一ヶ月に2回満月を迎える月を「ブルームーン」という。 そのブルームーンを見ると願い事が叶う・・・・。








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「笑顔の力」

...2018/07/01 08:21...

七月 (文月) です。
文月は、短冊に歌や字を書き、書道の上達を祈った
七夕の行事に因み、「文披月 (ふみひらきづき)」
が転じたとされる。いわゆる字の上達を願う月だ。

さて、今週末は七夕の日だ。
天の川に隔てられた織姫と彦星が、年に一度だけ会う
事が出来るという七夕。会いたくても、会えない ・・・・・・。
色々な通信手段の発達した現代では、なかなか想像しが
たい事ではありますが、永遠に語り継がれていく、
この恋物語に一抹の切なさとロマンを感じます。

大切な人の存在を、そしてその人への想いを、
初心に返って今一度振り返る・・・・。七夕は、そんな
一日として相応しいのではないでしょうか?

東京の眩しい夜景の中でも、また天気がイマイチな時
でも、東京の夜空に天の川は見えないけれど・・・・・。
この空間では、確かに美しい天の川が流れている。

その天の川の一つ一つの光の粒が、太陽みたいな
星であること、そして、この宇宙にはそのような銀河が
たくさんたくさんあること。そんなことを想像すると、
宇宙は一体どれくらい大きいんだろうっと考える。
恋と夢と希望を・・・・・七夕の夜空で見つけてみたい。

星の夜に 誰そや小川を 渡る音    正岡子規

昨日は知人と飲み歩き、帰りが遅くなりほぼ終電の時刻。
駅に着いたら、終電が出てしまった後でした。ああぁ~、
あの時、もう一軒と言わなきゃよかったなぁ~。
タクシーで帰ってきたが、何故かかみさんが玄関で仁王立ち。
二日酔いは辛い、明日から静かに頑張ろう!


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「笑顔の力」

「笑い」って不思議だ。
笑ったからお腹がふくれるわけでもない。
笑ったから何かが解決するわけでもない。
けれど、笑い声を聞いていると、こちらまで
気持ちが良くなってくる。

逆に嫌なことがあったり、何か悩みごとを抱えて
いるときは笑うどころか笑顔にすらなれない。
そんな時、鏡に映る自分の顔は、最悪の表情である。
よけいに落ち込み疲れが倍増する。生きている限り、
ストレスや悩みは尽きない。様々な問題が押し寄せて
きて、悩みが次々と重なり元気が出ないときもある。

そんなときほど、無理にでも口角を上げて笑うように
している。辛い時ほど、鏡の前で笑顔をつくると、
気持ちがふっと軽くなるから不思議だ。
先日、学生時代の仲間で飲み会があった。
気心が知れているから何でも話し合える。
笑顔の絶えない彼女の姿にみんなが癒された。
そこで笑顔になれる話を聞いた。

悲しい時に悲しい顔をしたら、ますます暗くなるだけ。
暗い顔をしていたら、どんどん負のスパイラルに
巻き込まれてしまう。つらくても明るくふるまっていたら、
きっと楽しいことや幸福もやってくる。
鏡の前で笑顔をつくり、まずは家に閉じこもらずに
出掛ける。コンビニやお店などに行って、レジの人と
言葉を交わしたり、行き交う人に軽く解釈したりして、
笑顔になる機会を少しずつ増やすようにしている。

そうしているうちに、だんだんと気持ちが上向きになって
きて、自分も相手も笑顔になってその場の雰囲気が和み、
元気も湧いてくる。笑って楽しい気分になると、
それが周りにも伝わり人間関係もだんだん穏やかになってくる。
やり直しができない、泣いても笑っても一度限りの人生。
いつも笑顔を忘れず、悲しみやコンプレックスは外へ
出さずにのみ込んで過ごすように心しているという。

専門家によると、笑っていると免疫力が上がるとも言われる。
確かに、ここ数年以上、風邪もひかないし、インフルエンザ
にもかかったこともないようだ。「笑いは最強、笑顔は健康
のバロメーター」。そう思えてならない。

この笑いと笑顔のために欠かせないのが鏡だという。
鏡は自分の身ごなしが望ましい姿かどうかを映し見る
ためにも、大切なもののようだ。どんな時でも、
まぎれもない自分をしっかりと映してくれる。
思うに、お互いの心も、自分を映すという点では
鏡によく似ている。他人に誠実でありたいと望むなら、
常に自分を省みる努力が求められよう。
その試みのためにも、相対する人のふるまいを
わが姿見として、自らを律したいものです。

礼節を尽くせば、礼節を尽くされる。
まさに、鏡そのものなんですね。
暮らしの中に笑顔を絶やさずに、
心を寄せ合って生きたいものです。

Peace begins with a smile.
(平和は微笑みから始まる)  マザー ・ テレサ


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   「東京の銅像」 2018

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銅像が実は都内にたくさんあります。先日、写真を整理していたら、
沢山の銅像があったので、今回はいくつか紹介してみます。近代
的な銅像の文化は、明治維新後の西洋文化流入とともに日本に
もたらされました。東京には、日本初の西洋式銅像を筆頭に数多
くの銅像があり、過ぎし時代や人々の偉業を寡黙のうちに伝えて
います。文化施設や公園を歩いてみると、様々な銅像があるこ と
に気づきます。普段は見逃してしまいそうな銅像を紹介します。
「銅像編」 という感じでしょうか。そこには歴史があり、その人の
歴史もります。

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「西郷隆盛像」   (東京都台東区上野公園 )
東京で銅像といえば、誰もがまず思い浮かぶのが、上野恩賜公園
の西郷隆盛像。上野のお山の西郷さん、と呼ばれて親しまれてい
る銅像です。犬を連れ、浴衣姿で兎狩りに興じている姿。都民に
愛されただけでなく、地方から訪れる観光客にも人気でしたが、
関東大震災に際しては、尋ね人の張り紙掲示板の役割も務めた。
というわけで、あることは知っていても、普段なかなか気にする
ことのない銅像。特に “歴史” にかかわった人々の銅像を、
この機会に改めて見直してみましょう。

「西郷隆盛」   薩摩藩出身。維新3傑にも列挙されている幕末
・維新の主人公。薩長同盟、江戸無血開城など幕末の名場面を
常に彩ってきた。明治維新後は、「征韓論」 を唱え、盟友 ・ 大久
保利通らと対立し、政治的に敗北し鹿児島に下野。西郷自身は、
政府と対立する気はなかったが、不平不満分子の旗頭に祭り上
げられ、心ならずも 「西南戦争」 を勃発させる。が、敗北し自刃
します。当時から人望があり、強烈なカリスマ性を備えた人物で、
明治天皇にも愛されていたという。死後、その国民的人気により
国賊の汚名を拭われ、上野公園に銅像が建てられることになる。

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「徳川家康公像」  (東京都墨田区横綱1-4-1)
銅像は、江戸東京博物館の傍ら、北側の散歩道に建っています。
現在の東京の礎を築いたのは、徳川家康と言っても過言ではあり
ません。しかし、都内で家康公を仰ぐ銅像は,意外にもこの一体の
みと言われます。江戸東京博物館の開館を記念して、江戸消防記
念会から寄贈された。台座には、亀に似た贔屓 (ひき) で、重き荷
を背負うのを好むといわれます。ちなみに亀の姿は、河川が走る
江戸の町に因んで 「水の神」 ともいわれる亀の存在をかけたもの
ともいわれます。その上に幕府の将軍職が15代続いたことに因
んだ15段の台座を設えています、鷹狩り装束の徳川家康の左手
には、家康が好んだという鷹狩りに用いた鷹が留っているという
凝った意匠の像です。ただ家康公の顔が大黒様の感じです。(笑)

徳川家康  「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし」
後世に 「狸」 呼ばわりされるなど、権謀術数の限りを尽くした悪役
のイメージが作られた家康ですが、徳川家の祖にして徳川家初の
征夷大将軍であり、江戸に幕府を開いた歴史の偉人として有名
な戦国武将です。

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「太田 道灌像」  (東京都千代田区丸の内三丁目5番1号)
銅像は、丸の内の東京国際フォーラム内の展示場入り口に設置さ
れている立像。東京の開都500年を記念し、昭和31年 (1956)
に完成。完成当時、丸の内にあった東京都庁第1庁舎正面に置か
れました。後に都庁は新宿に移転しましたが、像は跡地に建設さ
れた東京国際フォーラムに置かれて現在に至っています。狩りの
装束姿を描いたもので、武人の威風の中に風雅の雰囲気を感じ
させます。

「太田 道灌」
文武に優れた武将であり、歌道に通じた風流人でもありました。
一方でかなりの自信家でもあったと言われ、多くの武勲や功績に
より主家の威勢を上回るほどの声望を得ますが、それが原因で
暗殺されてしまいます。その際に 「当家滅亡」 (自分が死ねば
支えを失った扇谷上杉家は滅亡するという意味) と叫んだと言
われ、その予言の通り、扇谷上杉氏は後北条氏の勢力拡大の
波に飲み込まれてしまいます。悲劇の武将としても名高い。

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「伊能忠敬銅像」  (東京都江東区富岡一丁目20番3号 )
銅像は、門前仲町の 「富岡八幡宮」 の境内、大鳥居脇にあります。
測量開始200年を記念し、平成13年 (2001) に完成。像は測量
旅行時の姿を模した立像で、背後には、日本の地形シルエットと
銅像建立の由来を刻んだ石板が置かれ、杖先方位盤を手に力強
く測量への第一歩を踏み出した姿です。富岡八幡宮は伊能忠敬と
縁が深く、当時は門前仲町に居住し、測量旅行出発に際しては、
富岡八幡宮に参拝して旅の無事を祈願していたそうです。銅像の
隣に国土地理院で新地球座標系による国家基準点 (三等三角点)
が設置されています。(上 ・ 左側)

「伊能忠敬」 といえば、日本各地を歩いて測量。17年かけて日本
の地図を作り上げた人として有名です。17年と言っても、決して
若い頃からではありません。何と55歳を過ぎてからです。学ぶこ
と数年、暦学上の必要から日本列島の実測に転じ測量を始める
ことになります。55歳から72歳までの間に、日本全土の測量と
共に日本地図を作るという大きな偉業をやり遂げました。非常に
過酷な体験を乗り越えながらが行なった測量でした。地球1周
分の距離を歩いたとされています。中高年に元気を与えてくれ
るお話ですね。伊能忠敬の姿に思いを馳せながら、この国の
地図をもう一度じっくり眺めてみませんか。

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「勝海舟像」  (東京都墨田区吾妻橋一丁目23番20号)
墨田区役所の裏側 「うるおい広場」 にあります。生誕地である本所
亀沢町に所縁の墨田区で銅像建立の機運が高まり、その偉業を後
世に伝えようという市民有志により、生誕180年を記念して2003年
に除幕されました。40 歳の姿といわれ、鋭く指した指先は、幕府と
新政府の対決を乗り切り、これから迎えようとする近代日本の行く
末を指示しているかのようです。高さ2.55メートルの大きい像です。

若い頃から剣術に親しみ、家督を継いだ後は蘭学を学びます。
幕府使節の一員とし て『咸臨丸』 で渡米し、帰国後は海軍操練所
を開設するなど、一貫して幕府海軍の近代化と人材育成に尽力し
ます。一方で土佐藩などからの脱藩者を私塾に受け入れ、広い視
野を持って世の中を見る事ができた、貴重な江戸幕府の家臣であ
り、坂本竜馬、西郷隆盛らを開眼させます。官軍参謀の西郷隆盛
と会談し、江戸を戦火から守ることに成功。晩年は赤坂氷川に住
み、明治32年、風呂上がりにブランデーを飲むと脳溢血で倒れ
て死去。最期の言葉は名言の 「コレデオシマイ」 であったという。

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「勝海舟 ・ 坂本龍馬師弟像」  (東京都港区赤坂6-6-14)
像は、勝海舟が亡くなるまで住んだ屋敷跡である港区立特別養護
老人ホーム 「サン・サン赤坂」 の敷地内。この場所は、かつて旧氷
川小学校でした。勝海舟像は座った姿で、坂本龍馬は立像です。
『師弟関係』 の大切さを現代の人々に伝えるため2016年に設置。
海外雄飛を目指した師弟の志を表現して、太平洋の向こうの米国
を望むように東向きに置かれているようです。

文久2年 (1862) に土佐藩を脱藩した坂本龍馬は、赤坂の海舟邸
を訪ねて心酔します。 姉の乙女宛ての手紙に 「勝先生の門人にな
り、ことの外かわいがられている」 とその喜びを書いた。一方の海舟
も 「なかなか鑑識のあるやつだよ」 と後年述懐し、龍馬の 「人や物
事を見る目」 を評価した。 坂本龍馬は薩長同盟と大政奉還に尽力
した後、1ヶ月後の慶応3 年 (1867 )、自ら描いた新しい日本の姿
を見ることなく、京都の近江屋において暗殺されます。短くも激しい
生き方は、今も世代を超えて多くの共感を集めています。

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「大村益次郎像」  (東京都千代田区九段北3丁目1番1号)
銅像は、靖国神社の参道中央に建立。日本最初の本格的な西洋
式銅像として明治26年完成。大村益次郎は、戊辰戦争の戦死者
を祀る東京招魂社建設に先立ち、自ら九段の現地視察を行い、
その建設に尽力したと言われます。靖国神社の創始者です。

大村益次郎は、蘭学医の出であるが、西洋の兵術などの才能を桂
小五郎に買われて軍隊の指揮を任される。 「戊辰戦争」では、その
手腕により新政府軍を勝利に導く。戊辰戦争後に、同郷の過激な
攘夷派の長州藩士に襲撃された傷が元で亡くなります。死の間際
に、「必ずや足利尊氏のごとき人物が九州より反逆の狼煙を上げる
だろう」 と予言。その予言は、明治10年に起こった西郷隆盛率いる
「西南戦争」 で現実のものとなります。今でも大村益次郎の銅像は、
「西南戦争」 の指導者・西郷隆盛の銅像が立っている上野方向を
睨み付けているというのです。なるほど、大村益次郎像は、異様に
高い台座の上に立っています。それは、丁度、上野山に建立され
ている西郷隆盛像の目線に合わせる様に建てられている
のかもしれませんね。面白いですね。

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「伊藤博文」  (東京都千代田区永田町1丁目7番1号) 
この銅像は国会議事堂参議院側の前庭にあります。参議院を見学
した時に、緑の木々の間から銅像が見えて、全体像を撮ろうと近寄
ろうとしたら、係りの方に注意され、結局この写真一枚のみです。
本体は5メートル、台座も含めると11メートルもあります。髭の表現
の細かさや服装、表情の緻密な描き方など、大きな像ならではの
見どころがあります。長州藩出身の伊藤博文はもともとは農民です。
下級武士となった博文は、吉田松陰の松下村塾に入門しました。
ですから、高杉晋作は先輩になります。のちに明治新政府で重
要な仕事をまかされ、日本で最初の総理大臣になっています。
新しい日本の政治を進めるためには憲法が必要です。この憲法
を作るためにリーダーシップを取ったのが伊藤博文です。

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「乃木希典大将と辻占売少年像」 (東京都港区赤坂8-11-32 )
銅像は、赤坂の乃木邸 (乃木神社内) にあります。昭和43年に
長府藩邸跡のニッカ池 (六本木ヒルズの建築と周辺地域の整備
に伴い、現在は毛利庭園内の池の下にある) に建立され、後に
現在の場所に移築されました。これは陸軍少将時代の明治28年、
金沢を訪れた乃木が、出会った辻占売りの少年が一家の生計を
支えていることを知って感銘を受け、当時大金だった二円を渡す。
少年はこの恩を忘れることなく、努力を重ね、金箔業の世界で
大きな実績を積み重ね大成したというエピソードを描いたもの。
乃木希典の人となりを伝えるものとして造立されました。

乃木希典は、長州支藩である長府藩藩士の子として現在の六本
木にあった藩邸内で誕生。長じて長府藩報国隊に入隊し、以後
軍人としての人生を歩みつづけました。西南戦争では歩兵連隊
長心得として部隊を率いるものの、撤退の渦中で連隊旗を奪わ
れるという失態を演じます。これを恥じた乃木希典は、自ら死を
求めるがごとき戦いぶりを見せ、自決さえしようとします。これが
かえって 「武人の潔さ」 として評価されますが、乃木自身は失
態の清算を忘れることはなく、大正元年 (1912)、崩御した明治
天皇に殉死する形で自らを処することになります。明治天皇は
絶対の信頼を示したといわれており、少なくとも当時最も信頼
された陸軍指揮官の一人でした。日露戦争の陸軍大将。

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「福沢諭吉像」  (東京都港区三田二丁目15番45号)
慶應義塾大学 ・ 三田キャンパス構内の旧図書館入口脇に胸像が
あります。1万円札でお馴染みの福沢諭吉ですが、こちらの銅像も
お馴染みのお顔をされています。本来は図書館旧館前にあるので
すが、現在は工事中のため一時、演説館前へ移転してるそうです。
歴史と風格を感じさせる建物の前で鎮座されていて、慶應義塾の
誇りを感じます。

言わずと知れた慶應義塾大学の創設者で、明治維新後の 「文明
開化」 の指導者として近代文明の発展に大きな影響を与えました。
その思想をまとめた 『学問のすゝめ』 で有名な教育者として知られ
ています。他にも日本に銀行や保険を初めて導入し、金融業界に
大きな変化をもたらしましたね。当時としては珍しく海外に出向き、
その文化を日本に持ち帰った人でもあります。福沢諭吉がいなか
ったら、現代の我々も常に “和服” で、屋根も瓦のままだったの
かもしれませんね。(笑) 福沢諭吉がもっとも活躍した時期は、
江戸の末期から明治維新のころ。偉大な成果を残しました。

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この慶應義塾図書館 (旧館) は、義塾創立50周年を記念し明治
45年 (1912) に竣工され、重要文化財に指定されています。
図書館2 階に上がる階段の踊り場には、色鮮やかなステンドグラ
スに建学の精神 「Calamvs Gladio Fortior (ペンは剣よりも強し)」
が書かれ大学のシンボルの一つです。

「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」
はい、誰の言葉でしょう。・・・・・、さすがに聞いたことありますよね。
福沢諭吉です。このフレーズは 「学問のすすめ」 の書き出しの言
葉なんです。この本、やはり内容がすごい。例えばこんな言葉が。

「自分自身の有様を明らかにして、知性 ・ 徳 ・ 仕事の棚卸し
(整理) をせよ。」 「青年の学生が、学問も未熟なうちに役人になる
ことを望んで一生その地位にいるのは、仕立て途中の服を質屋に
入れてしまうようなものである。」 「地理や歴史の基本も知らず、
日常の手紙すら書けないのに、むやみに難しい本を読もうとして
挫折し、また次の本にうつるのは、元手もないのに商売を始めて、
日ごとに職種を変えるようなもの。」 「その原因は何か。それは
ただ流れに任せて生きているだけで、自分自身の有様を反省
したことがないからだ。『生まれてから自分は何をしてきたか。
いま何をしているか。これから何をするべきか』 と、
自分の点検をしなかったからだ。」

これ、ガッツンきました。ちょうど自分の進路に悩んでいるときに
この一節を読んだんですね。「ああ、これ、俺だ」 と衝撃を受け
ました。自分の実力もわからずに、現状を嘆いても仕方ない。
まずは自分自身を見つめなおし、そして高める努力をしなけ
れば、何事も永続することはできない。まず自分自身を変えろ。
環境じゃない、自分だ・・・・と。こういった人生において大きな
示唆を与えてくれる言葉がたくさん詰まっているんですよね。
明治という文明の開化期に庶民が愛読した気持ちが、
わかるような気がします。

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「大隈重信」  (東京都新宿区戸塚町一丁目104番地)
銅像は、新宿区早稲田の早稲田大学構内にあるガウン姿の立像が
有名です。この像は昭和7年 (1932) に早稲田大学創設50周年
と大隈重信没後10周忌の節目として建立されたもので、実は構内
の銅像としては二代目なそうです。杖をついている姿が印象的な
像ですが、これは暴漢に襲われ、爆発物を投げつけられたことが
原因で右足を切断していたためです。固く結ばれた口元や彫りの
深い表情など、人物像として見応えがあります。角帽とガウンを
身に付けた姿は、早稲田入学を目指す多くの学生の憧れです。

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大隈重信は、明治から大正にかけて活躍した思想家 ・ 政治家 ・
教育者であり、教育の近代化にも大きな足跡を残した偉人です。
明治15年 (1882) に 「学門の独立」 の精神を基として東京郊外
(当時) だった早稲田に東京専門学校 (現 ・ 早稲田大学) を開
設した創設者であり、初代総長です。政府の求めに応じて外務大
臣として政界に復帰。後に総理大臣 (第8代、第17代) となります。
大隈重信が世を去ったのは、政界引退から6年後のこと。日比谷
公園で 「国民葬」 が催され約30万人の市民が参列したという。

政治家嫌いの福澤諭吉とは、度々雑誌での論戦に暮れていた。
福沢は大隈のことを 「生意気な政治家」 と、大隈は福沢を 「お高
くとまっている学者」 と言ってお互いに会うことを避けていたそうだ。
そんな二人を周囲は犬猿の仲だと言っていた。ある日、雑誌の編
集部が大隈と福沢を会わせてみようと本人達に内緒で酒宴の席
を設けた。いったいどうなるかと周囲は面白がっていたが、直接
相対した両者は、酒が通ると意気投合し、大隈が 「福澤先生は
うらやましいですね。未来ある若者に囲まれておいでだ」 と言う
と、福澤が 「あなたも学校をおやりになったらどうです?」 と持ち
かけられ、早稲田大学を作ったという話が伝わっています。

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「吉田茂像」  (東京都千代田区北の丸公園1-1)
銅像は、北の丸公園中央通りから清水門に抜ける芝生地の一角に
あり、芝生の中にまるで本人がたたずんでいるような雰囲気で建っ
ています。その風貌とコート姿、葉巻好きであったことから 「和製チ
ャーチル」 とも呼ばれたというエピソードも 「なるほど」 と思わせる
立像です。生誕100周年を記念し、昭和56年 (1981) に建立さ
れました。杖をついた大柄な体格と丸眼鏡をかけた顔は、歴史の
教科書等で見た姿を思い出します。

吉田茂氏と言えば、元内閣総理大臣で戦後は日本の復興と外交
復帰に力を入れ、サンフランシスコ講和条約の締結などを行い、
持ち前の行動力で日本の政治 ・ 外交を牽引しました。大磯に自
宅があった吉田は、戸塚の大踏切の渋滞に業を煮やして、自分
のためにバイパスを造らせてしまったとか。そんな我儘さから 「ワ
ンマン宰相」 とも呼ばれていました。内閣不信任案を受けての
衆院解散 (いわゆる 「バカヤロー解散」) が有名ですね。戦後
で内閣総理大臣を一旦退任した後で再登板した例は吉田茂と
安倍晋三の2人のみだそうです。

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「尾崎行雄像」  (東京都千代田区永田町1-1-1)
国会議事堂前の敷地内にある憲政記念館は、元々尾崎行雄の功
績を称えて尾崎記念館が建てられもので、これを吸収して憲政記
念館が開館しました。(下右) 玄関ホールのエントランス前には、
尾崎行雄像と碑が建てられており、碑には、「人生の本舞台は常
に将来に在り」 と刻まれています。「現在なしていることは、すべ
て将来に備えてのことである」 という意味でしょうか。

大隈重信の立憲改進党に参加し、明治20年 (1857) の第1回
衆議院議員選挙に当選、以後25回連続当選し、日本の議会政
治の黎明期から戦後に至るまで衆議院議員を務め、当選回数 ・
議員勤続年数 ・ 最高齢議員と複数の日本記録を有し、犬養毅
らとともに憲法を基にした議会政治を実現しようとする護憲運動
を進めたことから 「憲政の神様」 「議会政治の父」 と呼ばれる。
あのバカヤロー解散による総選挙で初めて落選し、政界を引退
します。その間に文相、東京市長、司法相などを歴任。東京市
長在任中にアメリカへ桜をを贈りました。現在も見事な美しさで
ポトマック河畔の春を彩っています。毎年、桜祭りが行われる。

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「ハチ公と上野英三郎博士像」 (上) (東京都文京区弥生1-1-1)
東京大学弥生キャンパスの農学部の正門を入った直ぐの左手に
あります。カバンを置いた上野博士に飛びつく嬉しそうなハチ公の
姿が、強い絆で結ばれていたことが窺え、この像を見ていると博士
が亡くなった後10 年もの間、朝夕渋谷駅に通い博士の姿を探し
求めたことが分かる気がしますね。誰もが望む理想の結末。思わ
ずホロッとする。「良かったね、ハチ!」 と言いたくなるような素敵
な像です。ハチ公没後80年目の2015年除幕式がありました。
ハチ公の飼い主は、日本の農業土木学の創始者 ・ 東京大学農
学部の上野英三郎博士です。農学部正門入って右側 「農学資
料館」 には上野博士の胸像、ハチ公の臓器も展示してあります。

「ジョサイア ・ コンドル博士像」 (下) (文京区本郷七丁目3番1号 )
銅像は、没後2年の大正11年 (1922) に、長年の功績を称えて
東京大学構内の広場に、銅像では比較的数が少ない台座付きの
立像になっています。また台座には2体の邪鬼も描かれています。
ロンドン大学などで建築学を学んだのち、イギリスの名建築家に
因んだソーン賞を受賞したことをきっかけに、日本政府の招きを
受けて明治10年 (1877) に来日しました。有名な鹿鳴館、ニコ
ライ堂や三菱財閥の岩崎久弥本邸等、重要文化財になっている
建築物を数多く手がけました。また創成期の日本人建築家を育
成し、明治以後の日本建築界の基礎を築きました。

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「チャニング ・ ムーア ・ ウィリアムス主教像」 (上)  
(東京都豊島区西池袋3-34ー1 )
立教大学 ・ 池袋キャンパスのチャペル会館西側にあります。立教
大学の創立者で 「キリスト教に基く教育」 を理想としたチャニング
・ ムーア ・ ウィリアムス師を偲び、同師の偉大な功績を讃え、この
理想を永く学ぶ者に植えつけたいと希う長年の念願が漸くかない、
立教のシンボルとして建立。今から51年前の昭和42年ことです。
彼のポケットには金平糖が入っており、それをことあるごとに子供
たちに配って喜ばせた。この逸話に由来し、金平糖を取り出す際
の仕草として片手をポケットに入れた姿になっているようです。

「高村光雲像」 (下) (東京都台東区上野公園12番8号)
東京藝術大学の美術学部の建物の周辺や木立の中に、歴代教授
等の胸像が多数置かれています。その一つが 「高村光雲像」 です。 
幕末明治の動乱期を生きた代表的な木彫家で、岡倉天心に彫刻
科の教授への就任を依頼され、藝大教授として多くの後進を育成。
西洋彫刻の写実性を取り入れ、日本の近代彫刻の礎を築く。彫刻
・ 詩人の高村光太郎の父親でもある。代表的な作品は、上野公園
のシンボルでもある 「西郷隆盛像」 や皇居前広場に建立された
「楠木正成像」 等。西郷さんの銅像は、この方が造ったんですね。

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「夏目漱石像」  (東京都新宿区早稲田南町7)
銅像は、地下鉄東西線 「早稲田」 駅から10分ほど歩いた 「新宿
区立漱石公園」 の入り口にあります。漱石が亡くなるまで過ごした
「漱石山房」 跡地に、その偉大な文豪を称え漱石の胸像を建立。
台座には漱石自筆の俳句も刻まれています。ここで漱石は、「三
四郎」 「それから」 「こころ」 といった代表作を執筆しました。現在、
公園の一部が 「新宿区立漱石山房記念館」 になっています。

明治時代から大正初期にかけて活躍した小説家・英文学者です。
東京帝国大学・英文科を卒業後、教員生活を経てイギリスへ留学。
帰国後は東京帝大講師を務めるかたわら、本格的な執筆活動を
開始しました。『我輩は猫である』 で注目を集め、以後 『坊ちゃん』
『三四郎』 など、現在もなお愛される小説の数々を執筆。

「秋立つや 一巻の書の 読み残し」 夏目漱石 (大正5年)

夏目漱石が芥川龍之介への手紙に添えられた句です。
若者へ後事を託す句とも読めます。 
この年の末、夏目漱石は没する。

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「寅さん像と見送るさくら像」 (東京都葛飾区柴又四丁目8-14)
渥美清さんが主演した映画 『男はつらいよ』 でお馴染み。「わたく
し生まれも育ちも葛飾柴又でございます」 と啖呵を切る。ここは寅
さんの故郷、東京都葛飾区の柴又。京成金町線の柴又駅改札口
を出ると駅前広場があります。平成11年に完成した 「旅に出る時、
さくらの方を振り返ったシーン」 をモチーフとした寅さんの銅像が
立っていました。(下左) 時が流れて・・・・・、寅さんが旅立つ前に
振り返る視線の先に 「見送るさくら」 像が出来ていました。(下右)
平成27年3月に、寅さん像のそばに寅さんの妹さくらの像も完成。
旅に出発する寅さんを、エプロン姿で見送る妹さくらというのがコ
ンセプトだそうです。(上) 映画 「男はつらいよ」 で、さくらの 「お
兄ちゃん 」 の呼びかけに、振り向く車寅次郎が思い出されます。

家族と喧嘩をしたり、マドンナに振られたりして、やるせない思い、
寂しさを抱えて柴又駅から旅立つことが多かった寅さん。けれど、
寅さんは本当に孤独だったのか? というと、決してそうではなか
ったと思うのです。なぜならば、妹のさくらがいたから。いつでも兄
を案じて帰りを待ち、そして、旅に出る兄を送り出していたさくら。
この優しい妹との絆こそが、寅さんを真の孤独から守っていたに
違いありません。だから、寅さんは、長い旅を終えた後、いつも
さくらがいる柴又へ帰ってきたのでしょう。家族っていいね~。
「お兄ちゃん、いつ帰ってくるの、今度?」。今もきっと日本の
どこかを旅している寅さん。故郷の柴又で、さくらさんが帰り
を待っていますよ!

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ところで銅像、特に人物像にはモデルとなった人物の人柄や業績
などを広く伝え、後世に残していくという役割があります。作られた
時代を象徴し、時には国家の歴史や威信、思想といったものを必
然的に背負わされていることもあるわけです。銅像を見ることは、
モデルとなった人物を通して、日本の歴史を透かし見る手がかり
になるかも知れませんね。

慶應義塾大学のシンボルともいえる図書館旧館。(下左)
この赤煉瓦の建物の外壁には大きな時計が据えられています。
(下右) その文字盤の数字の部分には 「TEMPUS FUGIT」 とい
う11文字が刻まれ、12 時にあたるところには砂時計がデザイン
されている。文字はラテン語で 「時は過ぎゆく」、すなわち 「光陰
矢のごとし」 という意味です。砂時計の砂が流れ落ちるように瞬く
間に時は過ぎてしまう若き日々を悔いなく生きようと語りかけて
いるのです。建物にしても様々な事を学ぶことができます。
【光陰矢の如し】 でも、まだまだ賞味期限は過ぎていません。(笑)
幾つになっても 「学ぶ」 ことを忘れないでいたいものです。





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