一ヶ月に2回満月を迎える月を「ブルームーン」という。 そのブルームーンを見ると願い事が叶う・・・・。
           
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「お母さんが好き」

...2017/04/23 20:53...

青森地方では桜が満開と聞きました。
すでに東京は桜が散り、その姿さえ見当たりません。
日本列島、長い島国ということがわかります。
雨が降ったり、風が強かったりするたびに、はかなげに
散っていく桜を見ると、季節限定の美しさだとわかって
いても、なんだかちょっぴりせつなくなってしまいます。

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でも、街には新入生や新入社員らしき人を
見かけることも多く、その初々しい様子に、
希望に満ちた若かりし頃の気持ちを思い出します。

さて、我が社でも多くの新入社員を迎えました。
やはり、新入社員が入社してくると、職場のそれまで
の雰囲気が一変し、ピリッとした感じが伝わってきます。
また、自分の新入社員時代の失敗談に花が咲いたりと、
先輩社員も何となくソワソワしています。

入社式で社長がこんな訓示をしていました。
社会人としてのスタートを切った皆さん。
私の信条である 『真実一路』 という言葉を贈りたいと
思います。これは、自ら正しいと信じる道を貫き通す、
という言葉です。書物や歴史、先輩や同僚から学び、
自分は何をすべきかを必死になって考える。

そうして自分のやるべきこと、正しいと信じられる
道が見えれば、たとえ周りの人に反対されたとしても、
それを信じて突き進んでいくことで、必ずや目標を
達成することができる、私はそう信じています。

社会人として成長を続けていくと、様々な壁に
直面することがあります。そのようなとき、自分は何を
正しいと考え、重きを置く価値はどんなものか、といった
自分の 『軸』 をしっかりと把握していれば、どのような
環境であっても、そこに立ち戻って物事を考えて
判断することができます。時代の変化の波に
流される心配もなくなります。

今日から皆さんが取り組む仕事は、「小さな仕事」
「地道な仕事」 であると感じることが圧倒的に多い
と思います。 一見、小さく見える仕事であっても、
そこには必ず、皆さんそれぞれの知恵やアイデア
を施す余地が無数に存在します。

自分 なりに工夫をし、相手の期待を少しでも上回る
仕事に仕上げる ことができれば、そこには新たな価値が
生まれます。そうした 創意工夫を積み重ねることによって、
その仕事は 「誰にでもできる仕事」 ではなく、「自分だから
こそできる仕事」 へと昇華していくのです・・・・・と。 
心新たに・・・・・私も頑張りたい。

Where there's a will there's a way.
   ( 志あるところに道あり )


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「お母さんが好き」

久しぶりに小学校の頃の仲間たちと飲み会があった。
会社や知人たちと違って、幼馴染は子どもの頃の
自分に戻れる気がして嬉しいものだ。
大いに盛り上がった。

一人だけ 「風邪気味なので・・」 と酒を控えた。
「この時期に風邪かよ」 と思ったが、彼は体調が
悪いと決まって 「風邪をひいた」 が口癖だった
のを思い出した。いつまでも変わらないその姿に、
幼馴染はいいなあと思う。その 「風邪」 にまつわる
ユ~モアな詩を小学校の教師をしている一人が
話してくれた。

ぼくもかぜをひいた。
だから、「バカはかぜをひかない」
という言葉を思い出して、お母さんに、
「ぼくはバカじゃないね」 と言った。
そしたらお母さんが、
「今はバカでもかぜをひくのよ」 と言った。
バカはかぜをひくの? それともひかないの?

バカはかぜをひかない?
その言葉よりもこの親子関係の話の方が話題になった。
「今はバカでもかぜをひくのよ」。 お母さん、きつ~い
ひとことですね。きっとこの詩を書いた子は 「あなたは
バカじゃないよ。平気、平気」 という言葉を待っていた
に違いない。でも、現実はそう甘くはなかった。(笑)

こんなきつい冗談が通じるのは、親子関係の土台が
しっかりしているからでしょう。この子もクールに受け
止める余裕があるから、こんな詩が生まれたのでは
ないでしょうか。

両親が忙しくてなかなか家族でゆったり過ごすことが
できない子すらいます。そんな子は、ときどき親の愛情を
確認したくなるものです。子どもは、親の愛を獲得する
一番の近道は 「頭のいい子になること」 だと感じています。
「ぼくはバカじゃないね」 という言葉の裏に、「ぼくを好きか
どうかを知りたい」。そんな気持ちが潜んでいることもある。
と、この幼馴染の教師は話していた。

例えば、公園や乗り物で時々見かける、スマホに
夢中のお母さん。「あっ、ねぇねぇお母さん、見て~!」
お母さんは、スマホから目を離さず・・・。しかし、「見て、見て」
と言ってくれる可愛い時期は、ほんの一瞬だったとしみじみ
思います。共有したい時間、見てと言った時に見てくれると
いう安心、確信は親子関係における大切なベースになります。

なるほど、一緒にいても 「心あらず」 では一緒にいるとは
言えない。短い親子の時間をムダなく大事に過ごす。
忙しい親にしてみれば何とも厄介ですが、たまには
ぼくの方をしっかり見てよ、というアピールかもしれません。
普段の何げないやりとりが、子育ての勝負どころになる
こともあるのだなぁと思います。触れ合う時間の多寡よりも
質が大切とよく言いますが、あながちそうなのかも知れません。

愛されていると安心すれば、子どもは自ら育つ、
元気がでるのです。親が子どもに愛情を注いで、
子どもに接して、子どもに諭し、子どもと一緒になって
勉強してみる。「お母さんが好き」 「自分が好き」 と
言う子に育ててあげたいものです。


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  江戸 ・ 吉原 「おいらん道中」
     浅草観音うら ・ 一葉桜まつり

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外国の方を案内するので協力してくれと、知人に頼まれて出かけ
たのが 「浅草観音うら ・ 一葉桜祭り」。馴染みのない方も多いと
思いますが、浅草・浅草寺の裏側を少し行ったところの浅草警察
署の前の通りを 「一葉桜小松橋通り」 といいます。そこで毎年行
なわれるのが 「一葉桜祭り」 。その祭りで 「花魁道中」 があると
いう事です。最近は意外と外国の方にも人気のようです。柔らか
い薄桃色の花びらが風に舞う曇り空の下で、花魁道中は滅多に
観られませんから楽しみです。

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この日は、朝から小雨が降ったり止んだりの空模様。開催するのか
不安でしたが、取り敢えず出掛けてみようと浅草寺の北側 「観 音
裏」 にある小松橋通り (上右) に着いたら、もう人でいっぱい。(上左)
係りの方に聞いたら開催するとの事で一安心。でも空模様が・・・。

2003年、江戸開府400年を機会に、「八重桜を街路樹とした町づ
くり」 を提案。観音裏の小松橋通りを中心に、一葉桜 (八重桜) を
植樹しました。それを記念して 「浅草観音うら ・ 一葉桜まつり」 が
行われるようになりました。八重桜は4月には桃色の花をつけ、夏・
秋には青々とした葉の美しさで道行く人を和ませてくれます。(下右)
八重桜を街路樹にしている町並みは東京でも珍しいようでます。
「浅草観音うら一葉桜まつり」 の会場近くの台東区千束3~4丁目
付近は、江戸時代、日本一の遊郭であった 「 吉原 」 が、明暦の
大火 (1657年) 後に中央区日本橋人形町から移り、第二次世界
大戦後まで約300年も続いたところです。

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「浅草観音うら一葉桜まつり」 は浅草寺の北にある 「観音うら」 と
呼ばれるエリアで開催され、「浅草観音うら三大祭り」 の一つに数え
られています。一番の見どころは 「江戸吉原おいらん道中」 です。
かつて “吉原” において一番格が高い遊女である花魁は芸事を究
め、高い教養を持っていました。江戸時代、吉原は遊郭であると同
時に文化の発信地でもありました。花魁には簡単に会えず、会うた
めには引手茶屋を通して呼び出しをしなければなりませんでした。
その際、花魁は見習いの禿 (かむろ) や振袖新造など大勢の供
を連れて歩いたのが 「おいらん道中」 です。江戸吉原ならではの
「花魁ショー」 には、当時の花街の様子が窺え、豪華絢爛な花魁
が練り歩くので、年々見物客が増えて人気があるようです。

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毎年4月第2土曜日に繰り広げられる、江戸情緒を今に伝える無形
文化財 「江戸吉原おいらん道中」 。吉原の土地で代々受け継がれ
てきた華やかな花魁道中を、華やかな歴史絵巻を演出しています。
平成15年に始まり今年で15回目のようです。地元の人による児童
・園児によるパレードで始まり、花やしき少女歌劇団によるパフォー
マンス、「江戸吉原粋花街乃賑」 ステージショーや和太鼓演奏など
が浅草 ・ 小松橋通りの特設ステージで行われます。また柳通りには、
模擬店やフリーマーケットも出店。

名称 : 第15回 「浅草観音うら一葉桜まつり 」
       「~江戸吉原おいらん道中~」
日程 : 2017年4月8日 (土)
時間 : 10時~16時 (花魁道中は13時と14時45分の往復路)
場所 : 台東区浅草 ・ 一葉桜小松橋通り
      (千束3丁目交差点から浅草7丁目交差点まで)

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吉原といえば何か物悲しいイメージがある柳の木を連想しますが、
それまで不評だった柳の木に代り、八重咲きのサクラである一葉
桜が通りに植樹された記念して毎年開催されているイベントです。
威勢のいい 「木遣り」 が響く中、纏 (まとい) が舞っています。
行列は木遣りから先導の金棒引きに続き、手古舞、提灯持ち、
禿 (かむろ)、花魁 (太夫)、振袖新造と続きます。

「木遣り (きやり)」 (上)
「木遣り」 本来は、読んで字のごとく木を遣り渡す(運ぶ)という意味
ですが、威勢のいい町火消のお兄さん達に唄われる唄のことです。
もともとは大木など運び出す時、その力を一つにまとめるための掛
け声、合図として唄われたものでした。このように作業唄であったも
のが、寺社や家などを建築すること自体が慶事であったことから、
おめでたい唄として唄われるようになりました。江戸の中期ごろには、
鳶職人の人達の間で盛んに唄われていたそうで、そのうち町火消が
鳶職人を中心に誕生したため、木遣り唄も自然と町火消の中に溶け
込み、受け継がれていったといわれています
「金棒引きの男衆」 (下)
花魁道中の先導役で、露払いの役目をします。金棒引きの音だけ
が響き渡ります。静かな行進です。 左手の提灯に注目。提灯を後ろ
へ回して腰の当たりで逆手に持っています。(下右) 提灯の文字が
後ろの方に向いています。 これは後に続く人の足元を照らすため
に、後ろ向きに持っているようです。当時は暗かったわけですから、
後ろに細かい気配りをしたんですね。

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「手古舞」 (上)
江戸時代の祭礼で、男装の女性が山車 (だし) や神輿の先駆を
して舞ったのが始まりと言われています。持ち物は右手に "金棒"
(上に鉄製の輪が4~6個付く鉄製の棒)、左手に自分の名前が
書かれた 「提灯」 を持ち、本来は木遣りを歌いながら行進するん
だそうです。現在一般には、この 「てこまえ」 の姿を真似た衣装
を着て祭礼、その他の催し物で練り歩く女性たちのことをいうよう
です。山王祭や神田祭を中心とした江戸の祭礼でよく見かけます。
「雅屋」 (下左)
歌舞伎には幼少の頃から芸を磨き、代々受け継ぐ世襲制のシステ
ムがあります。日本の最高峰芸術として後世へ芸を受け継ぐ方々を
尊敬、尊重しながら、一方で江戸に栄えた楽しい 「歌舞伎」 を創り、
難解と思われがちな歌舞伎をもっと身近に感じて貰えるものを創り
国内外へ伝える組織のようです。
「助六」 (下右)
江戸の伊達男の助六は、花の吉原で大いにもてるがあちこちで喧嘩
を売る暴れん坊。その恋人の花魁 (おいらん) 「揚巻」 も、豪華な衣
裳に身を飾り、強い相手に臆することなく言いたいことを言いまくる。
華やかな吉原を舞台に登場する人物。油揚げの 「揚げ」 とのり巻き
の 「巻き」 から 「揚巻」 と呼ばれるようになりました。そして 「助六所
縁江戸桜」 の主人公・助六の愛人である吉原の花魁の名前も同じく
「揚巻」 という名前でした。このつながりから、寿司の揚巻も歌舞伎の
助六の人気にあやかるようにと、いなり寿司とのり巻きの詰め合わせ
のことを、いつしか 「助六」 と呼ぶようになったのです。

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「提灯持ち」
大きな箱提灯に太夫の名前が入った箱提灯を持つ男衆のことで、
「象潟 (きさかた)」 太夫 (上右) と 「藤浪」 太夫 (下左) の名が
見えます。提灯持ちの着物には、入り角文様がちりばめられて
おります。片手で提灯を持っていますが、かなり重そうです。

箱提灯とは、火袋 (紙を貼った覆いの部分) を縮めると上下の箱
の中に畳む構造になっています。上下に丸い蓋のある提灯です。
これは畳むと中に納まる事から箱提灯というらしいです。 16世紀
後半安土桃山時代の頃から作られていた箱提灯は、江戸時代に、
主として武家、貴族や吉原のおいらん等が外出の時これを使った
他、富裕な町家では婚礼等の儀式などにこれを用いたと言われて
いました。

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「禿 (かむろ)」
さて次は、赤い着物を着た禿 (かむろ) です。沿道からは、わあ、
可愛いとの声が・・・・。禿 (かむろ) とは、将来の 「花魁 (太夫)」
の候補生として、花魁の身の周りの雑用や行儀作法の見習いを
する10歳前後の少女のことで、たばこ盆とキセル入れを抱えて
登場します。(下左) 復路はたばこ道具を持っていません。(下右)

「禿坂 (かむろ坂)」
西五反田四丁目と小山台一丁目の境を下る坂で、一年に一度一
週間ほど、桜のトンネルに覆われる美しい坂道を 「かむろ坂」 と
いいます。江戸時代の少し悲しい言い伝えが残されていました。

江戸時代の延宝七年(1679)、辻斬り強盗を重ねていた元鳥取藩
士平井 (白井) 権八が鈴ケ森刑場で処刑され東晶寺に葬られた。
権八と恋仲の遊女 ・ 小紫は権八の処刑の報を聞いて店を抜け出
し、東晶寺に向かい墓前で悲しみのあまり自ら命を絶った。 この時、
帰りの遅い小紫を探しにきたお付の禿が帰り道でならず者に襲わ
れ、逃げ場を失い桐ケ谷の二ツ池に身を投げたという。 これを哀
れんだ近くの人が、亡骸を池の傍らの丘に葬り、その後、この一帯
の丘陵をかむろ山、これに通じるこの坂を 「禿坂」 と呼ぶようになっ
たと伝えられています。時代の発展とともにかむろ山は削られ池も
なくなり、現在その面影は坂道の名にしか残されていません。平井
権八は歌舞伎や浄瑠璃の主人公 「白井権八」 としても登場し、相
思相愛の小紫の話は、歌舞伎 「浮世柄比翼稲妻」 にもなっています。

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江戸の風情が今も残る浅草寺の北側 「観音裏」 にある一葉桜 ・
小松橋通りでは、「花魁道中」 の花形で豪華絢爛な 「花魁」 の登
場です。「象潟太夫」 と 「藤波太夫」 の2人の花魁が妍を競います。
かつらや衣装等合わせると30 ㎏にも及ぶ重量のものを身につけ
るため、美貌だけでなく、精神力や忍耐強さ、足腰の強さ等体力面
も要求されるそうです。

花魁の履き物は3 枚歯の高下駄で、大きく外側に八の字を描くよう
な歩き方から 「外八文字」 と呼ばれています。この優雅な歩み方は、
踏み出した足を地につけ、外方向に開くもので2 町を歩 くのに2 時
間を要したといいます。対して、京都島原では内側に 八の字を描く
歩き方で 「内八文字」 というそうです。稽古しても、一人前になるに
は三年はかかったという。石の上にも三年。何事も修行が第一
なんですね。

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沿道を優雅に練り歩くのは 「象潟太夫 (きさかただゆう)」。「江戸
吉原おいらん道中」 は、その華やかさから、まるで歴史絵巻を見
ているようです。「おいらん道中」 そのものも珍しいもので、東京
では滅多に見ることができません。華やかで美しい 「象潟太夫」
を演じるのは元宝塚の方らしいですよ。

「花魁道中」 は、多数の応募者から選ばれた一般女性が1年間
の練習を積み、このおいらん道中に臨むそうです。行列を構成
する男衆や新造などは、すべて地元の人たち。八重桜がはらは
らと舞い散る中、一歩一歩ゆっくりと外八文字を描きながら進む
花魁。匂い立つような色気に、我を忘れて見入ってしまいました。
その間、数分だったのか十数分だったのか・・・・・。ゆっくりゆっく
りと進む美しい行列には、その場を異世界に変えてしまう作用が
あったように思えました。

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花魁道中の華、こちらは 「藤浪太夫」 です。重そうな三枚歯の高下
駄を履き、男衆の肩を借りてシャナリ、 シャナリと独特な歩き方です。
衣装の豪華なこと。「色」 と 「粋」、「教養」 に 「芸」 までも兼ね備えた
花魁は、いわば女性の最高峰といった感じでしょうか。

花魁 は吉原遊廓の遊女で位の高い者のことをいいます。見習い
の少女が太夫のことを 「おいらの所の姉さん」 と言ったのが起源と
言われています。江戸時代、京や大坂では最高位の遊女のことを
「太夫 (たゆう)」 とも呼んでいました。花魁には教養も必要とされ、
花魁候補の女性は幼少の頃から禿(かむろ) として徹底的に古典
や書道、茶道、和歌、箏、三味線、囲碁などの教養、芸事を仕込ま
れていたようです。大名の相手も勤めるので、話術などのほか礼儀
作法も修得する必要があったので しょうね。 現代風でいえばスー
パーモデルと文化人をミックス したような存在といえるでしょうか。

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花魁のそばで支えるのが 「傘持の男衆」 (上) と 「肩貸しの男衆」
(下) です。「傘持の男衆」 は、大きな傘を太夫の後ろから差し掛
けています。江戸初期まで傘は貴人が使う物という感覚が強くて、
武士を含め日常の雨よけ日よけは 「笠」 が一般的でした。ある意
味、長柄傘は貴人の象徴なのですが、実は平安期から長柄傘は、
遊女さんの目印でもあったようです。左手は後ろ向きで大変そう。
「肩貸しの男衆」 は、花魁 (太夫) が外八文字で歩く際に、無くて
はならない存在の男衆です。 花魁は、三枚歯の高い黒塗りの下
駄を履いています。外八文字と言われる、外側に大きく踏み出す
独特の歩き方をするので、肩貸しの肩に手をそえてバランスを
とらなければ歩くのは困難と言われています。一人では歩けな
いようです。側に付いて警護の役割もします。それにしても肩に
手を当てる場所にハンカチを添える心配りに感服です。

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「振袖新造」
振袖新造は、禿 (かむろ) から成長し、独り立ちする前の花魁付の
見習のことです。格の高い 「太夫」 になる将来が約束された役とい
われ、おもに 「花魁 (太夫)」 の身の回り全般をお世話します。禿の
中でも将来太夫になれることを約束された女の子で言わばエリート。
容姿が美しく、芸事などを楼主からみっちり仕込まれるようです。こ
のほかに 「番頭新造 (全てを取り仕切り、マネージャー的な役割を
担う 禿 (かむろ) ・ 振袖新造のお姉さん的な役割です。) 等もある
ようです。「新造」 とは武家や町人の妻を指す言葉であったが、後
に未婚の女性も指すようになったという。

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「吉原の狐舞ひ」
近くの吉原神社を中心に活動する江戸吉原の 「吉原の狐舞ひ」
が、おいらん道中に華を添えます。江戸の昔、吉原は廓の四隅と
大門の外には計5つの稲荷神社があり、遊女たちの信仰を受け
ており、遊女たち自身も 「狐」 と呼ばれていたりと、なにかと狐に
所縁のある街であったようです。そんな遊郭のある吉原では、大
晦日の夜に獅子舞の代わりに狐の面をかぶり、御幣と鈴を持ち、
錦の衣で美しく着飾った 「狐舞ひ」 が現れ、笛や太鼓の囃子を
引き連れて練り歩き、新年を寿いだと伝われております。当時は
吉原の中でしか見ることのできなかった特別で、粋な芸だったこ
とがうかがえます。こうした粋な芸であり、苦界に生きる遊女たち
の貴重な娯楽でもあった 「狐舞ひ」 も、遊郭の解体とともに姿を
消したようです。

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小松橋通りの往路の花魁道中が終わると、メインステージでは、
まずは望月太左衛社中と元吉原二三松姐さんによる 「江戸夢模
様」 2調鼓を披露。吉原の狐舞、江戸吉原粋花街之賑のおいらん
ショーが繰り広げられ、威勢のいい小太鼓の音が鳴り響き、一葉
まつりに花を添えていました。ステージ前は凄い人で、小雨も降る
中、何とかテントの中に潜り込んでの鑑賞でした。(笑) 本来はス
テージに屏風を飾るのですが、小雨模様で飾れなかったようです。

幕府が江戸に移った慶長年間(徳川二代秀忠)に、庄司甚左衛門
が幕府に願い出て現在のよしまちべに芸者さんの集まる所を作り
ました。よしが茂った原だった事から “よし原” と呼びましたが、明
暦の大火で焼失した以降、浅草田浦に移し、これを “新よし原” と
改称し、当時の粋な人が集まる江戸文化のもうひとつの発祥の地
となりました。芸を売るというプライドと格式を持ち、芸事をみっちり
仕込まれた芸者と太鼓持ちによる独特のお座敷芸も生まれ、粋な
お客様たちに珍重されました。

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「花魁ショー ・ 座敷の場」
吉原では様々な作法や独特のルールがありました。客が花魁とは、
最初の顔合わせである 「初会」 から始め、2回 (裏を返す)、3 回
目 (馴染み) と少なくとも3 回登楼しなければ、親しく接することが
出来ませんでした。ステージでは 「座敷の場」 で、掛け見世、盃毎、
煙管毎など、その様子が再現されました。

花魁ショー 「江戸吉原粋花街乃賑」 三浦屋店先の場の一幕。
舞台は、遊郭として栄えた吉原。主人公の助六は男だてに身をや
つして吉原に通い、往来を行き交う男たちにけんかをふっかけ、刀
を抜かせようとします。助六を間夫に持ち、相思相愛なのが三浦屋
のおいらん 「揚巻」 です。彼女に言い寄る男衆。現れた助六は、江
戸紫の鉢巻き、背中に尺八を差し、黄色の足袋にげたを履き、蛇の
目傘持った右腕を高く上げて見得を切ります。江戸っ子が最も粋を
感じる男だてのいでたちです。振袖新造に囲まれる助六。(下中)
「象潟太夫」 は、「揚巻」 として舞踊ります。(上) 大勢の若い衆や
禿を伴って登場する 「揚巻」 が纏うのは金をあしらった打掛の 「掛
け見世」。(下右) 花魁一の揚巻が、この打掛を脱ぐと鮮やかな紅
色の色っぽさにウットリ。(下左)

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花魁ショー ・ 座敷の場 「盃毎」
妖艶で華やかな花魁文化は 「遊女評判記」 等の文学作品や浮世
絵に描かれるなど、古き良き江戸の文化として語り告がれています。
そんな 「座敷の場」 の 「盃毎」 で、花魁の心を映し出す一場面です。

お大尽を迎え、花魁と契りを交わす 「固めの杯」 を実演します。
まずは振袖新造からお大尽へ盃が渡され、これを飲み干します。
手が震えています。客席からは笑いがこぼれます。続いて花魁に
も盃が渡され・・・受け入れて飲み干すか? 固めの杯です。神道
の結婚式で、夫婦となる男女が神前で3種の盃を用いて酒を飲む
三々九度と、共に盃で酒を飲む固めの杯の儀式ということです。
今年のお大尽は、浅草三丁目東の町会長さんだったようです。
花魁もこの杯を飲み干し、めでたくお大尽さん大願成就です。

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花魁ショー座敷の場 「煙管毎」
花魁は、煙管 (きせる) に、刻みたばこを詰めて火をつけます。
シーンと静まり返った会場に緊張が走ります。というのも、この煙草
を客に渡すも渡さぬも、花魁の胸三寸にあるからです。花魁と客が
契りを交わす 「煙管渡し」 の実演です。いわゆる 「お気に入り」 か
どうかの瀬戸際なわけです。緊張します。

煙管 (きせる) は、喫煙道具の1つで、雁首と吸い口の部分の両端
だけ真鍮が使われ、途中は竹が使われ素通しになっています。位
が上ると帯の幅が広くなり、それに合せてその帯にさす煙管も長く
するしきたりがあり、煙管の長さで格が分かったようです。また、刻
みたばこは良質な日本古来の銘葉 (在来種) を主原料とし、熟成
した芳醇な香りとうま味を味わう事が出来るようです。

【豆知識】
乗車駅と下車駅近くの切符 (または定期券) を使い、間を無賃で
乗車する不正乗車の一種をキセル乗車といいますよね。これは煙
管 (きせる) の作りが、吸い口と刻み煙草を入れる火皿の両端だ
け金属で出来ていることから、入口 (乗車駅) と出口 (下車駅) の
分だけお金を払う乗車方法をキセルに例えた言葉のようです。
元は学生の隠語でしたが、 明治以降に一般でも広く使われる
ようになったそうです。

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小松橋通りに到着したとき沿道はアマチュアカメラマンが場所取り
に争奪戦中でした。年に1度の機会を逃すまいと、みなさん鼻息が
荒い、荒い。土地柄なのか、来ている人の年齢層は高めで、疲れ
ないようにとの配慮からか椅子持参の方もいました。そして、やた
らと知らない人に話しかけられます。それにしても外国の方の多い
こと凄かったです。この場所だけでも外国人が7人くらいいました。
(上) 昔は富士山と芸者が日本のイメージでしたからかも知れま
せんが、どこでこんなイベントを調べるんでしょうかね。

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歩く美術って言っていいほど、その豪華な着物を着て堂々と歩い
てお披露目する絢爛豪華な打掛は見事な出来栄えです。、

「衣装」
花魁の着物は 「見せること」 が一番重要でした。そのため実用性は
ほとんどありません。 現代でいうなら、ステージ衣装のようなもので
しょうか。 基本的な重ね方は、襦袢などの下着類を着て、その上に
小袖を2枚ほど重ねます。そこに帯を結び、さらに打掛を3枚ほど重
ねるのです。花魁の着こなしで特徴的なのは、帯を前で結ぶ 「前帯」
でしょう。前帯はもともと既婚者を表す結び方で、遊郭では一夜限り
の妻を意味しました。結び目が前にくるので大きな柄を見せやすく、
特に帯を前に垂らす 「まな板帯」 (下左) はお気に入りの絵柄を目
立たせられるので多くの花魁が好みました。浮世絵でもまな板帯姿
は定番です。裾を長いまま引きずって歩くと、裾がめくれてしまった
り足に纏わりつくことがあり、それを防止するために裾の部分に
「ふき」 といわれている綿を入れて、厚みを出していました。(下右)

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「下駄」
それぞれの履物に注目して見ました。足を撮ってごめんね。 「わっ
ちの下駄はえらい重いので、踏んでしまうとたいへんでありんすぇ」

花魁が履く黒塗りの三枚歯下駄 (上左) は、重量が片足で3 ㎏ も
あったといわれます。(上左) そのため、独特の歩き方 (外に大き
く脚を開き、八の字を描く歩き方) が考案されました。江戸でも昔は
京都をまねて内八文字だったといわれてます。 当時の有名太夫
「勝山」 が外八文字で歩いた事がキッカケ。そこで京は内八文字、
江戸は外八文字になったといわれます。30センチの高さが有る下
駄で練り歩くのですから大変だと思います。「禿 (かむろ)」 が履い
ているのは、舞妓さんなどが愛用する底の厚い 「ぽっくり 下駄」
(上右) でしょうか。因みに舞妓さんの新米が履く下駄を 「おこぼ
の下駄」 と言って、内側に鈴が付けられているようです。 歩くと
コボ、コボと音がなる事から、おこぼと言います。 「振袖新造」 の
は、やや高さのある2枚歯の下駄です。(下左) そして手古舞さん
は 「わらじ」 という事です。 (下右)

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花魁の髪型は、伊達兵庫 (だてひょうご) です。髷用に折り曲げた
髪の毛を脳天に突き立てて、その根本を残った毛でぐるぐる巻いた
形のことで、上下に広げるとちょうちょうの形になります。これが 「伊
達兵庫」 (上) のようです。遊女の代表的な髪型は、伊達兵庫、つ
ぶし島田、丸髷といったところで、歌麿の浮世絵のほとんどが灯籠
鬢の丸髷なそうです。「振袖新造」 (下右) の髪型は、日本髪の代
表的な髷を3つに折り畳んだ島田髷。「島田髷」 には様々な種類が
あり、「投げ島田」 や 「つぶし島田」、「くるわつぶし」 など根がずっ
と低い髷も平たいものを結うようです。修行中の 「禿 (かむろ)」 は、
おかっぱ頭だったが吉原等では、禿島田という髪飾りを沢山付け
た高島田になったようです。

高島田と言えば、上流武家の女性が結った高島田は正式な儀式の
場には必ずこれを結いました。最も根が高く上品な形が文金高島田
です。元々は武家の若い女性の髪形でしたが、次第に花嫁の髪型
として用いられるようになり、明治以降には花嫁の正装として白無垢
や打掛を着る際の定番の髪型として定着していきました。嫁ぐ娘の
ために母親が髪の中に小判を一枚忍ばせ、そのために高く結い上
げられたことが文金と呼ばれる髪型の由来とも言われています。

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特設ステージでの花魁ショーが終わると、再び復路の 「花魁道中」
の開始です。花魁の前を歩くかむろ役、後ろを歩く振り袖新造役も
一般区民が協力しているのです。満開の一葉さくら並木をしずしず
と歩く姿は、素人とは思え無い風格でしたよ。

「指切拳万、嘘ついたら針千本呑~ます♪」
子どもの頃、よく約束の厳守を誓うために行われる、おまじないの
合言葉ですよね。よく考えると、約束するのに“指を切る”とは、物
騒なことです。この 「指切り」 は遊郭の吉原が発祥という。男女が
愛情の不変を誓い合う証拠立てることを 「心中立」 と言いますが、
指切は、遊女が客に対する心中立てとして、小指の第一関節から
指を切って渡したことに由来しているようです。 これにはかなりの
激痛が伴うため、それほど愛してるということを意味し、貰う客も、
遊女の思いに応えるくらいの気構えが必要であったといいます。
しかし、実際に切る遊女は少なく、贋物(模造品)の指が出回った
らしいです。 そして、この 「指切」 が一般にも広まり、約束を必ず
守る意思を表す風習へと変化したようです。今では簡単に 「指切
りげーんまん♪」 と歌いながらしていますが、本当は切ない恋心を
抱いた遊女達が、惚れた男に 「あなただけを 愛している」 と
誓う為の真剣なものだったんですね。

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華やかな花魁の姿に、江戸時代の優雅な雰囲気を感じます。
花魁はどんな職業であったかなんてことは抜きにして、豪華絢爛
たる江戸吉原おいらん道中、これからも日本の文化遺産として、
未来に伝えていきたいですね。

教科書では教わらない歴史上の人物の奥深き心情をたどると、
華やかな表舞台の裏では、悲惨な人生を一生懸命生き抜いた
「遊女」 の姿があります。江戸の人々が一生に一度は行きたい
と願った吉原遊郭。そこは 「理想の恋愛」 を楽しむ場所だった
のでしょうか 。格の高い太夫や花魁は、理想の恋人たるべく、
美貌に加え、様々な芸事や教養を身に付けて自らを磨き上げた
江戸のスーパーウーマンにほかならなかったのでしょう。その華
やかな世界の裏側では、いろいろと厳しい波乱の生涯を終えた
わけです。吉原は裏文化の発信地だったのかもしれませんね。
報道関係の方も取材にたくさん見えていました。(下左)
本格的なテレビ用カメラで中継もしていました。(上)

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日が傾き、町が闇色に暮れるほんの少し前――。
仲の町の茶屋に吊るされた灯籠に、ぽつりぽつりと灯りが点りは
じめる。そこに陽が登ったかと見紛うほど眩しい光を纏った花魁が、
供を引き連れて現れた。「おい! 見ろよ!」 「あれは・・・藤浪太夫
・・・じゃねぇか」。 僅か数分の距離を、小一時間もかけて練り歩く
―― のちに 「花魁道中」 と呼ばれる儀式。遊女という波乱の生涯
を終えた、たくさんの美しき人達を思い浮かべながら、浅草は
オモテも裏も奥が深いと感じる思いで後にしました。

はらはら舞い散る 桜吹雪
艶の異世界 夜明けを知らず
桜大門 見返り柳
此処は郭 (くるわ) の龍宮城





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「いかなる道も努力が大切」

...2017/04/16 09:00...

春の訪れとともに、桜前線が南から北へと
移動しています。日本列島はまさにピンク色に
染まりつつあります。東京の桜もあっというまに
満開を過ぎ散りはじめています。

雨が降ったり風が強かったりするたびに、
はかなげに散っていく桜を見ると、季節限定の
美しさだとわかっていても、なんだかちょっぴり
せつなくなってしまいます。 でも、街には新入生や、
新入社員らしき若者たちを見かけることも多く、
その初々しい様子に、希望に満ちた若かりし頃の
気持ちを思い出したり・・・・。

さて、4月は年度の変わり目。
学校や職場では、多くの別れがあり、そして
それと同じくらい多くの出会いがあったことでしょう。
季節と同じように、めぐる命と同じように、人生にも、
悲しい時があれば、嬉しい時もあり、つらい時もあれば、
楽しい時もあります。悪い時には挫けず、良い時には
おごらず、常にそれぞれの局面で、ベストを尽くす。
持って生まれた能力、才能は人それぞれ千差万別、
様々ですが、自分の持てる力を最後のひとしずくまで
出し切って人生を生きたいものです。

四月八日はお釈迦様の誕生日だったんですね。
お釈迦様は生まれてすぐ、七歩歩いて 「天上天下
唯我独尊」 と言われたと伝えられています。
この言葉の意味は、「この世の中に自分という人間は
たった一人。授かったこの命を最高に輝かせるぞ。」
ということ。どうぞ自分を大切に、命を大切に。
それがお釈迦様が指先で示されている、
” いのちを輝かせる ” ということではないかと思います。

そして季節は、その名の通り花咲き乱れる春です。
春は、いのちの再生のとき。
私達も気分を一新して、
心の中まで花いっぱいにいたしましょう!


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「いかなる道も努力が大切」


人はこの世に誕生し、好むと好まざるに
かかわらず一人ひとり違った生活環境の中で育ち、
そして生長し、やがて別の世界へと飛び立ちます。

誰もが悩み、迷い、苦して、それに加え楽しんで
生きているわけですが、どうしても他人と比較する
心が内在していると思います。その心が良き方向へ
の手本であればいいのですが、往々にして我欲や
私情に及び数々の悲劇や惨状を招いています。

誰もが同じ道を歩む必要もないし、進むことは出来ない
ことを認識するべきではないだろうか。これは決して努力
なくして適当に生きればよいと言っているわけではなく、
身の丈にあった人生の形成を念頭に入れておく必要が
あるのではと考えます。

やはりその人の可能性を追求するためには、持って
生まれた才能に努力という作業が継続的に必要であり、
置かれた環境でやれることをやり抜くことです。
言うことは簡単ですが、これがなかなかできないものです。
20歳を過ぎたら自分の姿はすべて己の責任であり、
この現実の姿が身の丈にあったものと認識すべきでしょうか。

人生の構築を司るのは遺伝的要素が3割、
生活環境が3割、努力が3割、それに運が1割と、
上司から伺った事がある。少なくとも努力以外の項目が
半分とし、高校や大学での合格点である60点には努力
の項目を8割にすれば到達できることになる。

やはり努力することは万人にとって大切であり、
能力の開花に直結するものと思います。
いかなる道においても努力なくして大成した人はおらず、
学校教育現場、特に小中学生にこの努力の意味を
浸透させることが大切かもしれません。

時々、なぜ勉強しなければならないの? という声を聴く。
いかなる世界でも一つのことを知ると異なる別の世界がみえ、
新たな興味や関心が生まれるものです。
このプロセスを相手の理解度に合わせて論するのが
大人のやるべきことではないだろうか。

山に登るにしても幾つものルートがあり、
それぞれの道で出会う風景が異なるように、個性を醸し出し、
人としての基本的責務を全うすればよいのではと思います。
まさに 「急がず、休まず、怠らず」 でいきたいものです。



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  ~庭園さんぽ~  東京国立博物館

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上野の桜を鑑賞していたら桜より人に酔ってしまい、気分直しに
国立博物館本館の裏手にある庭園が一般公開しているので立ち
寄ってみました。上野の花見はもう、人、人、 人で、桜と桜の間を
歩く気力さえおきませんでした。(苦笑) 普段はお茶室利用者以
外入れない庭園。しばし酔い覚まし、気分なおしに散歩です。

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「国立博物館」 (上) 「本館入口」 (下左) 「チケット売り場」 (下右)

東京国立博物館 (愛称・トーハク) は、明治5年 (1872) 湯島聖堂
の大成殿で最初の博覧会を開催したとき、わが国初の博物館とし
てその産声をあげ日本で最も長い歴史を もつ博物館です。日本
を中心にした東洋のさまざまな国や文化の 美術作品、歴史資料、
考古遺物などを集めて保管展示しています。その数は11万件以
上。なかには国宝87件と重要文化財633件が含まれています。
エントラスに入ると大理石の中央階段に圧倒されます。ステンド
グラスや階段手すりに施された装飾、クラシックな照明が創建当
時の姿を今に伝えています。ここでも外国の方が多かったです。

料 金   :  一般620円、大学生410円
         期間中は庭園は無料で入場できます。
開館時間 :  9時~17時30分(入館は16時30分まで)   
休館日   : 月曜日(月曜日が祝日の場合は、翌火曜日に休館) 

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東京・国立博物館の本館の北側には見事な日本庭園があります。
大変広く、池を中心に5棟の茶室を配し、四季折々の花や紅葉に
彩られる憩いの 空間です。かつてあった動植物の研究部門「天産
部」の名残で、珍しい樹木や野草が植えられているのも特徴です。
また、5代将軍徳川綱吉が法隆寺に献納した五重塔や、石碑や
燈籠などが庭園には遺されています。あまり大々的に広告され
ないので、殆どの人は知らないようです。

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以前、企画展を観に国立博物館に行ったとき、常設展もせっかく
だから見てみよう~と、本館を歩いていたとき、ふと覗く窓から見
えた庭園がなんとも素敵でした。あれ? ここは何なんだろう? 
と、 思って調べてみたら、寛永寺の元庭園だったと知りました。

庭園は、春の桜の季節と秋の紅葉の季節に一般に開放しています。
自由に散策出来て、また、庭園内の5棟の茶室は、茶会 ・ 句会等に
利用できるようです。(要事前申込、有料) 庭園へは東洋館レストラン
・ ラコール脇から入園します。(下左) 料金は入園無料ですが、博物
館の入館料が必要です。

春の庭園開放 2017年3月14日(火)~5月7日(日) 10:00~16:00
秋の庭園開放 2017年10月24日(土)~12月3日(日) 10:00~16:00

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庭園には、桜以外の見どころも豊富。約2万4千平方メートルの
広い敷地には池を中心に5棟の由緒ある茶室が配され、普段で
も茶会や句会に利用されているようです。円山応挙の障壁画が
見事な「応挙館」、小堀遠州が建てた「転合庵」。“大和の三茶室”
に数えられる「六窓庵」、など歴史に名を残す名茶室ばかりです。
東京に多いメジャーな大名庭園とは少し趣を異にしていました。
都内でもこうしたゆったりと過ごせる時間が存在してましたか・・・。
季節毎にまた違った表情を魅せてくれるのでしょうね。
隠れ家的名園がピッタリの表現ですね。

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「五重塔」  (上)
東洋館のレストラン ・ ラコール横から小道を進むと右手に由緒
ある五重塔が見えてきます。高さ570センチメートルの銅製の塔。
最上部の相輪には龍が絡み付き、垂木 (たるき)、斗拱 (ときょう)
の組み物の細部まで入念に作られています。(下左) 基壇に第
五代将軍徳川綱吉が法隆寺に奉納した旨の銘文が線刻されて
います。徳川綱吉の存命中 (宝永6年・1709没) に、院号と俗
名を併記することは一般的になく、没後に奉納時の年号と施主
の銘文が 書き加えられたのではと言われています。

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国立博物館の敷地は、もとは寛永寺の境内でした。現在本館が
立っているところが寛永寺の本坊あたり、本館北側に広がる庭園
は寛永寺の庭であったと考えられます。ただし、庭は何度も改修
を重ねており、5棟の茶室なども移築されたもので、当時の面影
を残しているのは、本館東側の築山と中央の池のごく一部、そし
て庭の一角の古い墓石のみのようです。また、創設当初 「天産
部」 があったためか、多種多様な植物あることも、この庭園の
特徴なそうです。

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「春草廬 (しゅんそうろ) 」
江戸初期に海運と治水で功績のあった豪商の河村瑞賢が、約三
百年前、大阪淀川の治水工事の際に休息所として建てたものです。
本来茶室として建てたものではないので、にじり口はありませんが、
その素朴な造りは草庵の茶室として好ましい雰囲気をもっています。
入母屋、茅葺きで、五畳の主室には床の間があり、一段低いところ
の三畳の間があって、ここには向切炉が切られています。 入母屋
の妻に掲げられた 「春草廬」 の扁額は、能書家として知られる曼
殊院良尚法親王 (1622~1693) の筆で、三渓が耳庵に贈った
もののようです。

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「転合庵 (てんごうあん)」
小堀遠州 (1579~1647) が桂宮智仁親王から瀬戸茶入銘 「於大
名」 を賜わり、宮家を招き茶入披露の茶会をするため伏見の邸内
に建てた茶室です。その後、塩原又策 (三共株式会社。今の第一
三共の創業者) を経て、妻の塩原千代さんから昭和38年に茶入
とともに国立博物館に寄贈されたようです。茶室内には、 小堀遠
州の自筆の扁額が掛けられています。屋根は桧皮葺で、二畳台
目茶室で、下座床で 「にじり口」 と 「貴人口」 矩折りに配置され、
開放的な雰囲気を漂わせています。渡り廊下で水屋と四畳半の
席に繋がっています。転合庵の前 (上) は、樹木もなく開けてい
て池が広がっていて、 春には池越えにオオシマザクラ、エドヒガ
ンシダレを眺めながら花見の茶を楽しむことができます。(下)

【豆知識】 「小堀遠州 (小堀正一 )」
近江小室藩主 (1万2千石) で江戸初期の大名茶人。近江の国
に生まれ、幼少の頃より父新介正次の英才教育を受け、千利休、
古田織部と続いた茶道の本流を受け継ぎ、徳川将軍家の茶道
指南役となる。慶長13年 (1608) 駿府城作事奉行をつとめ、
その 功により諸太夫従五位下遠江守に叙せられ、これより 「遠
州」 と 呼ばれました。書画、和歌にもすぐれ、王朝文化の理念
と茶道を 結びつけ、「綺麗さび」 という幽玄 ・ 有心の茶道を創
り上げた人です。

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春と秋の特別な時期にだけ公開。ケチくさいようですが、それで
よいような気がします。まず、江戸には大名屋敷がわずかばかり
残されていますが、寺の庭や商家の坪庭など、庶民が日々の暮
らしの中で眺められる庭園は相当に少ないです。そのためなのか、
歴史的建造物である庭園に入っても、それをきちんと尊重して味
わう感覚が非常に薄い感じがします。京都に生まれ育てば自然
に身に付くような事なのでしょうが。それで、限られた期間の公開
でも驚くほどに庭園が荒らされてしまうのだろうと思います。

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「博物館でお花見を」
東京・国立博物館の庭園では、ソメイヨシノ、オオシマザクラをはじ
め、ショウフクジ、エドヒガンザクラ、ギョイコウザクラなど、10種類
以上の桜が次々に花を咲かせます。上野公園の喧騒 を逃れ静か
に花を愛でることができる 「大人の花見スポット」 と して密かな人
気です。秘密の庭に咲く桜、秘かに桜を愛でる人々。 日本美術
の殿堂で、世界一贅沢なお花見が楽しめます。

「エドヒガンシダレ 〈江戸彼岸枝垂〉」 (上)
ソメイヨシノの片親といわれ、近くの白いオオシマザクラと比べると
小さくて薄ピンク色でかわいらしい。枝を下に長く垂らして淡紅色の
小さな花が多数つき、開花時間の経過と共に花が白くなります。
「オオシマザクラ (大島桜)」 (下)
春に鮮緑色の葉が出ると同時に、純白または淡紅色の花を咲かせ、
伊豆七島や房総半島に自生する潮風に強い桜です。樹木は、木材
や薪炭に使われ、葉は塩漬けにし桜餅に使われます。

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「六窓庵 (ろくそうあん)」
慶安年間 (17世紀中頃) に奈良の興福寺慈眼院に建てられた
茶室です。 もとは興福寺大乗院内にあり、現在 ・ 奈良国立博物
館に移された八窓庵、東大寺塔頭四聖房の隠岐録と共に大和の
三茶室といわ れました。明治8年 (1875) に物館 が購入、解体
輸送中に伊豆で船が難破しましたが、幸い材は流失をまぬがれ
て明治10年に博物館に移築されました。にじり口にある手水鉢
(下右) は、四面に仏像が彫られた四方仏水盤といわれる形式
のもので、延長3年 (925) 関白 ・ 藤原忠平が建立したもので、
千利休をはじめ歴代 の大茶人が、これを賞賛した由緒ある
手水鉢のようです。

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ちょうど係りの方が来て、躙口 (にじりぐち) (下左) を開けて、
茶室内 (上右) を見せてくださいました。ラッキー。

千利休の求めたものが、暗い空間で落ち着いた雰囲気であった
のに対し、金森宗和は古田織部、小堀遠州と同様に、多くの窓を
配して利休と異なった明るい空間をつくって、窓の開け方にも様々
な工夫をしています。この茶室は六つの窓を持つことから 六窓庵
と呼ばれています。六窓庵は、外露地、内露地が揃って いる茶室
です。外露地には、寄付 (よりつき)、腰掛待合 (下右)、 雪隠が
設けられて、中門から内露地に入るようになっています。

【豆知識】  躙口 (にじりぐち)
躙口は、千利休が草庵茶室・待庵に設けた小さな入り口がはじまり
と言われています。封建社会での身分の上下関係は絶対的なもの
でしたが、茶室に入るには誰であろうとも、低く頭を垂れて伏して入
らねばなりませんので、茶室の中では、まず自分というものを一度
捨て、お互いにひとりの人間として対峙します。躙口から入ったら、
立場を捨て、無垢なありのままの姿になれということなんですね。
茶室のなかでは、亭主と客の関係や、隣席の人にすすめあい感謝
の念を捧げながら、一服の茶をいただきます。千利休は、この人と
人とのコミュニケーションの前に、まず、人はみな平等であると精神
的なバリアフリーを、それを儀礼として茶道に盛り込むために、出入
口に躙口を考案したのではないでしょうか。いつもは威厳をふりか
ざす天下人たちが平伏する姿を見て、にやりとする利休の顔が目
に浮かぶような気がします。

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博物館・本館は、もと寛永寺の本坊があったところ。 本館北側の
大庭園の池と築山が、かつての寛永寺境内の庭園の名残りを
とどめています。

この辺りはもともと寛永寺の境内であり、この地には寛永寺の
庭園がありました。この寛永寺庭園は、小堀遠州の作庭と伝え
られていますが、幕末の戊辰戦争で戦場と化し、多くの伽藍と
ともに焼失しました。 その後寛永寺は、明治12年 (1879) に
復興が認められ、現在の台東区上野桜木一丁目に再建され
ています。小堀遠州の作庭であれば、もっと石を多用し、躍動
感のある庭園に仕上がっているのではないかと思われますが、
現状の庭園は、実に穏やかな表情をしています。池を中心に、
周囲に園路が巡らされた池泉回遊式庭園。とても広くて綺麗
に整備されていて、庭園の美しさに感動です。

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「九条館 (くじょうかん)」
九条館は、もと京都御所内の九条邸に建てられていたものを、
東京・赤坂に移築され、当主の九条道実氏の居室として使用して
いた建物です。昭和9年 (1934) に九条道秀氏より寄贈されて、
この庭園に移築されました。九条家は近衛家、一条家、二条家、
鷹司家などとともに摂政、関白に昇任できる五摂家のひとつです。
近衛家の次いで古く由緒ある家柄で、九条家は代々、漢籍、和歌、
書に精通し、京都の九条の地に邸を構えていたことから氏の名と
なりました。建物は、木造平屋建て瓦葺き、間口9 間半、奥5間半、
総坪数44坪、10畳2室からなり、廻り廊下をめぐらしています。
この日はここでも茶会があって、これ以上は近づけませんでした。

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「応挙館 (おうきょかん)」
応挙館は、もと尾張国 (現在の愛知県大治町) の天台宗寺院の
書院として寛保2年 (1742) に建てられ、後に東京品川の益田孝
(鈍翁 ・ 1848~1938) 邸内に移築、昭和8年に博物館に寄贈さ
れたそうです。室内に描かれている墨画は、天明4年 (1784)、
円 山応挙 (1733~1795) が明眼院に眼病で滞留していた際に
揮亳したものであると伝えられています。木造平屋建て、入母屋
造り、瓦噴き、2室、廻廊下を巡らせています。 普段は雨戸を開
けて、室内が見えるように開放するようですが、ここもこの日は
茶会が開かれるようなので傍には行けませんでした。残念!

【豆知識】  「円山応挙」
円山応挙は、高校生のころに幽霊の絵の話で有名と聞いたことが
あります。円山応挙は江戸時代の絵師ですが、将軍から幽霊の絵
を描くよう頼まれました。応挙は当時にしては写実派として 売って
いたので、見たことがないものは描けないと思い悩んで いたそうで
す。悩んでいるところに幽霊が現れて、何とか描くこと ができたので
すが、それは、応挙の悩みを知って自害した奥さん だったのです。
応挙の描いた幽霊画を受け取った将軍家では不吉 なことばかり
起きたので、その絵を津軽候に下げ渡したのです。その絵は津軽
弘前の久渡寺に保管されているそうですが、 この絵を公開すると、
崇りがあると言われているそうです。

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庭園内を散歩していると、和服姿の方を見かけました。歴史に名
を 残す由緒ある茶室での茶会なんていうのもいいですね。「九条
館 (くじょうかん)」 に 「応挙館 (おうきょかん)」 、そして 「転合庵
(てんごうあん)」 と、いずれも茶会の花盛り。桜の季節ですからね。
花見の宴もいいですが、心静かに茶を嗜むことも良いものです。

お茶席には大きく分けて二種類あるようです。
ひとつは、懐石、濃茶、薄茶をもてなす正式な茶会である 「茶事」
です。もうひとつは、多くの客を一同に招き菓子と薄茶 (あるいは
濃茶) のみをもてなす 「大寄せ」 の茶会です。初めてお茶を体験
する方は、まず茶事に招かれることはないはずですから、大寄せ
の茶会での作法を知っていれば大丈夫という。 まず、お茶を楽し
む ことが、一番大事なことのようです。

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池の向こうに 「転合庵」 をのぞむ、絶景ポイントです。
博物館裏のテラスにも、ベンチが設置してあるので、一段高い場
所から庭を眺めることも出来るようになっています。それぞれ に
皆さん散策の後にベンチに腰を降ろし池を眺めていました。上野
公園の賑やかな花見より、ゆるりと散歩しながらの花見を楽しむ
人達でしたが、年配の方が多かった気がします。

花びらが池に散るとサクラの季節が終わりを告げます。
春は終わり、庭園もさわやかな初夏を迎えることになります。

いやはてに 鬱金ざくらの かなしみの 
       ちりそめぬれば 五月はきたる

逝く春を惜しんで、北原白秋はこんな歌を詠みました。

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庭園内には、ひっそりと石碑なども点在してありました。

「町田久成の碑」 (上左)
初代博物局長 (館長) 町田久成 (1838~1897) の顕彰碑です。
町田久成は、19歳で江戸に出て学び、慶応元年 (1865) に渡英、
大英博物館などを訪れ日本での博物館創設を志し、帰国後初代
博物局長として日本の博物館の基礎を築きました。
「第二回内国勧業博覧会の碑」 (上右)
明治政府は勧業政策の一環として博覧会を開催、その第一回から
第三回の会場が上野公園でした。明治10年 (1877) の第一回博覧
会では、本館北側のバルコ ニーのあたりに、日本で初めて美術館
という名の煉瓦造りの建物が建てられました。博物館に碑が残って
いるのは、この第二回のみです。
「鉄燈籠」 (下左)
石の台に据えられた鉄製の燈籠。火袋は松皮菱を透かし、竿に
は雲龍文を鋳出しています。しかし、鉄製のため錆が著しく付き、
基壇だけが、そのままの状態でおかれています。
「有馬家の墓石」 (下右)
東京国立博物館は寛永寺の境内であった土地に建てられたもので、
庭園ももとは寛永寺の一部でした。公園として整備するために博物
館敷地内の墓所が整理されたとあります。越前丸岡藩主有馬家の
墓石です。なぜこれらの墓石だけがここに遺されたのかは不明の
ようです。よく言う祟りがあったのでしょうかね。コワッ

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「厳有院 (徳川家綱) 霊廟 ・ 勅額門」
国立博物館の庭園の裏の通りにあるので柵越えにパシャ。(笑)
厳有院霊廟は、寛永寺にある霊廟で四代将軍徳川家綱が埋葬さ
れていました。家綱の霊廟の一部は維新後に解体されたり、第二
次世界大戦で焼失したが、この勅額門と水盤舎は災を免れた貴
重な遺構です。勅額門の形式は四脚門、切妻造、前後軒唐破風
付、銅瓦葺です。

四代将軍家綱は、慶安4年 (1651) に父 ・ 家光の死に伴って、
わずか十才で将軍の座につき、延宝八年 (1680) に39才で没。
法名を厳有院 (げんゆういん) という。乳母は矢島局、三沢局。
幼くして将軍になり、社会不安が起こるのは当然で、秀忠・家光
時代に改易されて職を失った浪人達に不穏な動きが発生。その
最たるものが、由比正雪の乱の幕府転覆計画。幸い未然に防ぐ
ことが出来たが、以後幕府は浪人を出さないよう改易を大幅に
減少。また、末期養子の禁を解除するなど、これまでの武断政
治から、文治政治へと方針を転換しました。明暦の大火を教訓
に両国橋を架設し、両国橋のたもとに 「火除地」 を設けました。
「すぐに壊せる」 という条件に一部を許可したために、さかんに
土俵が作られたという。これが発端となり、両国は相撲の街とし
て知られるようになったようです。家綱の死により、徳川将軍家
の直系の子が将軍職を世襲する形は崩れました。

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見上げれば薄紅にかすんで見える花の空、変わらぬ花見の宴。
小袖に咲いた満開の桜花の和服での散策。桜を愛してやまない
日本人の心をうつした数々の名品での茶会。隠れ家的名園です。
たくさんの茶室が移築保存されているのも貴重ですね。それだけ
場所があるのだなー、と訪れて感心しました。広い上野公園の
魅力のひとつを発見した価値はありました。

芭蕉の高弟だった宝井其角の俳句は、こんな感じです。

「酒を妻 妻を妾の 花見かな」

桜の花が咲きこぼれる空の下、夫婦仲むつまじい、江戸の春の
情景です。たまには、夫婦二人だけでの花見もいいものです。うふ





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「人生の先輩を見つけよう」

...2017/04/09 11:40...

新年度がスタートしましたね。
新しい仕事に就かれる方、新天地での暮らし
を始められる方、ご家族のどなたかが新生活を
スタートされる方、環境に変化はないけれど、
気持ちはフレッシュに! という方。
それぞれの4月を迎えていることと思います。

私自身は、環境に変化はなさそうな4月ですが、
新たな環境で新たな出会いがあり、新たなことを始める。
そういった時の気持ちをもう一度思い起こし、新鮮な
気持ちで新年度のスタートを切りたいと思っています。

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一週間前には、まだつぼみもある七咲きでしたが、東京はもう
桜が満開です。強い風に散りゆく花弁もあります。それでも桜
の木の下から見上げると、のんびり屋の花でしょうかね、花影
からぽつりとつぼみが見えます。お母さんに 「起きなさい」 と
言われても起きない、この春から入学した一年生のようです。(笑)

ほとんど毎日、ほとんど同じ時刻に歩く通勤の経路では、
名前は知らないながら、何度か見かけたなという人が
歩いているもので、きっと向こうも 「何度か見たな」 と
思いながらこちらを見ていることでしょう。そうした毎日の
生活の中で、ちょっとした変化が訪れるのがこの時期。

通勤路の上で 「多分、初めて見た顔」 の
比率が高まる季節です。そしてそんな 「多分、初めて
見た顔」 の多くは、体になじんでいるとは言いがたい
スーツ姿だったりします。毎年、毎年、この時期になると
「多分、初めて見た顔」 が増え、そして一ヶ月もすれば、
その顔が 「何度か見た顔」 に変わってゆくんでしょうね。

そんな季節を何度過ごしてきたのかな?
通勤経路に加わった、見慣れない顔を見ながら、
また新しい一年のサイクルが始まったと実感します。
まだ、なじんでいない背広姿が初々しい新社会人。
頑張れ!

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「人生の先輩を見つけよう」


会社の昼休みは、人と話すことができる
貴重な時間だ。部署は違っても、近況や雑談、
仕事の相談などができると、ホッとするものだ。
同じ部署の先輩、技術のスタッフや経理の女性、
製造の人など、話す人はさまざまだ。みんなこの
職場に来なければ出会えなかった人たちだ。

年齢、住んでいる場所、仕事内容、生活環境
なども違うから、面白い。学生時代は自分と似た
ような年の人が多かったが、職場はそうではない。
年が違えば生活環境などが大きく異なるので
勉強になる。

ヒトはまったく同じ環境に住んでいるように見えて、
それぞれに別の意味を見いだし、自分なりの
「環境世界」 に住んでいる。人は見た目にとらわれ、
それを現実の世界だと思いこむきらいがあると思う。
いら立たしい時は、ちまたの風景にもトゲを感じ、
幸せいっぱいの時には世の中も輝いて見えるように、
「主観の世界」 を生きている。
ただ要はそれを自覚しているか否かだと思うが。

サンテグジュペリの名作 「星の王子様」 で、
キツネも王子に言っている。「心で見なくちゃ、
ものごとはよく見えないってことさ。
かんじんなことは、目にみえないんだよ」

見えない心を見るためには人との会話が大事だ。 
そうした様々な人達との会話が自分をも変える
ことがある。会話を通じて見かたや考え方、
人とのつながり、人付き合い、相手への心使い、
自分の心をも養われるものだ。会社には多様な
人が集まるが、どれだけいろいろなことを話せる
人を持つかが大事なのだと思う。
助けてくれる人を多く持つことが大切なのだ。

4月から入社する新人社員さんたちは、ぜひ
社内で信頼できる人生の先輩をみつけてほしい。

「人脈は一生の財産」 だから。


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  うえの桜まつり  ~上野恩賜公園~

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春の暖かさに誘われて2日の日に桜観賞に出掛けました。 翌週
は天気も悪くなりそうというので、都内の桜の名所のひとつでもある
上野恩賜公園です。桜で賑わう春の上野恩賜公園は久しぶりです。
開花から一周間、そろそ満開に近いだろうと思ったのですが・・・・・。
若干早かったようで、七分咲きくらいでした。ブログで紹介する頃は
満開なはずです。それにしても凄い人でした。ちょっと紹介します。

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「不忍池入口側の枝垂れ桜」 (上) 「JR上野駅公園口」 (下)
春の上野公園といえば、お花見スポットとして外せない場所。宴会
の場所取りなども大変そうですし、とても混雑する場所としても有名
です。 そんな上野駅についたら、ホームから改札口まで人で大混
雑でした。(下右) 先が思いやられます。

上野恩賜公園は、東京国立博物館、国立西洋美術館、国立科学
博物館、上野動物園などの文化施設が集中し立地している場所。
また西郷隆盛像があることでも知られています。高台となっている
忍ヶ岡は、近世からソメイヨシノの名所としても有名であり、日本さ
くら名所100選に選定されています。桜の開花時期になると、大
勢の花見客が押し寄せることで有名なのです。テレビで必ず放送
される場所でもあります。

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日本屈指の桜の名所と言われている上野公園のなかでも特に
素晴らしいのが中央園路の桜並木です。人の数は半端じゃない。

現在、上野公園となっている一帯は、江戸時代は寛永寺の敷地
でした。桜が多いのも、寛永寺に植樹された桜が数を増やしてい
ったからのようです。公園内の桜の大半は、京都から持ち込まれ
たソメイヨシノの子孫が大半です。その一方で多品種と交雑した
桜もあり、40品種とも60品種もの桜があるとも言われています。
約1200本もの桜が、園内各地で咲き誇る光景は、上野公園
ならではですね。

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江戸一番の桜の名所。 江戸時代から 「上野の山」 といえば、当代
きっての桜の名所だったようです。寛永寺が創建された後、桜が好
きな天海僧正が吉野山から移植させたのが始まりと言われます。
最初は寛永寺社殿と霊廟、東照宮、そして境内の桜を中心にした
小さな公園だったが、現在では満開時の週末には、300 m の桜
並木が続く公園中通りを中心に、100万人以上の花見客が押し
寄せるほどの人気です。1.300個のボンボリの明かりに照らさ
れる、昔ながらの夜桜見物も人気です。

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全国に先駆けて東京の桜の開花は3月21日でした。一週間以後
が満開だろうとの思惑は外れ、七分咲きでしょうか.。(下左) まだ
つぼみの部分が結構ありました。開花以後に寒い日が続いたこと
もあり、桜も 「あれ~、早かったかな?」 と反省している感じでした。

テレビでリポーターが桜並木を中継していました。「ソメイヨシノは
満開です。他にもこれから咲く桜がたくさんあります」 に続き、その
後に 「えーと、大島桜もありますけど、残念ながらもう葉っぱが出ち
ゃってますねぇ」 を聞いて、ずっこけました。(笑) 大島桜は葉が
出ると同時に花を咲かせます。(下右) 仮にも公共の電波を使っ
て発信しているのですから正しい情報を伝えて欲しいですね。桜
に限らずですけど、最近はメディアの認識不足が多く、アナウンサ
ーまでもがタレント化している昨今ですからね。
プロ意識は何処へ・・・。

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サクラ並木路は人で埋め尽くされていますが、この日は日曜という
事もあって、もう一ヶ所上野動物園も賑わっていました。入園を待
つ家族連れの長蛇の行列です。大変なことになってます。(下)

開花の時期に合わせて開催される 「うえの桜まつり」 の内容も、上
野のお囃子保存会による大黒舞と寿獅子、草花市、青空骨董市な
ど、江戸の昔を彷彿とさせるイベントもあるようです。一方で周辺に
は、動物園、美術館、博物館など、平成の世ならではの文化的な楽
しみがたっぷり。朝から夜まで遊び尽くせる桜どころなのです。なお
江戸時代、寛永寺のお膝元であった上野の山では、飲酒はご法度
だったそうです。平成時代に過ごせてよかった~ですね。(笑)

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上野公園の桜見物ポイントですが、噴水広場へと向かう通称 「桜通
り」 が有名です。週末ともなりますと、大勢の見物客で大混雑します。
このあたりは宴会も多く行われているため、非常に賑やかです。宴会
目的ではなく、ゆっくりと桜を見たいのであれば、不忍池方面がおす
すめです。こちらで宴会は行われていないので、比較的ゆっくりと桜
を楽しむことが可能なんですね。足漕ぎボートを借りて、池から桜を
眺めるのも素敵ですよ。今回、不忍池方面へは行きませんでした。

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日本中で植えられている桜の約8割は、皆さんが良く知っている
染井吉野 (ソメイヨシノ) と言われています。しかし、歴史上もっと
も有名なお花見・豊臣秀吉の 「醍醐の花見」 の桜も、様々な時代
劇の春のシーンを彩る桜も、実は染井吉野ではなかったようです。
染井吉野は歴史的には新しい園芸品種だからです。

お馴染みのソメイヨシノは、エドヒガン (江戸彼岸) とオオシマザクラ
(大島桜) の交配種です。葉が出る前にピンクの花が咲き揃う特徴を
エドヒガンから、大輪で花付きの良さをオオシマザクラから受け継ぎま
した。この桜を江戸にいながら奈良吉野の桜がみられると称して 「吉
野桜」 と名付けて売り出し、人気を博したと言います。本当の吉野の
桜は、花が新葉と共に咲く 「ヤマザクラ (山桜)」 なのです。全く系統
も異なる桜に、古来名高い 「吉野」 ブランドをつけた訳です。交通手
段は徒歩しかなく、写真もない当時のこと、江戸の人々は、日本一の
桜名所 ・ 吉野の名は知っていても本物の吉野の桜を知る人は少なく、
見慣れた 「エドヒガン (江戸彼岸)」 よりも、大輪で花付きが多く見栄
えがするので、「吉野」 というネーミングも相まって、大当たり。江戸時
代も現代も、ブランドやネーミングが大きな効果を発揮するのですね。

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【枝垂れ桜】 (上)
枝を下に長く垂らして淡紅色の小さな花が多数つき、開花時間の
経過と共に花が白くなります。同じ枝垂れ型で、花色がもっと濃い
紅枝垂れもあります。古くから全国の寺社などで栽培されており、
「三春の滝桜」 など長寿の名木も多くあります。

【大寒桜】 (下)
花は淡い紅色、中輪の一重咲きで下を向いて咲く。埼玉県川口市
の安行にあった 「サクラ」で、別名 「安行寒桜」 とも呼ばれます。
上野公園を始めとして各地に植えられ、染井吉野より先に咲くので、
春になったんだと感じて喜ばれている桜です。

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【大島桜】 (上)
春に鮮緑色の葉が出ると同時に、純白または淡紅色の花を咲かせ、
伊豆七島や房総半島に自生する潮風に強い桜です。樹木は木材
や薪炭に使われ、葉は塩漬けにし桜餅に使われます。

【染井吉野 (ソメイヨシノ)】 (下左)
染井吉野は、江戸彼岸と大島桜の交雑で生まれた栽培品種。江戸
時代に江戸駒込の染井村で植栽され 「吉野桜」 と呼ばれていまし
たが、誕生地の 「染井」 の名を加え 「染井吉野」 になった。全国津
々浦々何処にでも植えられていて、「桜」 の代名詞にもなっている
品種です。葉に先駆けて、花は枝条から咲きこぼれるほど一面に
咲き、賑やかで、見栄えがあり棄てがたい風情がある桜です。

「白妙 (シロタエ)」 (下右)
シロタエはオオシマザクラ系のサトザクラ群の園芸品種の桜です。
四月中旬に花を咲かせます。花は 「白色八重咲き」 の代表と言
われています。 シロタエの名から純白の花と思われがちですが、
花弁の外面 には薄い紅色が少し出て、やがて白色の大輪の花
になります。開花期は4月の中旬でソメイヨシノが終わってから。

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のびのびと枝を伸ばした桜の下にレジャーシートを広げ、ランチボ
ックスを並べて、さぁ、お花見の宴会をはじめましょう。公園内は家
族連れというよりも、会社の仲間や友達同士のグループの姿が目
立ちます。ソメイヨシノの傍で、それぞれが思い思いに休日を楽し
んでいる様子は、何とも心休まる光景です。

都内に桜名所は沢山あり、また花見にも色々あります。
宴会好きは上野公園、散歩するなら千鳥ヶ淵緑道、そして家族で
楽しむなら新宿御苑といったところでしょうか。美しい桜を眺めなが
らのお酒は、確かに美味しいと思うんですけど、ここは桜や新緑の
春らしい景色を見る事が出来ます。満開の桜を見ることができるの
は、1年のうちの、ほんの一瞬です。それぞれの目的に合わせて、
様々な花見の仕方を考えるのも楽しいのではないでしょうか。

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宴たけなわですが、よく見ると周りには桜が見渡りません。(笑)
席取りに失敗したのか、場所がなかったのか? 定かではありま
せん。広い公園内の至る所で、こんな光景が見られます。この時
期、桜よりもコミニュケーションも大事なんですよ。

江戸時代、長屋の住民たちのお花見はというと、「お酒代わりに番
茶」 を、「卵焼き代わりにたくわん」 を持って向島へ繰り込んだとい
う 『長屋の花見』 が有名ですが、もちろん庶民もそれなりに精一杯
のご馳走を作り、着飾って出かけたようです。特に庶民の花見を奨
励したのが、徳川吉宗でした。吉宗は、放火が絶えぬ江戸の町を
見て、人心を安定させるためには庶民が日頃のうっぷんを発散で
きる娯楽が必要と考え、花見を選んだと言われています。 王子の
飛鳥山も、吉宗が整備させたもの。小金井の玉川上水沿いの道は、
家光から吉宗の時代まで植え続けられたものが6 km にも及んで、
江戸っ子は1泊の花見旅を楽しんだようです。

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日本人にとって桜は特別な花。あの薄紅色の花びらが、はらはらと
散る風景は、文学や絵画など古くからさまざまな日本文化で描かれ、
心性にも深い影響を与えてきた。東京で人々がお花見している桜
はほとんどが人の手によって植えられたものだ。千鳥ヶ淵や北の丸
公園、外堀などの皇居の周辺。新宿御苑や六義園などの江戸時代
の大名庭園の流れを汲む公園。旧きも新しきも、桜を愛でる人びと
が造ってきた、都内各所の桜のある風景を素直に楽しみたい。

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上野東照宮を参拝しようと訪れたら、参道は露店で賑わい、ここも
人で混雑し、なかなか前に進めません。途中、突然にゴ~ンと鐘の
音が・・・・。上野公園で初めて鐘の音を聞きました。何処だろうと探
し当てたのが 「上野精養軒」 の向かって左側、小高い丘の上に建
っている 「時の鐘」 でした。(下)

「時の鐘」
寛文6年 (1666) に設けられた鐘で、江戸の市民に時刻を知らせて
いたのが 「時の鐘」 です。当時、江戸市中には9ヶ所の時鐘があり、
上野の時鐘は 「花の雲鐘は上野か浅草か」 と松尾芭蕉に詠まれた
ほど江戸市民に馴染み深いもので、松尾芭蕉が当時の 「時の鐘」
を耳にしていたと言うことです。現在もなお、鐘楼を守る人によって、
朝夕六時と正午の三回、昔ながらの音色を響かせているようです。
時の鐘の音は、まず気づかせるための “捨て鐘” を3つ打ち、それ
から刻の数を最初長く、徐々に詰めて打ったので、途中から聞いた
人も今何時かが解ったという。数ヶ所の時の鐘は、上野寛永寺が
初めに撞き、その音を聞いて、市ヶ谷、赤坂、芝の寺々が鳴らして
いったようです。桜を愛でつつ時の鐘の音を聞く、風流ですね。

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とにかく外国の方の多さに驚きました。全体の3/1 は外人さん。
そして桜と言えば和服が似合います。この時期、茶会も各地で行
なわれるので着物姿を見かけます。番傘に着物姿のこの方。(上) 
帰宅してテレビのニュースで紹介されていました。テレビを見て思
わず 「この人いた~」 と叫んでしまいました。(笑) ハワイから来
た方で、何でも桜の咲く道を着物姿で歩きたいとの長年の夢だっ
たらしいのです。周りに愛嬌を振りまいていました。嬉しかったの
でしょう。他にも着物姿の方を多く見かけます。(下左) きっと貸
衣装屋で借りて、日本の美を楽しんでいるのでしょう。気になった
のが、桜の枝を引っ張る人、つまむ人と外国の方に多かったです。
注意の看板が設置されているんですけどね。(下右)

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それぞれに桜を楽しんでいるなかで、論語 (下右) を朗読してい
る人たちがいました。(上) しかも子供たちです。指導者に聞けば
何時も行っているのだという。今日は桜の下で青空教室というわ
けです。驚くほかありません。

「論語」 は、原文 ・ 読み下し ・ 現代語訳とあります。そのため原文
が読めなくても現代語訳だけ読んでも分かります。かく言う私も原文
だけでは読めません。 現代語訳を読んで、気に入った部分は原文
に戻って 「論語」 を理解するように楽しんでいます。 本当に大切な
ものは何なのか、何をこどもたちに伝えていったらいいのか、当たり
前の、シンプルな言葉なのに、とても大事な事を教えてくれています。
論語には宝物の言葉がぎっしり詰まっています。

「己の欲せざる所は 人に施すこと勿れ」
自分がして欲しくないことは、人にもやらない人の身になって思い
やりをする。友達にバカなどといってしまって、けられたことがあります。
「この論語の意味は、自分がしてほしくないことは、人にもやらないと
いう意味なので、私は大人になっても、この論語を思い出して気を
つけたいです。」 と話してくれました。(下左)  歴史 ・ 時を超えて
子どもたちの素晴らしさに感銘してしまいました。

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「わあ、きれい!」 「ピンク色のわたあめみたい」。お気に入りの桜
を見つけては、かわるがわる桜の前に並んでニッコリ、春の思い
出いっぱいの記念写真をパチリ。歓声をあびて、桜とお揃いの
満開の笑顔があふれます。

奈良の吉野山の桜、京都の醍醐寺の桜など、日本には古くから
の桜の名所がありますが、江戸時代以前のお花見は、上流社会
だけに許された文化でした。花見が庶民の楽しみとして盛んにな
ったのは、江戸時代、それも元禄の頃からです。江戸の桜のもと
は、そのほとんどが吉野山から移植したもので、参勤交代が桜の
品種交流の場ともなっていたようです。その桜が育ち、さらに品種
改良なども進んで桜の本数が増えた頃から、長屋住まいの住民
たちも花見を楽しむようになったといいます。

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噴水広場の手前には露店が立ち並び、ビールやらたこ焼き、焼き
そば、焼き鳥にお好み焼きなど数多くの屋台が軒を連ねて花見気
分を盛り上げてくれます。ここも立錐の余地もないほどの混雑でし
た。(下) 桜の下の席も確保できず、露店も人が多すぎてダメ。
行く所のない人達でしょうか、噴水付近も混雑していました。(上) 
カップルが楽しそうに語る風景はよく見かけますが、こんな風景は、
今まで見たことがありません。(笑) 桜を楽しみにして来た人達
なんでしょうけどね。花見の宴を行なう人もいれば、予期せぬ事
に 「こんなはずじゃなかった」 とボヤク人もいた休日でした。
奥に見える建物は国立博物館です。

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桜祭り期間中に 「うえの桜フェステバル 2017」 と題して様々なイベ
ントが行われています。その一つが 「東京 ・ 春 ・ 音楽祭」。コンサー
トホールだけではなく、上野の駅、カフェ、レストラン、オフィスビルや
お花見会場等、多様な空間で演奏されて春の上野を音楽で華々し
く彩り楽しませてくれます。

私が楽しんだのは、誰もが憧れてしまう 「指揮者」 になって、 本物の
オーケストラの指揮にチャレンジ出来るという企画 「指揮者はあなた!
Conduct Us in 上野公園」。指揮は、テンポや音のタイミングだけでな
く、「この楽曲はこう演奏するのだ!」 という指揮者の解釈を伝えるの
がメインになります。指揮者によって楽曲の解釈が異なるクラシックは
「誰が指揮棒を振っても同じ」 ではないんですね。小さなお子さんか
ら大人まで指揮台の上で、それぞれ個性あふれる動作で指揮を行
なっていました。指揮棒ひとつで演奏が変わる事がよくわかりました。
ベートーヴェン : 交響曲第5番 「運命」 とJ ・シュトラウスⅡ世 「ワルツ
(春の声)」 に挑戦していました。私も挑戦してみたかったのですが、
すでに予約いっぱいでした。残念!  ここで長い間、楽しみました。

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桜を見ながらお散歩するにはピッタリの陽気で、日本有数の桜の
名所 「上野恩賜公園」。咲き乱れる桜は本当に綺麗で、一度見る
と忘れられません。咲き乱れる桜が 「今日を楽しんでね」 と、そん
な言葉 も聞こえた気がします。帰り際には 「またね」 と言っている
ようでもありました。観桜期には100万人が訪れる日本有数の桜
の名所中の名所! ぜひ、来年は上野恩賜公園の桜を見に出か
けてみてはいかがでしょうか?

【おまけ】
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「月の松」 (上左) 歌川広重 「上野清水堂不忍ノ池」 (上右)
「上野清水観音堂」 (下)

寛永2年 (1625) に江戸城の鬼門を守護するため、寛永寺を創建。
そして比叡山になぞらえて上野の山を東叡山と称して数多くの堂舎
を建立し、そのひとつとして清水観音堂は京都清水寺に倣って建立
されました。江戸時代の浮世絵師 ・歌川広重は「上野清水堂不忍ノ
池」 (上左) で、池ノ端を背景に清水堂の舞台と不忍池端に立つ月
の松を描いています。月の松は、明治初期の台風により被害を受け
て永らく失われていましたが、平成24年 (2012) に復元されました。
(上右) 復元された月の松は、清水堂の舞台下に植えられているの
で、舞台の正面に松を見る事ができます。(下) 訪れた人々は気付
かずに通り過ぎていますが、境内の端には控えのための小振りの月
の松も植えられています。上野の山の周辺にはビルが立ち並んで大
きく変貌しましたが、清水堂からの展望には江戸時代の風情を感じる
光景が広がっています。上野公園に出向いた時は、ぜひご覧ください。






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「曲がり角をまがったさきに」

...2017/04/02 17:15...

四月 (卯月)
卯月の由来は、卯の花が咲く月 「卯の花月」 を
略したものという説があります。新年度または
新学期の時期で、学校 ・ 官公庁 ・ 会社などでは
入社式 ・ 入学式が行われる慌ただしい時期だ。
そして出会いの季節でもある。

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毎年この時期は、「1年生になったら」 と、桜花が祝うかのごとく、
タイミングよく咲いてくれています。小便小僧に会いにJR浜松町
駅で途中下車したら、4月はお決まりで、ピカピカの一年生の姿
でした。きっとそれまで、名札作りだのさまざまな準備にお母さん
の苦労があったのだろう。そんな苦労を感じ取れる子に育って
ほしいものですね。 もう一度、背中にしょいたいランドセル。

さて、アンデルセンの童話に 「父さんのすることはいつもよし」
というお話がある。自分でも思い出すたびに、面白くなってくる
ような気がする。

ある農民の夫婦がいる。
妻に父さんと呼ばれ、絶対的に信頼されている夫が、飼って
いる馬を市で何かと交換しようと思いつく。市への途中、馬を
雌牛、羊へと次々に交換し、ついに腐ったリンゴに変わる。
それでも信じあう夫婦に最後、金貨が舞い込むというお話だ。

父さんがいろいろと交換する場面に子どもは笑い、
大人は信頼で結ばれた夫婦の姿にひかれる。老いて読めば、
人生の素晴らしさをしみじみと感じられる。アンデルセンの
童話は人生で三度楽しめるという理由がよくわかる。

今日2日は、アンデルセンの誕生日だという。
デンマークの貧しい靴職人の家に生まれ、
ろくに学校に行かない落ちこぼれだった。
貧乏の悲しみ、恋の悩みや人生への懐疑を
通して描かれたその世界は深い。

いよいよ新学期。道徳を成績評価の対象などと考える
前に、子ども自身が読書から学ぶ機会を増やしてあげたい。
アンデルセンに限らず子どもも大人も童話や昔話の世界
から学ぶことは多い。2日は 「国際子どもの本の日」 でも
あるようだ。ならば、新学期を迎える人には、
たくさんの本を読む習慣をつけて欲しい。


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「曲がり角をまがったさきに」

先日、娘の机の本棚で目にしたのが 「赤毛のアン」。
「ちょっと借りるね」、そういって久しぶりに読んでみました。
『赤毛のアン』 を読んでとても印象的だったのは、
「曲がり角をまがったさきになにがあるのかは、
わからないの。でも、いちばんよいものにちがい
ないと思うの」 という言葉でした。

他にも、たくさんすてきな言葉があるのに、
なぜその言葉が私のなかに残ったのだろう?
自分なりに考えたとき、きっとそれは子どものころに
私自身もそう思っていたからだと気づきました。
知らない道を探検するのはワクワクすることだったし、
その先に何があるかは分からないけれど、
怖いという気持ちより好奇心のほうが勝っていた。

何か物事を始めるとき、どうしても不安が先に来ます。
大丈夫だろうか?出来るのか、失敗しないか、と
大人になると何かをやる前にたくさんの知識や情報が
入ってきて、安心・安全を求めて怖がることが増えてしまう。
試す前から諦めてしまったり、自分の力を自分で
評価してしまったりします。
全力でぶつかれば必ず 「自分にふさわしい結果」
が返ってきます。その “ 結果 ” によって 「変化」 がうまれ、
変化が 「成長」 につながるのです。結果が判らないから
『決断』 が必要なのだが、中々決断もしがたい。

後ろ向きな脳は、何事についても積極的な行動をとろうと
しないので、脳に刺激が与えられないという。そうすると、
脳の機能は低下し、性格はさらに後ろ向きになってしまう
という悪循環に陥るのです。反対に、前向きな脳は、
次々と新しいことにチャレンジしようとするので、脳は新鮮な
刺激を受けます。そうすると、脳は活性化し、いっそう前向き
な性格になる、という好ましい循環を起こすんだそうです。
ある分岐点を境にして、後ろ向きな脳は、ドンドン後ろ向き
になり、前向きな脳はさらに、前向きになるというわけです。

決断とは、「決める」 「断つ」。そして、「断つ」 には2つあって、
ひとつは、迷いを断つ。ふたつめは、退路を断つなそうです。
そして人生は、踏み切る、割り切る、思い切るの 「三切る」 だと、
入社したての頃、人生の先輩である上司に言われた言葉です。
踏み切ったらまずは割り切って一所懸命やってみなさい。
それでダメなら思い切ればいいじゃないか。
君たちは踏み切ったばかりで、もう思い切ろうとしているが、
それはまだ早い。もうしばらく割り切って続けてみるべきだ。
この言葉で原点に返って、仕事に打ち込む決意をしたものです。

NHK連続テレビ小説の 『花子とアン』 という
ドラマの主題歌は 「 にじいろ」 でした。

 これから始まるあなたの物語
   ずっと長く道は続くよ
     にじいろの雨降りそそげば 空は高鳴る

私たち大人は、子どもみたいに新しいものにぶつかっていく
勇気を、知らず知らずのうちに忘れてしまっているような気がします。
ですから、「曲がり角をまがったさきに・・・」 は、
私に久しぶりに勇気をくれた言葉です。
子どものときのような好奇心や、新しいことにぶつかって
いく勇気をもつことのすばらしさ、どんな状況でも希望を
もって頑張っていれば、きっとその思いは報われると思います。

子供向けの本なのに、娘が初めて自分から 「ほしい」 と
言った本なのに、大人が読み返して見ても、こんなに生きる
喜びと希望が湧きあがる。本を読むことは、自分をその本と
対峙させることです。自分の知識、経験、感性と目の前の
本に書かれていることとの対話なのです。

読書をすることで、読み手が登場人物の気持ちを考える
ことで、他者理解・多様な価値観を享受することができます。
主人公や登場人物たちの動きを追い、気持ちに触れる
ことで相手の考えや気持ちを察する力が身に付きます。
人の気持ちがわかるようになれば、人間関係の悩みを
抱えている場合、自分だけではなく相手の立場に
なって物事を考えることもできるようになります。

本というのは、先人たちの経験が集約されたものです。
そこには、彼らの人生で得た教訓や過去に犯した失敗
などが綴られているわけです。それを読むことで、
私たちは同じ間違いをせずに済むことになります。
真剣にぶつかっていくと、真剣に答えを返してもらえます。
どんな本でもやっぱり読書って大事ですね。
本を読むことの大切さを知った気がします。


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  「春日局のお墓 」 
         麟祥院 (東京都文京区) 
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湯島天神に出掛けた時、境内で近所のカメラ好きの方と遭遇。
帰りに近くの麟祥院へと誘いを受けて立ち寄ることにしました。
湯島天神から春日通りを本郷方面に向かって徒歩で6分くらい。
御存じ江戸幕府・三代将軍徳川家光の乳母で、大奥で絶大な力
を持った春日局のお墓があります。以前に撮った関連する写真
がありますので、それを交えて紹介します。

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地下鉄・後楽園駅の北側、春日通りの富坂交差点に礫川公園 (上)
があります。歩道の左側が公園で、右側が富坂 ・ 春日通りです。
湯島神社から続く通りを 「春日通り」 といいます。(下)

文京区 「春日」 の地名は、春日局が乳母として使えた3代将軍徳川
家光より拝領した土地に由来し、昔は春日殿町と呼ばれていました。
また春日局の菩提寺 ・ 麟祥院が湯島にあり、このように文京区は、
春日局と歴史的に深い縁があり、町名や 「春日通り」 (道路名)
など、春日局にちなんだ地名が今も残っています。

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東京都文京区にある礫川公園は、地下鉄丸ノ内線、南北線 「後
楽園」 駅から徒歩1分、文京シビックセンター前にある公園です。
明るく開放的な公園なので、子供連れのお母さんで賑わいます。

礫川公園の地域は、明治維新まで水戸徳川家の広大な所有地
でした。 明治維新により、敷地は他の大名と同様に明治新政府
に召し上げられ、この一帯は砲兵工廠となりました。戦後、都営
住宅、中央大学や戦没者慰霊堂 ・ 公園用地に分割されました。
一部は現在の東京ドームになっています。 「礫川 (れきせん)
公園」 の 「礫 (れき)」 とは小石のことです。 つまり 「礫川」 とは
「こいしかわ」 ということになります。 このあたりは小石川後楽園
を含めて、昭和39年まで旧町名の小石川町でした。公園内には
噴水、水路、花壇、木々が植えられ、よく整備されている公園です。
駅に近い植え 込みには、サトウハチローの 「小さい秋見つけた」
のモデルになった 「ハゼノ木」 や、作家 ・ 幸田文さんにゆかりの
ある都内にはあまりない 「ハンカチノ木」 があります。

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春日通りの富坂側の入口の近くに 「大奥 」でお馴染みの 「春日
局」 の像が礫川 (れきせん) 公園内にあります。

江戸時代に流布 (るふ) していた絵図をみると、現在の春日通りは、
江戸時代もほぼ同じ所を通っていたことがわかります。通り沿いには
旗本屋敷が並び、その間に町屋が点在していました。また、伝通院
(でんづういん) などの大きな寺院も少なくありませんでした。伝通院
には、2代将軍徳川秀忠の娘 ・ 千姫や徳川家康の生母、「於大 (お
だい) の方」、3代将軍家光の正室 ・ 孝子 (たかこ) らが埋葬されて
いる寺として知られています。明治時代に入り武家地が廃止されると、
春日通り沿いも市街地化され、明治41年 (1908) には本郷三丁目交
差点と伝通院前の間に市電が開通しました。2年後には大塚仲町ま
で軌道が伸びました。この路面電車は、昭和46年 (1971) に廃止
されるまで多くの人びとに利用されました。

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春日局 (かすがのつぼね) は、安土桃山時代末期から江戸時代
初期の女性で、徳川幕府三代目将軍、徳川家光の乳母を務め、
家光が父 ・ 秀忠の後継者となり、将軍職に就任するにあたって
大きな功のあった人物です。

昭和64年1月 (1989) より、1年間NHK大河ドラマ 「春日局」 が
放映されました。文京区ではこれを契機として 「文京区春日局推進
協議会」 を設立し、区民と共に区内の活性化地域の振興を図ること
を目的として種々の事業を推進し、本事業を記念して 「春日局像」
を建立することになったようです。 平成元年に建立されました。朝廷
から 「春日局」 という称号を賜って、従二位にまで昇叙した 「やり手」
です。当然、今に残る肖像は失礼ながら、こんなに美しくはなく、もっ
と迫力があったといいます。これはやはり、この時のドラマ化のヒロ
イン、大原麗子さんが影響しているものなんでしょうね。(笑)

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春日局の像は、本人と似ているかどうか定かではありませんが、
歴史上の有名人なので、さぞかし尊厳のある顔かなと思ったので
すが、凛々しい感じの可愛い顔をしていました。ただ春日局は幼
少期に病にかかり、顔に痘痕が残っていたともいいます。 詳しく
はわかりませんが、後添いに入った稲葉家ではうまくやっていた
様子なので、美貌よりは才知に長けた上昇思考の強いキャリア
ウーマンタイプだったのかもしれませんね。春日局 (福) が乳母
になったのは25歳ごろ、銅像も若さを感じさせる姿で、お局様と
いうよりお福様と呼びたいような像ですね。大奥総元締めにして
時の将軍徳川家光も頭が上がらなかった彼女の雰囲気をよく
表現した仕草と表情でした。台座付きで、扇を持った立像です。

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皇居は皆さんもご存知の通り、元々は江戸城でした。かつて江戸城
にあった本丸と二の丸 、三の丸の一部の跡地を整備して作られた、
約21万平方メートルの敷地が 「皇居 ・ 東御苑」 です。本丸跡は影
も形もなく芝生だし、天守閣跡は土台のみ、門や一部の建物・建築
物を除いてあまり遺構は残っていません。大奥と中奥を結ぶあの、
「上様の、おな~り~」 で有名な 「御鈴廊下」 は向かって右側、
地図で見ると石室の前あたりでしょうか。(上)

大奥の跡は、江戸城本丸跡 (皇居東御苑) の天守閣跡寄りにあり
ます。 (下右)  芝生が敷き詰められている天守台の南に広がる広
場です。今では全く面影もなくわからないです。大奥はドラマや映画
で知られるように、御台所と呼ばれた将軍の正妻をはじめ家族や女
性たちの生活の場でした。想像するしか無いですが、敷地面積から
すると、かなりの広さがあったように思います。天守台の上から眺め
ると、その広さを感じることができます。(下左) 芝生が広がる一帯
に女の争いの場があったと伝えられています。

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「大奥跡地」
皇居 ・ 東御苑内の本丸跡の芝生広場の東側に位置する場所に、
(上) 現在は特に建物や石碑等は残っておらず、大奥跡には一
応それを示す小さな表示板が立っています。(下)

大奥は江戸城本丸にありましたが、1863年に火災で焼け、幕末
の緊急時という事もあって再建は先延ばしとなり、そのまま明治維
新を迎えます。大奥と江戸城の中枢機能は西の丸に移り、明治天
皇も東京に皇居を移した時は最初江戸城西の丸を御所としました。
しかし、西の丸の御殿も明治6年に火災によって焼失し、往時の大
奥をしのぶものはほとんど無くなってしまいました。目を閉じて、当
時の情景を想像するしかないです。(笑) 現在江戸城西の丸は皇
居に、本丸二の丸三の丸は皇居東御苑となっており、皇居東御苑
は無料で一般公開されています。月曜日と金曜日が休日です。

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「井戸」
大奥の賄所か東長局調跡に残る井戸。(上) 御広敷の中でも広い
のは調理場で、井戸つきの板の間があったようです。かまどは6つ
あり、それで煮炊きをしたそうです。それにしても、井戸はさすがに
生々しく感じられます。調理場で働く男たちは下男を含め約140
名ほどいたようです。

天守閣前に広がる芝生とその周辺には、将軍の正妻や家族、女性
たちの生活の場であった大奥、中奥、表に分かれていた本丸御殿
が立ち並んでいました。中奥は政務を執る場所、表は公的儀式や
役人の執務を行う場でした。大奥は御台所 (正室) や側室、生母、
奥女中たちが生活する場であり、将軍の私邸でした。大奥でも御
台所が住む 「御殿」、奥女中たちの住む 「長局」、そして幕府の男
性役人が勤務する 「御広敷」 の三つに分かれていたようです。

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「麟祥院の山門」 (上)  
さて、湯島天神から徒歩で5~6分くらい、春日通りより少し奥ま
ったところに山門が建っています。山門は瓦屋根が葺かれた木
造の山門で、木の素材が黒光りしており風格を漂わせています。
境内に入ると前に大きな 「お堂」 が建っています。(下右) この
お堂は客殿と呼ばれるもので、比較的新しく鉄筋コンクリート造
です。客殿というお堂は、昔から禅寺には設けられることが多い
そうです。信者や檀徒の皆さんの集会所になっているのでしょう。
左手方面に境内が広がっており、綺麗に手入れされた木々が植
わっており、(下左) 都心の一等地にある寺院にしてはかなりの
広さです。周囲も繁華街ではなく住宅街なので、境内はひっそり
としており、時計の進みが遅く感じるような空間になっています。

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「天澤山 ・ 麟祥院 (りんしょういん)」 (上)
功なり名をとげた春日局は、隠居所として寺院を建てようと思い立
ちます。これを知った将軍家光は、願いをかなえさせるために本郷
湯島の土地を贈ります。土地を拝領し、寺院を寛永元年 (1624)
に創建され 「報恩山天澤寺」 と名づけられました。春日局は大奥
を辞した後、この寺に隠居し、1643年に65歳で亡くなりました。
天澤寺はそのまま春日局の菩提寺になり、春日局の法名にちな
んで 「天沢山麟祥院」 と改名されました。残念なことに戦災で消
失、現在の建物は戦後に再建されたようです。境内の周囲にから
たちの木を植えていたことから、別名 「からたち寺」 とも呼ばれ、
なんと夏目漱石の 「三四郎」 にも登場します。

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麟祥院の境内に 「春日局の墓はこちら」 という案内板がありました。
それをたどって行くと、墓地の奥に石の柵にかこまれた大きな墓が
ありました。後ろの方からガサガサと音がしてビビりました。春日局
が現れた~と思いきや、墓を訪れた年配の女性でした。ビックリした
~。思わず脅かすなよと叫びそうでした。(笑) 燈籠がいくつも立っ
ていて、由緒ある墓であることが分かります。

春日局は、幼名を福といい、父は織田信長を本能寺で殺した明智
光秀の重臣・斎藤内蔵助利三でした。父が処刑されるという苦難の
うちに人生のスタートを切った福は、天下が豊臣家のものとなり、幼
少期は周囲から 「謀反人の娘」 と見られながら育った。お福は母と
ともに京都の祖母の実家である三条西家に奉公に上がり、公家の
しきたりや教養を身に付けます。成人して母方の一族稲葉重通の
養女となり、小早川秀秋の家老であった稲葉正成と結婚します。
しかし、小早川秀秋が若くして亡くなった為に夫は浪人となりました。
お福は京都の母のもとへ身を寄せますが、二代将軍の秀忠に子ど
もが生まれ乳母を必要としていることを知ると、京都所司代の推挙
を受けて江戸へ下ることとなります。これには、夫のもとを離れる直
前にお福が四男を生んだばかりであったことも功を奏し、公家の下
で養育され生来の利発さが認められたからでしょうか。

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これが 「春日局のお墓」 です。「お局さま」 という言葉の語源とも言
われる春日局ですが、大きな権力を手にした理由には、やはり江戸
の政治を真剣に考えていたその姿勢があったからなのでしょうか。

戦国の乱世を生き抜き、その器量を徳川家康に見込まれ、将軍秀忠
の息子 ・ 竹千代 (のちの三代将軍 徳川家光) の乳母として採用され、
以降、お福は竹千代の養育に力を注ぐことになります。2年後に竹千
代の弟・国松が誕生。病弱で内気な竹千代に対し、利発で容姿端麗
な国松を秀忠とその妻 ・ お江 (於江与) は寵愛します。次期将軍に
長兄である自分を差し置いて国松をと願う両親の心中に心を痛めた
竹千代は、わずか10歳ながらに自殺未遂を図る。深く傷ついた竹千
代に、お福は根気強く向き合い実母以上の愛情で接しながら家光が
将軍職に就くため献身的に活躍します。

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墓の正面に立つと門扉の左側には、お仕えをした徳川家の三つ葉
葵の御紋と右側には横三本の紋章がありました。 これは福が三代
将軍家光の乳母になる前に嫁いでいた稲葉家の家紋です。(下右)

家光は病弱であったり内向的であったため、弟忠長が将軍の後継
者になりそう情勢になったりする中、必死になって家光を守ります。
忠長との後継者争いの際には、伊勢参りのふりをして、駿府に行き、
大御所家康に訴えました。これより家光は後継者になりました。また
家光が疱瘡にかかった際には、薬だちの誓いをしてまで回復を願い
ました。乳離れが済むとお払い箱になるのが普通ですが、お福は家
康にその力量を認められたことなどから長期に渡り乳母として江戸
に留まることになり、次第に将軍家の世継を育てることに大きな使
命感を抱くようになっていったようです。こうしたことから、家光に対
しても強い影響力をもち、大奥を統率し、次第に権勢を振いました。

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春日局の墓石は、無縫塔と呼ばれる上部が少し太い円柱状のもの
です。(上) 無縫塔は、当初は禅宗高僧の墓の形式でしたが、近
世以降は僧侶以外の一般人の墓にも使われるようになりました。
その無縫塔の上部と塔の下の基部には、四方に貫通した穴が設
けられていました。(下左) これは、春日局の 「死後も黄泉 (よみ)
の国から天下の政道を見通せるようにしたい」 という遺言に、衆議
して建立したものと言われています。春日局の強運と賢徳に、又墓
石に穴が通っていることから、「肖る」 とか 「願いが通る」 と江戸時
代より港間に伝えられてひそかに参詣する人が多くあったそうです。 
墓の至る所に稲葉家の家紋が見られます。(下右) 春日局の墓を
訪れる方が絶えずいて、忠臣蔵でお馴染みの泉岳寺のように、誰
かが必ず訪れている感じでした。歴史好きの方々が多いんですね。

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周りには春日局御廟所の碑や石燈があり、よく見ると寛永二十一年
九月十四日と記されています。春日局が逝去したのは寛永20年の
ことでした。春日局が亡くなった翌年に奉納されたのしょうか。実に
374年の歳月が流れているんですね。凄いですね。

明智光秀の重臣がお福の父です。明智光秀のために本能寺で命を
落としたのは、言うまでもなく織田信長です。その姪にあたるのが将
軍・秀忠の正室であるお江与の方で、その息子である家光の乳母が
春日局ということになりますから、まさに奇縁と言えるでしょう。家光
の妹の和子 (まさこ) は後水尾天皇に嫁いでいました。これを気遣
っていた家光は、朝廷との橋渡しをお福に命じ、名代として京都に
時の天皇に謁見させようとします。しかし本来、お福は無位の身で
あり、天皇に面会できる位ではありません。お福を三条西家の仮の
妹ということで宮中に入れることになります。後水尾天皇はお福に
従三位の位とその地位にふさわしい名前を賜ったのです。その名
こそが 「春日局」 でした。再び台命により上洛し、明正天皇より従
二位に叙せられます。従二位は北条政子に比定する位階です。

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寛永3年 (1625) に秀忠の正室 「江」 が亡くなると、 お福は大奥を
一手に任され御年寄という大奥最高の位を手に入れます。そして江
戸時代の大奥のいろいろな組織は、この 「お福」 の時代に定まるこ
とになります。大奥のみならず、将軍の権威を背景に大奥総取締役
として老中も上回る実質的な権力を握るようになりました。春日局は
晩年に大奥を辞してこの寺に隠居。権力者の 『春日局』 にも病気と
寿命はどうすることもできなかったようで、寛永20年 (1643) に病
に倒れ没します。享年65歳でした。その少し前に詠んだ、春日局
の辞世の句が残っています。

西に入る月を誘い
   法をへて今日ぞ
     火宅をのがれけるかな

このように、江戸幕府初期のころの体制安定につながる大きな業績
をあげた春日局ですが、その陰でさまざまなご苦労があったことでし
ょう。この辞世の句の中の 「火宅をのがれける」 という一節に春日
局の深い感慨がかいま見える思いがします。" 火宅 " とは仏教用語
で、「この世の、汚濁と苦悩に悩まされて安住できないことを、燃えさ
かる家にたとえた語」 でしょうか。あの OL の間で使われている 「お
局さま」 という言葉の語源とも言われる春日局ですが、高い教養を
身につけ、乳母として将軍家の役に立ち、戦のない世の中を作る
ために懸命に働いた彼女の生きざまは胸を打つものがありますね。

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春日局の墓の周囲には、春日局の夫 ・ 稲葉家の墓や大きな燈籠
がいくつも立っていていました。春日局は、稲葉家の出身ですが、
稲葉家も繁栄します。長男の稲葉正勝は老中となり小田原藩主と
なり、その子孫からは老中が何人も輩出し、幕末は、淀藩の藩主
として明治を迎えました。

あの時代に徳川の血筋な訳でもなく、ある程度武家の中での仕事
をしたことはあったにせよ、稲葉家に嫁いで離縁しながら、将軍の
乳母となり、ましてや天皇に称号までもらってしまう。 歴史上の人
物として名を残してしまうというすごさは、何だか魅せられてしまう
なあというのが正直な感想です。「うちの会社の大奥は」 とか 「そ
ろそろおつぼねさまのポジションに来ちゃったな」 と、それでも男
社会の中で女性がどのように生きていくのかということを、ずっと
先輩たちから手探りしながら、今の若い子たちにもつながってい
るいうことを思うと、現代に脈々と引き継がれて、今の世がある
感じがして感慨深いですね。

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「東洋大学発祥の地」  (上 )  「東洋大学」 (下右)
麟祥院の山門を入ってすぐ左手に、茶色の自然石に 「東洋大学
発祥之地」 と刻まれた碑が建っています。(下左) 哲学館は明治
20年に、この境内の一棟を借り私立 「哲学館 (東洋大学の前身)」
を井上円了によって創設されました。 「哲学館大学」 の名称を経て、
明治39年(1906) 「東洋大学」 と改称。 現在は、白山 (文京区)、
朝霞(埼玉県)、川越(埼玉県)、板倉(群馬県) の4ヶ所にキャンパ
スがあります。

【メモ】 井上円了 (いのうえ えんりょう)
東洋大学の創立者である井上円了は、安政5年 (1858) に新潟県
長岡市浦の慈光寺に生れました。10歳の時に明治維新を体験して、
その年から漢学を学び、洋学などを学びました。その後、創立間もな
い東京大学に入学しました。東京大学で若き円了の人生を変えた学
問が 「西洋哲学」 でした。哲学を学んだ目で改めて日本の学問を見
つめた円了は、「洋の東西を問わず、真理は哲学にあり」 と確信しま
す。哲学とは物事の原理・原則を探究する学問であり、あらゆる学問
の基礎となる――この考えから、29歳の円了は東洋大学の前身 「哲
学館」 を創立します。時代は欧米の価値観を求める文明開化。その
中にあっても、西洋・東洋双方の哲学を探究することが日本の近代
化につながるはず。そんな円了の信念が成し遂げた船出でした。
日本に多大な影響を与えた1 人といえるでしょう。大正8年 (1919)
に中国・大連で講演中に倒れ、61歳で逝去しました。

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明智光秀家臣の娘という立場で戦国の乱世を生き抜き、その器量
を徳川家康に見込まれて大奥を取り仕切り、後の三代将軍徳川家
光の乳母を任された女性・春日局の生涯は波乱な人生だったでし
ょう。それまで 「強い女」 「烈女」 のイメージが強かったのですが、
献身的に家光の母代わりになろうと生きた女性としてのその姿。
「お局さま」 という言葉の語源とも言われる春日局ですが、大きな
権力を手にした理由には、やはり平和な世を希求し、真剣に考え
ていたその姿勢があったからなのでしょう。彼女の辞世は、その
人生がいかに激しいものであったかを物語っています。墓の前
で両手を合わせずにはいられませんでした。 374年前へ合掌。





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