
28年3月まで閉鎖されています。

スタッフの方たちが 『 加賀のお殿様のお屋敷 』 と言いだし
そうな程に親切で熱心で、おもてなしを受けた様な満足感が
得られました。折々に再訪したいと思っております。






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Author:takasan
ようこそ!

ちょっとした幸せな風景
あたたかな気持ち 
風船に乗せてとばします
拾ってくれた人の心に
ほんわかと届きますように。

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