一ヶ月に2回満月を迎える月を「ブルームーン」という。 そのブルームーンを見ると願い事が叶う・・・・。






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「小学生の病む心」

...2018/07/15 10:08...

かみさんが連日、お中元で実家の母とデパート周り。
年末のお歳暮と並んで、贈り物の行き交うこの時期。
お歳暮に対して、この時期の贈答品の熨斗には 「お中元」
と書かれますね。7月の15日は 「中元」 の日だという。

さて、東京はお盆を迎えました。
「エッ、お盆って来月でしょう」 と言う方もいるでしょう。
東京では7月にお盆を迎えますが、地方では8月に
お盆を迎えるなど地域によって時期が違います。
お盆には 「新のお盆」 と 「旧のお盆」 と二通りの時期
があるからです。一般的に 「お盆休み」 と呼ばれる
時期は 「旧のお盆」 や 「月遅れのお盆」 である
8月13~16日をさしています。

お盆の時期が異なる理由は、明治時代に行われた
改暦が関係しています。改暦は明治政府がそれまでの
旧暦から、暦の国際基準化を目指して新暦へと変更しました。
つまり太陰暦から、現在の太陽暦へと移行されました。
それに伴って、お盆も1ヶ月ほど早くなったというわけです。

東京を中心に都市部では新暦の太陽暦に従って
7月15日と変更されたのですが、地方ではちょうど忙しい
農繁期にさしかかるため、1ヶ月遅らせて8月15日に行う
習慣がそのまま残っているのです。このため、7月のお盆
を新盆と呼び、8月のお盆を旧盆と呼ぶようになったわけです。

東京や一部地域では、新のお盆である7月13~16日に
お盆を迎えるのです。正式には 「盂蘭盆会(うらぼんえ)」
といい、旧暦の7月15日を中心に行われる先祖供養の儀式
のことです。先祖の霊があの世から戻ってきて、また天に帰っ
ていくという日本古来の信仰と仏教の行事とが結びついた行事。

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生まれも育ちも東京という私たちは、この時期にお盆を迎えます。
お盆の最初の13日を 「迎え盆 (お盆の入り)」、最後の16日を
「送り盆 (お盆の明け)」 といいます。 靖国神社の 「みたままつり」
もこの時期に行われます。日本の仏教習俗であるお盆では、ガク
に包まれたホオズキの果実を死者の霊を導く提灯に見立て、東京
では枝付ホオズキを精霊棚 (盆棚) に飾ります。(左) 子どもの頃、
我が家でも毎年 「ほおずき市」 に出掛け、この枝付ホオズキを
購入して、「引きずらないように」 と、母に叱られながら、何故か
私が持たされた記憶があります。私の方は帰りに立ち寄る、
老舗のうなぎ屋が楽しみでした。(笑)

連日の猛暑に、熱中症に注意をし、こまめに水分補給や
エアコンで室内の温度を下げる等、対策を呼びかけてます。
暑さに負けないで・・・・・楽しい連休を!

I hope you have a nice day.
   (すてきな一日をお過ごし下さい)


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「小学生の病む心」

ケンブリッジ大学の医学部の学生が研修を目的に来日し、
知り合いの医院で勉強している。先日、院長でもある先生
に食事を誘われてお邪魔した。エリカという名前の日英の
ハーフの女の子で、いつもニコニコ明るく、とても賢い方だ。
小学校の何年かまでは日本にいたとかで、日本語にも
まったく不自由しない。

「こんな時、日本ではこう言うんだけど、英語ではなんて言うの」
といったたぐいの質問をして結構、文化の違いも楽しめた。
「青天の霹靂」 が英語でも 「A bolt from the blue」 と同じ
言いまわしをするのだということを恥ずかしながら初めて知った。
どっちが元祖なのか、それとも偶然の一致なのか、
調べてみたがわからなかった。

先生の話によると、午前中の一般外来に彼女が実習で来ていた
時のこと、学校に行く時間になると、お腹が痛くなる小学四年生
の男の子がお母さんに連れられてきたという。お腹に加えて、
頭も目も耳も痛いらしい。熱はない。

「今日はケンブリッジ大学の医学部の学生さんも一緒に
みせてもらうからね。こちらエリカさんです。お母さんもよろしく」
と紹介をして診察を始めた。塾のスケジュールが連日過密で
遊ぶ時間もなくなったための心的疲労だった。
そばで興味深そうにのぞき込んでいたお母さんが聞いた。
「イギリスにも塾なんてあるのですか?」 「無いです。私は一度も
行ったことがないです」 と彼女が答え、その途端にお母さんが、
「エーッ、塾にも行かないでケンブリッジですか」 と感心したという。
エリカさんは上等なユーモアだと思ったらしい。
先生は何も言えなかったとぼやいていました。

家で宿題をした後、自由に趣味に没頭したり、本を読むことが
何より好きな男の子。それがいきなり休日まで塾になってしまった
のですから嫌がるのも無理はありません。中学受験のためらしい。
塾に行くことを決めたのは親でした。
「そんなに勉強ばっかして・・・・すごいねー」 「勉強ばかり
していないで運動したほうがいいぞ」 「子どものうちに遊ばないで
いつ遊ぶの」。相手に良かれと思って声をかけたけれども、
こちらとしては、何とも言えない微妙な気持ちになったという。

中学受験をする方も今や全然珍しくない。
いわゆる 「教育ママ家庭」 であることの孤独感は正直感じます。
何事も経験してみないと分からないことってあります。
教育ママって、実はものすごく強い心と我が道を行ける
精神がなければなれないんだなと思い知ったという。
周りの視線や哀れみや好奇心に負けない心が必要なんだなと。

よくメディアなどで見る 「息子を東大に合格させた母」 とか
「子どもを全員医学部に合格させた母」 といったお母さんが
出てきますよね。実はあのお母さんたちの何がすごいかって
いったら、周囲の色んな視線に負けずに、「うちはうち」 と
貫き通した精神力なんじゃないかなと思います。

正直言って、「なにか習い事をしているの?」 と聞かれた時に、
「習字」 だったり 「そろばん」 だったり、また運動系の習い事だったら
すんなり会話が進むはずなんですよねぇ~。「何か習い事をしてるの?」
と聞かれて、「塾と公文」 って答えるんですから、そりゃ相手の大人も
「え! 塾と公文 !? 勉強ばっかり!」 ってなるわけですよ。

そしてそこからの、「運動したほうがいいよ!」 になるわけです。
そうなんですよ。そりゃ運動だってしたほうがいいとは思うんですけど、
子どもがみんな運動が好きなわけではないんです。運動が嫌い、
苦手な子どもも当然いるんです。

個人的には、勉強をがんばっていても、運動をがんばって
いてもいいのでは? と思います。野球でより打てるように練習
することと、テストでより高い点数が取れるように勉強すること、
分野は違いますが打ち込んでることが大事だと思うのですが・・・・。
周囲に中学受験文化がないと、小学生が進学塾に通うことが
かわいそう・・・・と思われがちな中での難しさ。
院長先生の話を聞いて、今それを実感しています。


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増上寺 七夕祭り 
「和紙キャンドルナイト 2018」  

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7日の土曜日、都内各地では七夕のイベントが行われました。
久しぶりに家族揃って買い物をした後、レストランで夕食した帰り
に、娘とかみさんがどうしても見たいというので、七夕のイベントが
行われる増上寺に立ち寄りました。年々見学者が多く、見動きが
取れないほどの混雑ぶり。でも、それだけ見応えのあるイベント
なのです。チラッと紹介します。私の方は2度目ですけどね。

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地下鉄三田線の御成門で下車、増上寺に着いた時には大殿本堂
前は人で一杯でした。(上) 東京タワーを間近に見据える増上寺
で、約5400個の和紙キャンドルがきらめきます! 増上寺の入り
口から本殿へと延びる和紙キャンドルは、まるで天の川のようです。
まだ明るいのですが、これから場所探しをせねば見ることが出来
ない状態です。(下右) 前列かた3~4番手はまったく見えません。

「増上寺」
関ヶ原の戦いの後、徳川家康の江戸入城の際立ち寄った縁で、
幕府崩壊までの永きに渡り、将軍家の帰依を受けたお寺です。
増上寺の安国殿には、家康が深く信仰した 「黒本尊」 が祀られ
ています。家康が数々の戦争に勝ち、災難を退けたのはこの黒
本尊 (阿弥陀如来) のおかげだと広く知られています。 今でも
「勝運」 「厄除け」 の仏さまとして多くの人が訪れます。 大殿の
真後ろには東京タワーが建ち、徳川家墓所、三解脱門 (山門)
や経蔵など江戸時代、この寺のご威光は強大でした。ちなみに、
忠臣蔵の松の廊下の刃傷沙汰は 「増上寺の畳替え」 がきっか
けであり、また、それ以前にも家綱法要の際に、増上寺で刃傷
沙汰が起こっています。江戸の時代からいろんな意味で名所
だった地なのです。

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参道には和紙キャンドルが三解脱門 (山門) を入ったところから
大殿前まで約80メートルにわたり、緩やかな曲線を描くように並べ
られたキャンドルの天の川が表現されていました。早くから皆さん
場所取りをして待機です。着いた時にはすでに何百人という人が
周りを囲んで身動きが取れない状態でした。が、三解脱門 (山門)
の左側に場所を確保し暗くなるのを待ちます。大変です。(笑)

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「点灯」
スタッフの 方が、キャンドルに灯りを点しています。(上) キャンド
ルの数は約5400個という、本殿までキャンドルを並べるのも時間
がかかるし大変なことです。ご苦労様な事です。この時期の東京は
午後七時半を 過ぎないと暗くならないんです。皆さん、明るいうち
から場所取りをして長らく待機していたようです。境内は屋台らしい
ものなく、 暗くなるまでジッと我慢の子です。(笑)

東京 ・ 芝公園にある浄土宗大本山増上寺では、7月7日の七夕の
日に 「七夕まつり」 が開催されます。また、境内では18時から21時
まで、多摩大学の学生による 「和紙キャンドルナイト2018」 も開催
されます。このイベントは多摩大学の 「日本大好きプロジェクト」 の
企画によるもので、所属する学生が自ら和紙を手漉きし、その和紙
で包んだキャンドルで天の川を表現。東京タワーの光とのコラボレ
ーションが楽しめるという企画です。楽しみにしている方が多い。

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「七夕飾り」
年に一度、七夕にのみ出会える彦星と織姫。短冊に書いた願い
ごとを叶えてもらう七夕祭りが東京各地の寺社でも行われます。
ここ増上寺では、大殿前広場に七夕の笹飾りが何本も設置されて
います。(下左) 本堂の脇では願い事書き所があり、短冊は御祈
願料として1枚100円、専用の賽銭箱がありました。 短冊のお布
施は 「あしなが育英会」 に寄付されるようです。短冊に願い事を
書く人達の長い例が出来ていました。7月7日夕暮れ時、願いが
込められた七夕短冊の祈願法要が行われ、色とりどりの短冊が
幻想的に映し出され、七夕の風情が楽しめます。

七夕の歌でも歌われていますが、赤 ・ 青 ・ 黄 ・ 白 ・ 黒の 「五色
の短冊」 が吊るされ、其々の願いが書き込まれています。「お嫁さ
んに慣れますように」 という可愛らしい女の子や 「お母さんの手術
が成功するように」 と切実な願いや 「彼に私の思いが届きますよう
に」 など。短冊に書かれたお願いごとを見ると微笑ましく、七夕飾
りもとても愛らしいです。私たちも願い事を・・・・書き込みました。

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七時半を過ぎると辺りは薄暗くなり、和紙ならではの優しく、温かな
灯りに包まれ、増上寺の荘厳さと合わせることで、他では見ることが
できない、唯一無二の幻想的な光景が広がります。もう一つの目玉
である和紙のキャン ドルによる美しい天の川が再現され、幻想的な
七夕の夜を過ごせ ます。学生さんによって、すでに点灯されたキャ
ンドルの灯が、風 にゆれ動いています。(下左) 浴衣姿の方も見受
けられて、イベントに華を添える感じの良い雰囲気です。(下右)

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 笹の葉さらさら、のきばに揺れる 
       お星様きらきら、ぎんぎん砂子

毎年、7月7日が近付くと、この歌を歌いながら笹の葉に短冊を始め
とした七夕飾りを付け、織姫と彦星の逢瀬を思い浮かべながら夜空
を眺める方も多いのではないかと思います。七夕前後の午後9 時過
ぎごろ東の空を見上げた時に、明るい星が2~3個あります。その中
に一番明るい星2個が 「織姫と彦星」 です。北寄りで先に昇る方が
「織姫」。その間には天の川が流れています。辺りがやっと暗くなり、
東京タワーにもライトが照らされ、条件はそろいました。私たちが見
た 「七夕祭り ・ 和紙キャンドルナイト ・ 2018」 を、楽しんで下さい。

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「大殿前階段」
増上 寺全体を七夕ムードに染め上げる。あたたかい光の和紙
キャンド ルで増上寺を灯します。優しいキャンドルと和紙の作り
出す灯りはイルミネーションのように派手ではありませんが、
心落ち着き癒されます。

別名 「笹の節供」 「星祭り」 といわれる七夕は、江戸時代に五節
供の一つに定められ、今まで親しまれて来ました。 織姫と彦星が
お互いを大切に想うように、人には大切な何かが必ずあります。
それぞれにある 「大切さ」 を柔らかく包み込むような 「大切な」
気持ちを和紙で表現しています。大切を意味する造形和紙を大
殿前の階段横にも配置し、温かい空間を創ります。安国殿では、
朱印 ・ 御守りの授与と、「七夕特別祈願」 も行なうようです。

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8時を過ぎたあたりから、キャンドルの灯りが目立つようになって来
ました。キャンドルナイトの始まりです。 増上寺入り口の三解脱門
から大殿前まで、学生が手漉きした和紙で作ったキャン ドルを一
つ一つ星に見立てた壮大な天の川が出現しました。手作りの和紙
は一つひとつ表情が違います。ずっと一緒にいたいと思える相手と
巡り合えたカップルは、今年の七夕祭りは2人の恋の永遠を願い、
厳かでロマンチックな七夕を恋人同士で過ごすのもいいですね。
ダイナミックながらも繊細さも感じさせる天の川。ぜひ一度、その
美しさを実際に目にしてほしい。

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東京では珍しく晴れた七夕の夜。夏のイベントといえば、 やはり花
火大会や盆踊り等が目白押しなのだが、東京タワーの近 く、芝大
門にある増上寺では、七夕ならではの演出がされていて、 幻想的
な景色を見ることができます。織姫と彦星が1年に1度だけ 会える
日がなぜ梅雨の時期なのか、ずいぶん意地悪な話だと疑問 を感
じていたのですが、実は昔の七夕は旧暦で行われていました。旧
暦と新暦では1ヶ月ほど違う。つまり七夕はもともとお盆と同様、秋
の行事であり、 よい天気の日が続く時期に行われていたのです。
なるほど、その頃 なら日もだいぶ短くなって、早い時間に星空も
見られたわけです。

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七夕の夜に再会する2人の 「喜び」 と、年に一度しか会うことがで
きない2 人の 「悲しさ」、ふたつの 「感情」 を、1枚1枚手で漉いた
和紙で表現するなんて素敵ですね。再会の日を待ち望む織姫と
彦星のもどかしい日々、七夕における 「悲しみ」 を和紙キャンドル
で表すことで、来場者と 「織姫と彦星」 の再会の 「喜び」 を分かち
合える。本当に心で感じるイベントなんですね。

ところで、天の川の 『天』 はどんな字かというと。
空を表す形  ⌒ (空)  が ー を表し、人が手と足を広げて立って
いる形が、大人の頭の上に大きく広ががっている (空 ・ 天) の意味
を表します。「天」 は両手 ・ 両足を広げて立った 「大」 の字になった
人間の頭上に一 ぼうをつけて、頭上の高く平らな部分、すなわち、
頭上高く広がる大空を表したものなんですね。

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「児童和紙」
安国殿前には港区内の幼稚園、保育園、児童館に通う 子ども達
と、東北3 県 (岩手 ・ 宮城 ・ 福島) の子ども達、総勢1000名に
「あなたの願い事 ・ 夢」 をテーマにメッセー ジを頂き、和紙キャン
ドルとして輪違い紋様 で配置されていました。(下)  「日本の伝
統文化の素晴らしさを和紙キャンドルを通して感じてもらい、さら
に見学される方が、 今、改めて東北へ想いを馳せる時間になれ
ば嬉しい」 との思いが 込められているようです。

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東日本大震災の被災地や港区の子どもたちのメッセージに添えた
将来の夢や願いが、七夕の物語を通じて無事に出会えた 「喜び」
と共に、子ども達の夢 ・ 未来 ・ 希望の光で満ち溢れていました。
和紙キャンドルが夕闇に揺れて、増上寺全体を七夕ムードに染 め
上げています。和紙から放つ灯って暖かみがありますね。 一つだ
け気になったのが 「学校が楽しくなりますように」 という願い事が
ありました。(上右) 楽しいはずの学校なのに、イジメられている
とか、何かあったんですかね。気になってしまいました。

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「もういくつ寝ると本格的な夏がくるのかな?」 と、思っていたら、
とたんに “ 夏 ” は間髪入れずにやってきました。脈絡のない夢の
中にもてあそばれ、目をさますと、そこは増上寺内の 「夏」 だった。
「あっ」 と驚きを覚えるほど気配がすっかり七夕模様に色を変えて
いました。優しいキャンドルと和紙の作り出す灯りはイルミネーショ
ンのように派手ではありませんが、心落ち着き癒されます。

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安国寺前は、和紙で包んだキャンドルと、東京タワーの光とのコラ
ボレーションが楽しめます。一年に一度しか会えない織姫と彦星の
切ない想い、夢や願い事に包まれた和紙キャンドルで 「つながり」
を意味する同じ大きさの円の並列のうえに、円の並列を一つずつ
重ねることで、光を表す菱のような形と花びらのようなかたちの組
み合わせが、見えるという仕掛けになっています。無限に繋がる
輪ということから、円満や財産、子孫繁栄 などの意味が込められ
た紋様とされてきました。「日本の和の心を取り戻したい」 という。

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織姫と彦星が一年に一度だけ再会が許される七夕。しかし、その
感動の裏には、再会するまでのもどかしさがあるのではないかと。
子どものころ、本当に織姫と彦星が会えないのではないかと、空
を見上げていたことを思い出しました。少しの間だけでも純粋な
気持ちにもどって、七夕の夜を楽しみました。

「七夕の物語」 - 1
こと座の1等星ベガは、日本の七夕伝説では織姫星として知られ
ています。織姫は天帝の娘で、機織の上手な働き者の娘でした。
しかし、織女は年頃になって化粧もせず、遊びにも行かず、織物ば
かりを織り続けるので、天帝は不憫に思い、婿探し を始めます。
一方その頃、天の川の西には真面目に働く牛飼いの 青年、彦星
がいました。天帝は彦星の噂を聞きつけ、「是非娘と結 婚してくれ」
と願い出ました。彦星はその話を有り難く引き受け、 めでたく2人
は結婚することになったのです。

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<天の川>
天の川をイメージした和紙のキャンドルが並んでいる様は、とても
幻想的です。キャンドルを星に見立てて、増上寺の三解脱門から
大殿前まで約5400枚、全長90m もの長さで、和紙キャンドルを
配置し、天の川を見立てます。 並び連なる和紙キャンドルによる
幻想的な雰囲気と、増上寺を背景とした演出はここでしか見るこ
とが出来ない抜群の美しさであり、「増上寺に広がるもう一つの
天の川」 として、皆さんが楽しんでいます。

「七夕の物語」 - 2
ところが、結婚してからというもの、あれだけ一生懸命に働いていた
2人は、毎日、天の川のほとりで話をするばかりで全く働かなくなっ
てしまったのです。天帝が 「仕事をしないのか?」 と尋ねると、「明
日からやります」 と答えるばかりで、一向に働く気配がありません。
これに業を煮やした天帝は、彦星を元いた天の川の西に戻し、
2人を離ればなれにしてしまいました。2人は怠け者になって
しまったので、別れさせられてしまったのです。

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東京タワーのライトダウンがキャンドルを一層引きたてて綺麗です。
8 時を過ぎると背後で、東京タワーが増上寺の灯りのイベントに気
を使い、光を落しています。キャンドルの灯りのみで、かなり幻想的
な空間でしたが、東京タワーの近くは明るいので天の川は見えない
ですよね。東京タワー付近どころか、東京都心では天の川など見ら
れません。ですから逆に、天からこの灯りが見えたらいいですね。

「七夕の物語」 - 3
彦星と会えなくなった織姫は毎日を泣いて暮らしました。そして彦星
も寂しさのあまり、家に閉じこもってしまい牛の世話ができなくなって
しまいました。それを見た天帝は 「2人が以前のようにきちんと働い
てくれるなら、年に一度だけ会うのを許そう」 と言い、それを聞いた
2人は前よりも増して一生懸命働くようになりました。こうして、一年
にたった一度だけ会える日の7月7日は、織姫と彦星にとって待ち
焦がれた日となったのです。

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二人は天の川を隔て、年に1度だけ会うことをゆるされましたが、
しかし、雨が降ると天の川の水かさが増し、織姫は渡ることがで
きず、彦星も彼女に会うことができません。星の逢引であること
から、七夕には星合いという別名があり、またこの日に降る雨は
催涙雨とも呼ばれ、催涙雨は織姫と彦星が流す涙とも言われる。

境内に入ると和紙のキャンドルでできた天の川が・・・・。しかし、
キャンドル付近は想像以上の混雑で、まるでお正月の初詣のよう
な賑わいでした。一足早くお盆を迎えたような夏の風情がたっぷ
りで、天の川も灯籠流しのようにもみえました。それにキャンドル
の灯も熱気を感じ暑さにめげて、この夜は蒸し暑かったです。
ビールが飲みたい~。素直にそう思いました。(笑)

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東京タワーが見える絶好のロケーションで行われる七夕祭りは、
素晴らしい光景が広がっていました。年々、見に来る人が多くな
っているなかで、今年は規模を大きくし過ぎて、境内のスペース
が減ってしまい、人があふれ気味だったようです。天の川をイメ
ージした和紙のキャンドルは美しいのですが、足元は暗く、砂利
と石床が混ざり合い、階段もあるので、景色を楽しみつつも慎重
に歩いて、それはもう大変でした。都心でこうゆうイベントを見ら
れるのは嬉しいですが、人があふれてしまう状態になると・・・・・。
増上寺会館では、七夕まつりをモチーフにしたアニメ 「約束の
七夕祭り」 が上映されていたようです。(下)

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2人の恋の永遠を願う七夕祭り。
東京タワー近くにある600年の歴史をもち、徳川将軍家と所縁
の深い増上寺で、命の灯火のような和紙のキャンドルが天の川
を作り出す。とても奇麗でした。七夕の短冊をつけることもでき、
久々に七夕の雰囲気を味わえ満喫出来ました。一年で一日だ
け、天の川を渡って逢瀬できるという、悲恋話。織姫と彦星の
切ない想い、悲しみ、喜び願い、など様々な想いを詰め込み
「大切な」 という気持ちを胸に秘め、七夕の夜を楽しみました。

君がため 惜しからざりし 命さへ
    ながくもがなと 思ひけるかな~

あなたのためなら、捨てても惜しくはないと思っていた命でさえ、
逢瀬を遂げた今となっては、(あなたと逢うために) できるだけ
長くありたいと思うようになりました。





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「我慢すること」

...2018/07/08 09:43...

昨日の七夕の夜は、多少の雲があるものの
東京は見事な七夕日和でした。一方では、
西日本方面など、七夕の日なのに特別警報が
出るほどの記録的な大雨が降ってしまいました。

牽牛と織女の涙雨と言うには量が多すぎます。
避難指示などで他地域も多く、また、死傷者も
これが 「雨のため?」 と目を疑ってしまうほどの人数に。

梅雨の終わりには大雨が降ることが多いと言いますが、
すでに梅雨は明けてるし、今年は少々桁外れだった
ようです。皆さんのところは大丈夫だったでしょうか?
被害の遭われた方々には心からお見舞い申し上げます。

気象庁が 「これまでに経験したことのない大雨」
として、数十年に1度の異常な大雨に最大の警戒
を呼びかけた 「大雨特別警報」。西日本を中心に
河川の氾濫や土砂災害が相次いでいます。

尊い生命や家屋などの貴重な財産を奪うなど、
甚大な被害をもた らしているようです。
いったい、近頃の気象状況はどうなっているのでしょう。
これも温暖化のせいでしょうか? 心配ですね。

雨も必要ですが、「程々」 に降ってくれたらなあと思う。
降らなければ降らないで文句をいい、降ったら降ったで
文句をいう。どっちなんだ? お天道様にそう叱られそうです。
なかなか、人間の都合どおりには行きませんね。

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さて、友人が西瓜を送ってくれた。少し小ぶりながら包丁を入れると
真っ赤に熟れていて、なんとも豊潤な甘さだ。スイカ特有のシャリ
シャリとした食感で、とても美味しかった。

こんなにおいしいとなれば、せめて両親に食べさせたいところだ。
両親が我が家に立ち寄ったころには、もうそんなに残っていない。
ほかの到来物をご馳走して、西瓜の話はせずじまい。
夕食後、口に出さなかったが、うしろめたい思いで最後の分を
平らげた後で、かみさんが 「とうとう両親に食べさせないで、
自分たちだけで食べてしまって!」 と言いながら、皮に貼って
あったラベルを眺めながら 「いやだ、これ 「ひとりじめ」 って
いう銘柄みたい」。まるで人の気持ちを先どりしたような、
うまいネーミングに、思わず笑ってしまった。

夏至が過ぎ、少しずつ日が短くなっているようで。
やっと夏がくるというところなのに、日は少しずつ暮れて
いくのですね。そして、1年の折り返し地点である7月です。
下半期、心機一転、気持ちよく元気に過ごして参りましょう!


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「我慢すること」

「我慢しなさい!」 って子供のころからよく言われた。
日本人は特に我慢強い民族だと思うのですが、第二次
大戦の影響が大きいのでしょうか? おそらく、あのころは
国中が我慢と言う言葉が飛び交っていたに違いありません。
我慢を 「美徳」 として、そのせいでもしかしたら、無意識に
いろんなことを我慢することを習慣にしてたのかもしれません。

先日、職場で休憩中にコーヒーを飲もうと自動販売機へ
走ったが故障らしく使えない。職場へ戻って、「一服する時は、
やっぱり飲み物が必要だな」 と同僚と苦笑いしながら話して
いたら、後輩が気をきかせて私たちの分も購入して戻ってきた。
何人もの人が諦められず、自販機やコンビニへ走ったようだ。

何事もなかったように休憩時間を過ごしたのだが、考えて
みたら、普段、当たり前であったものが突然、失うこともある。
その時、我慢することも出来たはずだ。「我慢」 をする。
最近あまり使わなくなっている気がする。「我慢」 という
人間にとっても大切なことが、今、失われていないだろうか。

店が閉まった後に必要になったものや欲しいものが手元に
なくとも、明日まで我慢せずにコンビニへ走って買うことが
できる。電話を掛けて、相手が不在であきらめていたのが、
携帯電話ならメールでも24時間追いかけることができる。
店が遠くて入手をあきらめていたものが、ネットで注文が
でき翌日には届く。時間的、地理的制限などで我慢して
いた欲求を満たすことが出来る昨今なのです。

その結果、物でも人でも、とにかく欲しいものは今すぐ
手に入るのが当然、と思う心理が多くの人の心の大部分
を占めていないだろうか。その代わりに、待つ、我慢する、
時にはあきらめるという習慣が失われている気がします。

「欲しいものを我慢する」 いろんなところに我慢って使っ
ています。欲求というのは誰にでも当たり前にあって、かつ、
強いものですから、自分が今どうしたいのか? を、自分に
確認していくと、少しずつ自分の気持ちが見えてきます。
欲求の他には 「好きなことやモノ」 をチェックしたり、時々
自分が何が欲しく、何に役立つのかを考えると比較的、
受け取りやすいんですね。ここは歯を食いしばってでも
我慢する必要があることも少なくありません。つまりは、
そのしんどい感情を未来への希望という形で解放して
いる、といえます。

自制心というのは、人間にとって確かに大切な力です。
自分をコントロールできるか? ところがそれが 「我慢」
という言葉に結びついているようです。それが誤解を生む
こともあります。人それぞれ我慢の価値観が違うのです。
だけど、私たちは、『我慢する』 ということの先に、自分が
成長していることを知っています。そうやって、先祖代々
ここまで来ました。だから、大人は若い人たちに伝えて
いかなければいけない。我慢することもまた、自分を
磨くことの一つなのだと・・・・。

社会生活をしている限り、すべて自分の思い通りにはならない。
けれど自分も、相手も、時には我慢できなければどうなるのか・・。
もう一度、「我慢すること」 を思い出し考えてみたい。


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「プーシキン美術館展 」
 ―旅するフランス風景画―
  東京都美術館

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モネの名作 「草上の昼食」 が、初めて日本で公開されると聞き、
見逃すわけにはいきません。4月からの開催だったので、まだ
大丈夫と思っていたら会期末を向け、慌てて鑑賞してきました。
芸術の秋ならぬ真夏の芸術を堪能して来ました。さあ、風景画
の旅へ ――。海へ、森へ、山へ、―― もっと遠くのパリへ。

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プーシキン美術館の名を世界的なものにしているのは、何と言って
も名品揃いのフランス近代絵画コレクション。印象派からマティス、
ピカソまで、世界的な名画の逸品が数多く揃っている。そのコレク
ションをもたらしたのは、革命前のモスクワで財を成した伝説的な
二人のコレクター、セルゲイ・シチューキンとイワン・モロゾフです。
シチューキンは親の代からの繊維商で豪商として知られ、モロゾ
フは名門貴族の出で、絹織物の工場などを所有していた。二人は
19世紀末から20世紀にかけて、超一級のフランス絵画収集家。

「東京都美術館」
「都民のための美術の振興を図る」 いう目的で都が設置する公立
美術館。美術館や動物園などの文化施設が集積する通称 「上野
の山」 の一角に位置し、東京を代表する文化施設群の一翼をなす。
大正15年 (1926) に日本で最初の公立美術館として開館しました。

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会場入口からその雰囲気を存分に出しています。プーシキン美
術館展は、これまでにわが国でも2度にわたって大規模なスケー
ルで開催されており、ファンは多い。しかも、会期末とあって混雑
を覚悟で出掛けたのですが、意外にもスムーズにチケット購入も
入場も出来ました。館内も珍しく、ゆったりと鑑賞出来て、これが
望ましい美術展かなと満足でした。

「プーシキン美術館展 ―旅するフランス風景画―」
会 期    :  2018年4月14日 (土)~7月8日 (日)
会 場    :  東京都美術館 (東京 ・ 上野公園)
開館時間  :  9 時~17時30分 ※金曜日は20時まで。
観 覧 料   :  一般1600円 大学生1300円 高校生800円
           65歳以上 1000円

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珠玉のフランス絵画コレクションで知られるモスクワのプーシキン
美術館から、 17世紀から20世紀の風景画65点を展示。神話の
物語や古代への憧憬、あるいは身近な自然や大都市パリの喧騒、
果ては想像の世界に至るまで、描かれた時代と場所を軸にフラ
ンス近代風景画の流れをご紹介します。なかでも、初来日となる
モネの 《草上の昼食》 は、モネが印象派の画家として花開く前、
20代半ばで描いた作品です。今回は 「風景画」 に的を絞って
の展示で、テーマは 「旅」 でした。

第1章  近代風景画の源流
17世紀後半から19世紀前半頃の作品が並ぶコーナーです。それ
まで絵画の中で風景画というのはオランダ絵画などの例外を除くと、
一般的には立場が低く、宗教画や歴史画が主流の中で,その背景
程度に思われていました。しかし18世紀後半になると、ようやくひと
つの画題として定着していきます。風景画がいかに誕生したのか、
初めはどんなものをテーマとして扱っていたのかの作品を紹介。

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クロード ・ ロラン 「エウロペの掠奪」 1655年  (左)
人物がとても小さく描かれていて、完全に風景がメインの作品の
ように見えますが、この絵はギリシャ神話の一場面が繰り広げら
れています。フェニキアの王女エウロペに一目惚れしたゼウス。
彼は白い牡牛に姿を変えて、侍女たちと花を摘んでいたエウロ
ペに近づき、彼女を連れ去ってしまいます。背景には、暴力的
な場面とは対照的に美しい自然が広がります。17世紀頃まで
風景は、こうした神話や聖書の物語の背景として描かれてきた
ようです。海や空は穏やかな雰囲気だから、これから誘拐事件
の現場になるとは思えないのですが、これが嵐の前の静けさと
いうやつなんでしょうね・・・・。

クロード=ジョゼフ ・ ヴェルネ 「日没」 1746年  (右)
これは夕日を背景に入港してくる船を描いたもので、離れて観た
時にクロード ・ ロランの作品かと思いました。全体的にオレンジ
がかった叙情的な光景で、風景そのものが主題となった感じです。
この隣には対になる日の出の港を描いた作品もありました。解説
によると、この作者はイタリアに20年滞在したそうで、その影響が
この作品に出ているそうです。穏やかな夕暮れの光が画面全体
を包み込んでいますね。

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ジャン=バティスト ・ マルタン 「ナミュール包囲戦」 1692年  (左)
こちらはナポレオンの妻が所有していたという作品で、ルイ14世の
頃の戦いを描いたものです。川の対岸の丘にある砦を攻めている
様子が描かれています。煙が立ち上り、手前には兵士たちの姿も
あり、恐らくもう勝った後なんじゃないかなと思います。解説による
と、この作者は 「戦いのマルタン」 と呼ばれたそうで、こうした戦争
物を得意としたようです。主題としては歴史画ですが、遠近感が
しっかりした風景画としても見事な作品でした。

ニコラ ・ ランクレ 「森のはずれの集い」 1720年代後半  (右)
こちらは、きらびやかな衣服を身にまとった貴族の男女が戯れる
場面。ギターを持って横たわる赤い服の男と、帽子の女に抱きつ
こうとして拒否されている青い服の男、さらにそれを観ている数人
の人物の姿が描かれています。彼らが繰り広げる恋のやりとりを
想像させてくれます。滑稽な場面が面白いのでそこに目を奪われ
ますが、背景に注目すると野山が広がっていて雲に霞む様子や
廃墟など巧みな表現で雄大な景色となっていました。これもまだ
まだ風景は脇役といった感じです。風景抜きでも面白いし作品。

第2章  自然への賛美
続いては自然の風景を描いたコーナーです。19世紀は市民の時
代となり、彼らは神話などではなく何気ない日常や現実と結びつい
た光景を志向したようです。ここには19 世紀前半から後半にかけ
ての作品が並んでいました。

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レオン=オーギュスタン・レルミット 「刈り入れをする人」 1892年 (左)
こちらはミレーから影響を受けた画家による、農村での麦の刈り入れ
風景を描いた作品です。2人の女性が後ろ姿で描かれ、1人は藁束
を持ち、もう1人は屈んでいます。割と大胆な筆致で描いているので
すが、不思議と藁の質感が出ているのが面白いです。労働なので
大変な光景だとは思いますが、色合いの軽さが明るく感じ、背景が
広めなため開放的な印象も受けました。この画家はゴッホにも影響
を与えたのだとか。

ジャン=バティスト=カミーユ・コロー 「夕暮れ」 1860-70年 (右)
こちらは夕焼けを背景に立つ背の高い木々と、その下で2人の人物
が空を眺めている様子を描いた作品です。明暗が強く、暗い森のお
かげで夕日が輝いて見えます。細部はそれほど細かく描かれておら
ず、ぼんやりと柔らかい雰囲気となっていました。コローらしい叙情
的な作品です。

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ギュスターヴ ・ クールベ 「山の小屋」 1874年頃  
パリ ・ コミューンの際にヴァンドーム広場の記念柱を破壊した責任
を問われ、クールベはスイスへ亡命します。亡命中に描いた晩年
の傑作 《山の小屋》 です。クールベは、故郷を想いながらもスイス
で58歳の生涯を閉じることとなりますが、その3年前に描かれた作
品のようです。雪に覆われたアルプス山脈の頂を背景に、素朴な
山小屋の姿が描かれています。雄大な自然と共に、煙突の煙や
洗濯物などで、人の営みによる温もりも感じられます。粗目の筆
致が活かされた素晴らしい出来栄えの作品でした。

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様々な情景を舞台にした風景画は、その土地の匂いや太陽の煌
めき、風にそよぐ木々や街のさざめきも感じさせてくれます。画家
たちが、その豊かな想像力を駆使し、新縁がまぶしい季節に巨匠
たちが愛しい光と色彩が躍る美しい風景を廻る 「旅」 を楽しめる。

第3章  大都会パリの風景が
パリを描いた作品のコーナーです。ナポレオン3世の時代にオス
マン男爵によってパリは大改造されたわけですが、それ以外にも
パリ ・ コミューンや普仏戦争からの復興によって街は大きく変わ
った時代だったようです。ここには、そうした19世紀末から20世
紀初頭にかけてのパリの街を描いた作品が並んでいました。

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ジャン=フランソワ・ラファエリ 「サン=ミシェル大通り」 1890年代 (上)
街灯がともり始める夕暮れの通りを、多くの人や馬車が行き交う街
の様子を描いた作品です。奥に臨むドーム状の建物は、フランス
に貢献した偉人の墓所となっているパンテオンなそうです。さっき
まで雨が降っていたのか路面が湿っていて光が反射するような感
じです。建物や人は割と細かく描いてるのですが、地面はかなり
大胆な筆致となっていて、軽やかな印象を受けました。当時の賑
わいがそのまま現れたようなパリっぽさを感じる1枚でした。
アルベール ・ マルケ 「パリのサン=ミシェル橋」 1908年頃 (下左)
マルケはかつてマティスも暮らしたというサン=ミシェル河岸に移り
住んだようです。その部屋の窓から見下ろすように、少し高い視点
からサン=ミシェル橋の往来が描かれています。抑制された穏やか
な色調、巧みに単純化された形態で、詩情豊かにパリの街角が
表されています。落ち着いたトーンの色調と、対象物をデフォルメ
することによって生まれる味わい深さが感じられる作品ですが、
まるで、おもちゃの世界を見下ろしているかのような絵でした。
ピエール ・ カリエ=ベルーズ 「パリのピガール広場」
画面に描かれていない建物が、通りに影を落としています。右下
の街灯にはしごを架けて灯を入れるような様子も見えることから、
夕刻の往来でしょう。少し高い位置から俯瞰で捉えられた通りに
はカフェなどの店が並び、箒を持つ掃除屋、子供を連れた乳母
をはじめ、さまざまな人物が描かれています。ピガール広場を
歩いてみたい感じがします。 1880-90年代頃  (下右)

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        ピエール=オーギュスト ・ ルノワール
    「庭にて、ムーラン ・ ド ・ ラ ・ ギャレットの木陰」
 1876年
木陰で楽しげに語り合う男女を穏やかな姿で描かれています。
タイトルにある 「ムーラン ・ ド ・ ラ ・ ギャレット」 は、パリのモンマル
トルにあったダンスホール。背景の緑に溶け込むように、人々も自
然も優しく穏やかな筆の運びで表されており、彼らが幸せなひと時
を過ごしていることが伝わってきます。しかし、ルノワールにしては
陰影が濃く感じられて、日差しの強さまで伝わってくるようでした。
作品裏面の書き込みによると、後ろ姿の女性はルノワールのお気
に入りのモデルで、その後ろから顔をのぞかせているのは画家の
モネのようです。

第4章  パリ郊外 -身近な自然へのまなざし
この章は、パリ近郊の風景を描いた作品が並ぶコーナーです。
ここには印象派やフォーヴィスムの作品などが並んでいました。
今回のプーシキン美術館展で、最も注目されるのは、初来日となる
クロード ・ モネの 「草上の昼食」。エドゥアール ・ マネによって描か
れた同名の 「草上の昼食」 に刺激を受け、モネが描いたものです。

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アルフレッド ・ シスレー 「霜の降りる朝、ルーヴシエンヌ」 1873年 (左)
ルーヴシエンヌは、セーヌ川沿いの町なんだそうです。限られた色
彩で描かれる町並みと、画面の半分ほどを占める白ばむ空が、霜
の降りる冬の朝の凛とした空気を伝えてくれます。中央の道には、
朝のあいさつを交わすかのように歩みを止めた二人の人物が見
えます。こうした何気ない日常の描写に、画家の身近な風景に
対する温かなまなざしが垣間見えますね。

アンリ ・ マティス 「ブーローニュの森」  1902年  (右)
パリの西側に広がるブーローニュの森は、ルーヴル美術館から
ほど近い場所にあるようです。マティスは、森の小道の写実的な
描写よりも、彼自身が感じた印象を表そうとしているようです。
木々は現実に見える色彩を保ちながらも、形態はやや単純化
され陽光は幅の広い筆触で大胆に小道に差し込んでいます。
これもマティスの絵なんだぁ~、と単純に思いました。

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       クロード ・ モネ 「白い睡蓮」  1899年
モネは自宅に隣接した土地を新たに購入し、庭に自らの理想の
風景を造り上げていきました。そのモネがつくりあげた 「水の庭」。
光の反映によって表情を変える水面と岸辺の風景が、緑色を中心
としたみずみずしい色彩で表されています。モネの凄いところは、
筆の流れる方向で素材を描き分けているところです。縦の線は柳、
横の線は睡蓮の葉っぱ、みたいな感じです。ザザザッと時間をか
けずに描くために、モネが編み出した手法なんじゃないかな。とに
かく離れると写真っぽくて、近くで見ると絵みたいな感じです。(笑)
モネは太鼓橋の架かる睡蓮の池をモチーフに、「睡蓮」 を繰り
返し描きますが、この作品は最初期の1点のようでです。

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クロード ・ モネ 「草上の昼食」  1866年  日本初公開
初来日となるモネの 《草上の昼食》 は、登場人物と自然の風景が
見事に調和しています。印象派の誕生前夜、26歳となる若きモネ
の魅力溢れる作品です。特に銀杏の木の木漏れ日のタッチがモネ
の魅力があふれている感じがします。ただ、人物の描写はやや固
い印象で、画面中央の右側の女性なんか顔面蒼白です。何か悪
い食べ物に当たったのか、と心配になるレベルでした。(笑) 総じ
て、モネは人物を描くのが苦手なのかな・・・・と。風景の描写は、
ピカイチなのにね。もしかしたら、この絵をきっかけに、「・・う~ん。
俺は風景画で行こう」 と、若き日のモネは思ったのかもしれません。

絵画の世界に衝撃を与えたマネの同名の作品 「草上の昼食」 に
影響を受け、描いたといわれます。サロンに出展しようと挑みます
が、この大作は未完成に終わり、大作の最終下絵として、下絵に
後々手を加えて、最終的に一つの作品として完成させたものだと
思われるようです。木々の下でドレスやスーツを着た男女がピク
ニックのように昼食を並べている様子が描かれ、後の妻となる
カミーユや友人のバジールなどがモデルとして描かれています。

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解説にもありましたが、青春真っ只中のモネが描く 「草上の昼食」。
愉悦に満ちたピクニックの情景。魅力がいっぱい詰まっています。
男女のなごやかな集いを見ていると、モデルは誰なのか。親密な
会話で何を語られているのやら。横たわる男性の足の長いこと。
右端に離れて座り、宴を伺う謎の姿。(左) そして、大木の幹に
彫り込まれたPのイニシャルと矢で打ち射られたハートのマーク
は、誰かの恋愛をほのめかしているのか。(左) この絵には一
見しただけでは不明瞭なモチーフが、さりげなく散りばめられて
いるのです。謎めいたサインは何を意味するのか、推理する
のも楽しい。モネの若さが感じられる一枚の絵でした。

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さあ、旅へ出掛けよう、風景画の旅へ。旅はこわばった感覚をとぎ
ほぐし、私たちの心を異世界へと誘ってくれます。絵画を通して、
まずはフランス憧れの南仏へ、。ルノワールの描くムーラン ・ ド ・
ラ ・ ギャレットは、絵の舞台。モネが住んだジヴェルニーの村だ。
ゴーギャンのタヒチ、ルソーの熱帯にのみ込まれるのもよし、絵を
楽しみながら、絵の中を旅することもありかなと思います。

第5章   南へ -新たな光と風景
フランス中部から南部にかけての風景を集めたコーナーです。
南仏に降り注ぐまばゆい陽光と、中部の渓谷に広がる多様な地形
は、画家たちを魅了したようです。その土地固有の景色に刺激を
受けながら、個性あふれる作品が並んでいました。セザンヌは
故郷の山を題材に・・・・。

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アルマン ・ ギヨマン 「廃墟のある風景」  1897年  (左)
ギヨマンは、クルーズ川流域の小村クロザンで、丘陵と城の廃墟の
織り成す風景を描くようになりました。高低差のある地形と谷の間を
流れる川の水面は、さまざまな光と陰をつくり出します。ギヨマンは、
この谷間からの景色を好み、繰り返し描いたようです。豊かな色彩
が装飾的な画面を生み出していて、この絵、いいなぁと思いました。

アンドレ ・ ドラン 「港に並ぶヨット」 1905年  (右)
こちらは水辺に並ぶ沢山のヨットを描いたもので、水面などは横に
粗く引いた線で表現されています。色は原色が多く使われ強烈な
印象でしたす。解説によると、これは1905年のサロン・ドートンヌ
に出品したもので、この展示の評論か ら「フォーヴィスム(野獣派)」
と呼ばれるようになったので記念すべき作品のひとつようです。
筆致は荒々しいですが、ヨットがリズミカルに並ぶ様子が軽やか
に感じられました。白い帆や水面が、まばゆい日差しをいっそう
感じさせます。新しい表現方法なんですね。

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ポール ・ セザンヌ     1905-06年
「サント=ヴィクトワール山、レ ・ ローヴからの眺め」 
セザンヌは、故郷の南仏エクサンプロヴァンスから見えるサント=
ヴィクトワール山を描いた絵を、生涯で30点以上も残してます。
細かい色面を重ねたような粗目のタッチで描かれ、木々はもはや
何だか分からない位に大胆です。(笑) 後のキュビスムの画家達
はセザンヌを高く評価しましたが、むしろこの作品そのものがキュ
ビスム的な要素が多々含まれていました。初期と最晩年に近い
年に描いたサント=ヴィクトワール山の作品が展示されていて、
丁寧に着彩した様子が伺える初期作品と、まるでモザイク画の
ような色面が重なる後期の作品を比較しながら見られて、非常
に嬉しい趣向でした。

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旅の最後は、現実から空想の世界へ。「馬を襲うジャガー」 は、
生涯一度もフランスを出なかったルソーの作品です。異国の動植
物への関心が高まった当時、はく製や草花を見て描いたという。
時空を越えた風景画の数々。人の心に刺さるのはどれだろうか。

第6章   海を渡って ・ 想像の世界
最後はフランス国外や異国に憧れて描いた作品のコーナーでした。
万国博覧会が開かれ、新聞や出版が発達し、国外の情報に手が届く
ようなり、異国への憧れが膨らんでいったのでしょう。画家たちの豊か
な想像力によって風景画はさらなる可能性を広げます。

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   ポール ・ ゴーギャン 「マタモエ、孔雀のいる風景」 1892年
ゴーギャンは、異国的なモチーフを散りばめ、鮮やかな色彩と共
にタヒチの姿を色彩豊かに描き出しました。タヒチの野山と、そこ
にテントのような家を建てて暮らす人々を描いた作品で、手前に
は孔雀の姿もあります。焚き火をして半裸で斧を振る人の様子が
描かれるなど、野性的な雰囲気となっています。 深い緑や赤や
黄色の大地など、お互いに引き立て合う色が響き合うように使わ
れていて目に鮮やかです。 「マタモエ」 というタイトルにもなって
いるのはい現地の言葉で 「死」 を意味するようで、文明人として
の自己が死に、野生の人へと生まれ変わったという心境を描い
ているのではないかとのことでした。

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アンリ ・ ルソー 「馬を襲うジャガー」  1910年
今回のポスターになった作品で、ジャングルの中で白い馬がジャ
ガーに襲われて喉笛を噛まれている様子が描かれています。しか
し、襲われている割にはのほほんとした顔で、ジャガーも抱きつい
ているような感じがします。周りの木々は何の木か分からないうね
うねした葉っぱとなっているなど、ルソーならではの不思議な世界
が広がっています。解説によると、これらの木々は実際に見た光
景ではなく、パリの植物園や動物園に足しげなく通い、珍しい草
花や剥製を見て描いたという。のっぺりとしたジャガーにきょとん
とした馬、現実感が薄い奇妙な植物、自らの心象風景を濃密に
重ねて描いたんでしょうね。ルソーらしいといえばルソーらしい。

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会場を出ると記念撮影のコーナーもありました。最近、こういう感じ
で設置するコーナーが流行っていますね。(笑) 皆さん記念撮影
をして楽しんでいました。グッツコーナーもありましたが、フ~ンと
何時ものように素通りです。

マネではなく、モネの 「草上の昼食」 がメインビジュアルとなって
いるので、印象派展のように思えてしまいますが、いやいや中々
どうして見応えのある美術展でした。扱っている作品の幅が風景
画と言えども広くて驚きました。「旅」 とは往々にして予定外の出
来事が起こるもの。思わぬ作品が目の前に現れ 「あっ!」 と声
を出してしまう作品もあり、プーシキン美術館すごいぞ・・・・と。

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プーシキン美術館展での奥行きある額縁、立体感が一気に出て
壁に掛けた絵を見てるのでなく窓から広大な風景を眺めてる感じ
ですごく良かったです。夕暮れの街の灯りのあたたかさ、緑の中
きらきらした木漏れ日とか、うっとりした贅沢にモネもルソーもゴー
ギャンも観られました。 やっぱり絵画は心を癒し、気持ちを揺さ
ぶらせます。 特に東京都美術館は展示品のすべてが解説付き
なので、素通りすることなく、じっくりと鑑賞出来て嬉しいです。
美術鑑賞は秋ばかりではありませんでした。





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「笑顔の力」

...2018/07/01 08:21...

七月 (文月) です。
文月は、短冊に歌や字を書き、書道の上達を祈った
七夕の行事に因み、「文披月 (ふみひらきづき)」
が転じたとされる。いわゆる字の上達を願う月だ。

さて、今週末は七夕の日だ。
天の川に隔てられた織姫と彦星が、年に一度だけ会う
事が出来るという七夕。会いたくても、会えない ・・・・・・。
色々な通信手段の発達した現代では、なかなか想像しが
たい事ではありますが、永遠に語り継がれていく、
この恋物語に一抹の切なさとロマンを感じます。

大切な人の存在を、そしてその人への想いを、
初心に返って今一度振り返る・・・・。七夕は、そんな
一日として相応しいのではないでしょうか?

東京の眩しい夜景の中でも、また天気がイマイチな時
でも、東京の夜空に天の川は見えないけれど・・・・・。
この空間では、確かに美しい天の川が流れている。

その天の川の一つ一つの光の粒が、太陽みたいな
星であること、そして、この宇宙にはそのような銀河が
たくさんたくさんあること。そんなことを想像すると、
宇宙は一体どれくらい大きいんだろうっと考える。
恋と夢と希望を・・・・・七夕の夜空で見つけてみたい。

星の夜に 誰そや小川を 渡る音    正岡子規

昨日は知人と飲み歩き、帰りが遅くなりほぼ終電の時刻。
駅に着いたら、終電が出てしまった後でした。ああぁ~、
あの時、もう一軒と言わなきゃよかったなぁ~。
タクシーで帰ってきたが、何故かかみさんが玄関で仁王立ち。
二日酔いは辛い、明日から静かに頑張ろう!


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「笑顔の力」

「笑い」って不思議だ。
笑ったからお腹がふくれるわけでもない。
笑ったから何かが解決するわけでもない。
けれど、笑い声を聞いていると、こちらまで
気持ちが良くなってくる。

逆に嫌なことがあったり、何か悩みごとを抱えて
いるときは笑うどころか笑顔にすらなれない。
そんな時、鏡に映る自分の顔は、最悪の表情である。
よけいに落ち込み疲れが倍増する。生きている限り、
ストレスや悩みは尽きない。様々な問題が押し寄せて
きて、悩みが次々と重なり元気が出ないときもある。

そんなときほど、無理にでも口角を上げて笑うように
している。辛い時ほど、鏡の前で笑顔をつくると、
気持ちがふっと軽くなるから不思議だ。
先日、学生時代の仲間で飲み会があった。
気心が知れているから何でも話し合える。
笑顔の絶えない彼女の姿にみんなが癒された。
そこで笑顔になれる話を聞いた。

悲しい時に悲しい顔をしたら、ますます暗くなるだけ。
暗い顔をしていたら、どんどん負のスパイラルに
巻き込まれてしまう。つらくても明るくふるまっていたら、
きっと楽しいことや幸福もやってくる。
鏡の前で笑顔をつくり、まずは家に閉じこもらずに
出掛ける。コンビニやお店などに行って、レジの人と
言葉を交わしたり、行き交う人に軽く解釈したりして、
笑顔になる機会を少しずつ増やすようにしている。

そうしているうちに、だんだんと気持ちが上向きになって
きて、自分も相手も笑顔になってその場の雰囲気が和み、
元気も湧いてくる。笑って楽しい気分になると、
それが周りにも伝わり人間関係もだんだん穏やかになってくる。
やり直しができない、泣いても笑っても一度限りの人生。
いつも笑顔を忘れず、悲しみやコンプレックスは外へ
出さずにのみ込んで過ごすように心しているという。

専門家によると、笑っていると免疫力が上がるとも言われる。
確かに、ここ数年以上、風邪もひかないし、インフルエンザ
にもかかったこともないようだ。「笑いは最強、笑顔は健康
のバロメーター」。そう思えてならない。

この笑いと笑顔のために欠かせないのが鏡だという。
鏡は自分の身ごなしが望ましい姿かどうかを映し見る
ためにも、大切なもののようだ。どんな時でも、
まぎれもない自分をしっかりと映してくれる。
思うに、お互いの心も、自分を映すという点では
鏡によく似ている。他人に誠実でありたいと望むなら、
常に自分を省みる努力が求められよう。
その試みのためにも、相対する人のふるまいを
わが姿見として、自らを律したいものです。

礼節を尽くせば、礼節を尽くされる。
まさに、鏡そのものなんですね。
暮らしの中に笑顔を絶やさずに、
心を寄せ合って生きたいものです。

Peace begins with a smile.
(平和は微笑みから始まる)  マザー ・ テレサ


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   「東京の銅像」 2018

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銅像が実は都内にたくさんあります。先日、写真を整理していたら、
沢山の銅像があったので、今回はいくつか紹介してみます。近代
的な銅像の文化は、明治維新後の西洋文化流入とともに日本に
もたらされました。東京には、日本初の西洋式銅像を筆頭に数多
くの銅像があり、過ぎし時代や人々の偉業を寡黙のうちに伝えて
います。文化施設や公園を歩いてみると、様々な銅像があるこ と
に気づきます。普段は見逃してしまいそうな銅像を紹介します。
「銅像編」 という感じでしょうか。そこには歴史があり、その人の
歴史もります。

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「西郷隆盛像」   (東京都台東区上野公園 )
東京で銅像といえば、誰もがまず思い浮かぶのが、上野恩賜公園
の西郷隆盛像。上野のお山の西郷さん、と呼ばれて親しまれてい
る銅像です。犬を連れ、浴衣姿で兎狩りに興じている姿。都民に
愛されただけでなく、地方から訪れる観光客にも人気でしたが、
関東大震災に際しては、尋ね人の張り紙掲示板の役割も務めた。
というわけで、あることは知っていても、普段なかなか気にする
ことのない銅像。特に “歴史” にかかわった人々の銅像を、
この機会に改めて見直してみましょう。

「西郷隆盛」   薩摩藩出身。維新3傑にも列挙されている幕末
・維新の主人公。薩長同盟、江戸無血開城など幕末の名場面を
常に彩ってきた。明治維新後は、「征韓論」 を唱え、盟友 ・ 大久
保利通らと対立し、政治的に敗北し鹿児島に下野。西郷自身は、
政府と対立する気はなかったが、不平不満分子の旗頭に祭り上
げられ、心ならずも 「西南戦争」 を勃発させる。が、敗北し自刃
します。当時から人望があり、強烈なカリスマ性を備えた人物で、
明治天皇にも愛されていたという。死後、その国民的人気により
国賊の汚名を拭われ、上野公園に銅像が建てられることになる。

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「徳川家康公像」  (東京都墨田区横綱1-4-1)
銅像は、江戸東京博物館の傍ら、北側の散歩道に建っています。
現在の東京の礎を築いたのは、徳川家康と言っても過言ではあり
ません。しかし、都内で家康公を仰ぐ銅像は,意外にもこの一体の
みと言われます。江戸東京博物館の開館を記念して、江戸消防記
念会から寄贈された。台座には、亀に似た贔屓 (ひき) で、重き荷
を背負うのを好むといわれます。ちなみに亀の姿は、河川が走る
江戸の町に因んで 「水の神」 ともいわれる亀の存在をかけたもの
ともいわれます。その上に幕府の将軍職が15代続いたことに因
んだ15段の台座を設えています、鷹狩り装束の徳川家康の左手
には、家康が好んだという鷹狩りに用いた鷹が留っているという
凝った意匠の像です。ただ家康公の顔が大黒様の感じです。(笑)

徳川家康  「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし」
後世に 「狸」 呼ばわりされるなど、権謀術数の限りを尽くした悪役
のイメージが作られた家康ですが、徳川家の祖にして徳川家初の
征夷大将軍であり、江戸に幕府を開いた歴史の偉人として有名
な戦国武将です。

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「太田 道灌像」  (東京都千代田区丸の内三丁目5番1号)
銅像は、丸の内の東京国際フォーラム内の展示場入り口に設置さ
れている立像。東京の開都500年を記念し、昭和31年 (1956)
に完成。完成当時、丸の内にあった東京都庁第1庁舎正面に置か
れました。後に都庁は新宿に移転しましたが、像は跡地に建設さ
れた東京国際フォーラムに置かれて現在に至っています。狩りの
装束姿を描いたもので、武人の威風の中に風雅の雰囲気を感じ
させます。

「太田 道灌」
文武に優れた武将であり、歌道に通じた風流人でもありました。
一方でかなりの自信家でもあったと言われ、多くの武勲や功績に
より主家の威勢を上回るほどの声望を得ますが、それが原因で
暗殺されてしまいます。その際に 「当家滅亡」 (自分が死ねば
支えを失った扇谷上杉家は滅亡するという意味) と叫んだと言
われ、その予言の通り、扇谷上杉氏は後北条氏の勢力拡大の
波に飲み込まれてしまいます。悲劇の武将としても名高い。

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「伊能忠敬銅像」  (東京都江東区富岡一丁目20番3号 )
銅像は、門前仲町の 「富岡八幡宮」 の境内、大鳥居脇にあります。
測量開始200年を記念し、平成13年 (2001) に完成。像は測量
旅行時の姿を模した立像で、背後には、日本の地形シルエットと
銅像建立の由来を刻んだ石板が置かれ、杖先方位盤を手に力強
く測量への第一歩を踏み出した姿です。富岡八幡宮は伊能忠敬と
縁が深く、当時は門前仲町に居住し、測量旅行出発に際しては、
富岡八幡宮に参拝して旅の無事を祈願していたそうです。銅像の
隣に国土地理院で新地球座標系による国家基準点 (三等三角点)
が設置されています。(上 ・ 左側)

「伊能忠敬」 といえば、日本各地を歩いて測量。17年かけて日本
の地図を作り上げた人として有名です。17年と言っても、決して
若い頃からではありません。何と55歳を過ぎてからです。学ぶこ
と数年、暦学上の必要から日本列島の実測に転じ測量を始める
ことになります。55歳から72歳までの間に、日本全土の測量と
共に日本地図を作るという大きな偉業をやり遂げました。非常に
過酷な体験を乗り越えながらが行なった測量でした。地球1周
分の距離を歩いたとされています。中高年に元気を与えてくれ
るお話ですね。伊能忠敬の姿に思いを馳せながら、この国の
地図をもう一度じっくり眺めてみませんか。

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「勝海舟像」  (東京都墨田区吾妻橋一丁目23番20号)
墨田区役所の裏側 「うるおい広場」 にあります。生誕地である本所
亀沢町に所縁の墨田区で銅像建立の機運が高まり、その偉業を後
世に伝えようという市民有志により、生誕180年を記念して2003年
に除幕されました。40 歳の姿といわれ、鋭く指した指先は、幕府と
新政府の対決を乗り切り、これから迎えようとする近代日本の行く
末を指示しているかのようです。高さ2.55メートルの大きい像です。

若い頃から剣術に親しみ、家督を継いだ後は蘭学を学びます。
幕府使節の一員とし て『咸臨丸』 で渡米し、帰国後は海軍操練所
を開設するなど、一貫して幕府海軍の近代化と人材育成に尽力し
ます。一方で土佐藩などからの脱藩者を私塾に受け入れ、広い視
野を持って世の中を見る事ができた、貴重な江戸幕府の家臣であ
り、坂本竜馬、西郷隆盛らを開眼させます。官軍参謀の西郷隆盛
と会談し、江戸を戦火から守ることに成功。晩年は赤坂氷川に住
み、明治32年、風呂上がりにブランデーを飲むと脳溢血で倒れ
て死去。最期の言葉は名言の 「コレデオシマイ」 であったという。

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「勝海舟 ・ 坂本龍馬師弟像」  (東京都港区赤坂6-6-14)
像は、勝海舟が亡くなるまで住んだ屋敷跡である港区立特別養護
老人ホーム 「サン・サン赤坂」 の敷地内。この場所は、かつて旧氷
川小学校でした。勝海舟像は座った姿で、坂本龍馬は立像です。
『師弟関係』 の大切さを現代の人々に伝えるため2016年に設置。
海外雄飛を目指した師弟の志を表現して、太平洋の向こうの米国
を望むように東向きに置かれているようです。

文久2年 (1862) に土佐藩を脱藩した坂本龍馬は、赤坂の海舟邸
を訪ねて心酔します。 姉の乙女宛ての手紙に 「勝先生の門人にな
り、ことの外かわいがられている」 とその喜びを書いた。一方の海舟
も 「なかなか鑑識のあるやつだよ」 と後年述懐し、龍馬の 「人や物
事を見る目」 を評価した。 坂本龍馬は薩長同盟と大政奉還に尽力
した後、1ヶ月後の慶応3 年 (1867 )、自ら描いた新しい日本の姿
を見ることなく、京都の近江屋において暗殺されます。短くも激しい
生き方は、今も世代を超えて多くの共感を集めています。

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「大村益次郎像」  (東京都千代田区九段北3丁目1番1号)
銅像は、靖国神社の参道中央に建立。日本最初の本格的な西洋
式銅像として明治26年完成。大村益次郎は、戊辰戦争の戦死者
を祀る東京招魂社建設に先立ち、自ら九段の現地視察を行い、
その建設に尽力したと言われます。靖国神社の創始者です。

大村益次郎は、蘭学医の出であるが、西洋の兵術などの才能を桂
小五郎に買われて軍隊の指揮を任される。 「戊辰戦争」では、その
手腕により新政府軍を勝利に導く。戊辰戦争後に、同郷の過激な
攘夷派の長州藩士に襲撃された傷が元で亡くなります。死の間際
に、「必ずや足利尊氏のごとき人物が九州より反逆の狼煙を上げる
だろう」 と予言。その予言は、明治10年に起こった西郷隆盛率いる
「西南戦争」 で現実のものとなります。今でも大村益次郎の銅像は、
「西南戦争」 の指導者・西郷隆盛の銅像が立っている上野方向を
睨み付けているというのです。なるほど、大村益次郎像は、異様に
高い台座の上に立っています。それは、丁度、上野山に建立され
ている西郷隆盛像の目線に合わせる様に建てられている
のかもしれませんね。面白いですね。

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「伊藤博文」  (東京都千代田区永田町1丁目7番1号) 
この銅像は国会議事堂参議院側の前庭にあります。参議院を見学
した時に、緑の木々の間から銅像が見えて、全体像を撮ろうと近寄
ろうとしたら、係りの方に注意され、結局この写真一枚のみです。
本体は5メートル、台座も含めると11メートルもあります。髭の表現
の細かさや服装、表情の緻密な描き方など、大きな像ならではの
見どころがあります。長州藩出身の伊藤博文はもともとは農民です。
下級武士となった博文は、吉田松陰の松下村塾に入門しました。
ですから、高杉晋作は先輩になります。のちに明治新政府で重
要な仕事をまかされ、日本で最初の総理大臣になっています。
新しい日本の政治を進めるためには憲法が必要です。この憲法
を作るためにリーダーシップを取ったのが伊藤博文です。

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「乃木希典大将と辻占売少年像」 (東京都港区赤坂8-11-32 )
銅像は、赤坂の乃木邸 (乃木神社内) にあります。昭和43年に
長府藩邸跡のニッカ池 (六本木ヒルズの建築と周辺地域の整備
に伴い、現在は毛利庭園内の池の下にある) に建立され、後に
現在の場所に移築されました。これは陸軍少将時代の明治28年、
金沢を訪れた乃木が、出会った辻占売りの少年が一家の生計を
支えていることを知って感銘を受け、当時大金だった二円を渡す。
少年はこの恩を忘れることなく、努力を重ね、金箔業の世界で
大きな実績を積み重ね大成したというエピソードを描いたもの。
乃木希典の人となりを伝えるものとして造立されました。

乃木希典は、長州支藩である長府藩藩士の子として現在の六本
木にあった藩邸内で誕生。長じて長府藩報国隊に入隊し、以後
軍人としての人生を歩みつづけました。西南戦争では歩兵連隊
長心得として部隊を率いるものの、撤退の渦中で連隊旗を奪わ
れるという失態を演じます。これを恥じた乃木希典は、自ら死を
求めるがごとき戦いぶりを見せ、自決さえしようとします。これが
かえって 「武人の潔さ」 として評価されますが、乃木自身は失
態の清算を忘れることはなく、大正元年 (1912)、崩御した明治
天皇に殉死する形で自らを処することになります。明治天皇は
絶対の信頼を示したといわれており、少なくとも当時最も信頼
された陸軍指揮官の一人でした。日露戦争の陸軍大将。

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「福沢諭吉像」  (東京都港区三田二丁目15番45号)
慶應義塾大学 ・ 三田キャンパス構内の旧図書館入口脇に胸像が
あります。1万円札でお馴染みの福沢諭吉ですが、こちらの銅像も
お馴染みのお顔をされています。本来は図書館旧館前にあるので
すが、現在は工事中のため一時、演説館前へ移転してるそうです。
歴史と風格を感じさせる建物の前で鎮座されていて、慶應義塾の
誇りを感じます。

言わずと知れた慶應義塾大学の創設者で、明治維新後の 「文明
開化」 の指導者として近代文明の発展に大きな影響を与えました。
その思想をまとめた 『学問のすゝめ』 で有名な教育者として知られ
ています。他にも日本に銀行や保険を初めて導入し、金融業界に
大きな変化をもたらしましたね。当時としては珍しく海外に出向き、
その文化を日本に持ち帰った人でもあります。福沢諭吉がいなか
ったら、現代の我々も常に “和服” で、屋根も瓦のままだったの
かもしれませんね。(笑) 福沢諭吉がもっとも活躍した時期は、
江戸の末期から明治維新のころ。偉大な成果を残しました。

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この慶應義塾図書館 (旧館) は、義塾創立50周年を記念し明治
45年 (1912) に竣工され、重要文化財に指定されています。
図書館2 階に上がる階段の踊り場には、色鮮やかなステンドグラ
スに建学の精神 「Calamvs Gladio Fortior (ペンは剣よりも強し)」
が書かれ大学のシンボルの一つです。

「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」
はい、誰の言葉でしょう。・・・・・、さすがに聞いたことありますよね。
福沢諭吉です。このフレーズは 「学問のすすめ」 の書き出しの言
葉なんです。この本、やはり内容がすごい。例えばこんな言葉が。

「自分自身の有様を明らかにして、知性 ・ 徳 ・ 仕事の棚卸し
(整理) をせよ。」 「青年の学生が、学問も未熟なうちに役人になる
ことを望んで一生その地位にいるのは、仕立て途中の服を質屋に
入れてしまうようなものである。」 「地理や歴史の基本も知らず、
日常の手紙すら書けないのに、むやみに難しい本を読もうとして
挫折し、また次の本にうつるのは、元手もないのに商売を始めて、
日ごとに職種を変えるようなもの。」 「その原因は何か。それは
ただ流れに任せて生きているだけで、自分自身の有様を反省
したことがないからだ。『生まれてから自分は何をしてきたか。
いま何をしているか。これから何をするべきか』 と、
自分の点検をしなかったからだ。」

これ、ガッツンきました。ちょうど自分の進路に悩んでいるときに
この一節を読んだんですね。「ああ、これ、俺だ」 と衝撃を受け
ました。自分の実力もわからずに、現状を嘆いても仕方ない。
まずは自分自身を見つめなおし、そして高める努力をしなけ
れば、何事も永続することはできない。まず自分自身を変えろ。
環境じゃない、自分だ・・・・と。こういった人生において大きな
示唆を与えてくれる言葉がたくさん詰まっているんですよね。
明治という文明の開化期に庶民が愛読した気持ちが、
わかるような気がします。

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「大隈重信」  (東京都新宿区戸塚町一丁目104番地)
銅像は、新宿区早稲田の早稲田大学構内にあるガウン姿の立像が
有名です。この像は昭和7年 (1932) に早稲田大学創設50周年
と大隈重信没後10周忌の節目として建立されたもので、実は構内
の銅像としては二代目なそうです。杖をついている姿が印象的な
像ですが、これは暴漢に襲われ、爆発物を投げつけられたことが
原因で右足を切断していたためです。固く結ばれた口元や彫りの
深い表情など、人物像として見応えがあります。角帽とガウンを
身に付けた姿は、早稲田入学を目指す多くの学生の憧れです。

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大隈重信は、明治から大正にかけて活躍した思想家 ・ 政治家 ・
教育者であり、教育の近代化にも大きな足跡を残した偉人です。
明治15年 (1882) に 「学門の独立」 の精神を基として東京郊外
(当時) だった早稲田に東京専門学校 (現 ・ 早稲田大学) を開
設した創設者であり、初代総長です。政府の求めに応じて外務大
臣として政界に復帰。後に総理大臣 (第8代、第17代) となります。
大隈重信が世を去ったのは、政界引退から6年後のこと。日比谷
公園で 「国民葬」 が催され約30万人の市民が参列したという。

政治家嫌いの福澤諭吉とは、度々雑誌での論戦に暮れていた。
福沢は大隈のことを 「生意気な政治家」 と、大隈は福沢を 「お高
くとまっている学者」 と言ってお互いに会うことを避けていたそうだ。
そんな二人を周囲は犬猿の仲だと言っていた。ある日、雑誌の編
集部が大隈と福沢を会わせてみようと本人達に内緒で酒宴の席
を設けた。いったいどうなるかと周囲は面白がっていたが、直接
相対した両者は、酒が通ると意気投合し、大隈が 「福澤先生は
うらやましいですね。未来ある若者に囲まれておいでだ」 と言う
と、福澤が 「あなたも学校をおやりになったらどうです?」 と持ち
かけられ、早稲田大学を作ったという話が伝わっています。

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「吉田茂像」  (東京都千代田区北の丸公園1-1)
銅像は、北の丸公園中央通りから清水門に抜ける芝生地の一角に
あり、芝生の中にまるで本人がたたずんでいるような雰囲気で建っ
ています。その風貌とコート姿、葉巻好きであったことから 「和製チ
ャーチル」 とも呼ばれたというエピソードも 「なるほど」 と思わせる
立像です。生誕100周年を記念し、昭和56年 (1981) に建立さ
れました。杖をついた大柄な体格と丸眼鏡をかけた顔は、歴史の
教科書等で見た姿を思い出します。

吉田茂氏と言えば、元内閣総理大臣で戦後は日本の復興と外交
復帰に力を入れ、サンフランシスコ講和条約の締結などを行い、
持ち前の行動力で日本の政治 ・ 外交を牽引しました。大磯に自
宅があった吉田は、戸塚の大踏切の渋滞に業を煮やして、自分
のためにバイパスを造らせてしまったとか。そんな我儘さから 「ワ
ンマン宰相」 とも呼ばれていました。内閣不信任案を受けての
衆院解散 (いわゆる 「バカヤロー解散」) が有名ですね。戦後
で内閣総理大臣を一旦退任した後で再登板した例は吉田茂と
安倍晋三の2人のみだそうです。

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「尾崎行雄像」  (東京都千代田区永田町1-1-1)
国会議事堂前の敷地内にある憲政記念館は、元々尾崎行雄の功
績を称えて尾崎記念館が建てられもので、これを吸収して憲政記
念館が開館しました。(下右) 玄関ホールのエントランス前には、
尾崎行雄像と碑が建てられており、碑には、「人生の本舞台は常
に将来に在り」 と刻まれています。「現在なしていることは、すべ
て将来に備えてのことである」 という意味でしょうか。

大隈重信の立憲改進党に参加し、明治20年 (1857) の第1回
衆議院議員選挙に当選、以後25回連続当選し、日本の議会政
治の黎明期から戦後に至るまで衆議院議員を務め、当選回数 ・
議員勤続年数 ・ 最高齢議員と複数の日本記録を有し、犬養毅
らとともに憲法を基にした議会政治を実現しようとする護憲運動
を進めたことから 「憲政の神様」 「議会政治の父」 と呼ばれる。
あのバカヤロー解散による総選挙で初めて落選し、政界を引退
します。その間に文相、東京市長、司法相などを歴任。東京市
長在任中にアメリカへ桜をを贈りました。現在も見事な美しさで
ポトマック河畔の春を彩っています。毎年、桜祭りが行われる。

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「ハチ公と上野英三郎博士像」 (上) (東京都文京区弥生1-1-1)
東京大学弥生キャンパスの農学部の正門を入った直ぐの左手に
あります。カバンを置いた上野博士に飛びつく嬉しそうなハチ公の
姿が、強い絆で結ばれていたことが窺え、この像を見ていると博士
が亡くなった後10 年もの間、朝夕渋谷駅に通い博士の姿を探し
求めたことが分かる気がしますね。誰もが望む理想の結末。思わ
ずホロッとする。「良かったね、ハチ!」 と言いたくなるような素敵
な像です。ハチ公没後80年目の2015年除幕式がありました。
ハチ公の飼い主は、日本の農業土木学の創始者 ・ 東京大学農
学部の上野英三郎博士です。農学部正門入って右側 「農学資
料館」 には上野博士の胸像、ハチ公の臓器も展示してあります。

「ジョサイア ・ コンドル博士像」 (下) (文京区本郷七丁目3番1号 )
銅像は、没後2年の大正11年 (1922) に、長年の功績を称えて
東京大学構内の広場に、銅像では比較的数が少ない台座付きの
立像になっています。また台座には2体の邪鬼も描かれています。
ロンドン大学などで建築学を学んだのち、イギリスの名建築家に
因んだソーン賞を受賞したことをきっかけに、日本政府の招きを
受けて明治10年 (1877) に来日しました。有名な鹿鳴館、ニコ
ライ堂や三菱財閥の岩崎久弥本邸等、重要文化財になっている
建築物を数多く手がけました。また創成期の日本人建築家を育
成し、明治以後の日本建築界の基礎を築きました。

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「チャニング ・ ムーア ・ ウィリアムス主教像」 (上)  
(東京都豊島区西池袋3-34ー1 )
立教大学 ・ 池袋キャンパスのチャペル会館西側にあります。立教
大学の創立者で 「キリスト教に基く教育」 を理想としたチャニング
・ ムーア ・ ウィリアムス師を偲び、同師の偉大な功績を讃え、この
理想を永く学ぶ者に植えつけたいと希う長年の念願が漸くかない、
立教のシンボルとして建立。今から51年前の昭和42年ことです。
彼のポケットには金平糖が入っており、それをことあるごとに子供
たちに配って喜ばせた。この逸話に由来し、金平糖を取り出す際
の仕草として片手をポケットに入れた姿になっているようです。

「高村光雲像」 (下) (東京都台東区上野公園12番8号)
東京藝術大学の美術学部の建物の周辺や木立の中に、歴代教授
等の胸像が多数置かれています。その一つが 「高村光雲像」 です。 
幕末明治の動乱期を生きた代表的な木彫家で、岡倉天心に彫刻
科の教授への就任を依頼され、藝大教授として多くの後進を育成。
西洋彫刻の写実性を取り入れ、日本の近代彫刻の礎を築く。彫刻
・ 詩人の高村光太郎の父親でもある。代表的な作品は、上野公園
のシンボルでもある 「西郷隆盛像」 や皇居前広場に建立された
「楠木正成像」 等。西郷さんの銅像は、この方が造ったんですね。

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「夏目漱石像」  (東京都新宿区早稲田南町7)
銅像は、地下鉄東西線 「早稲田」 駅から10分ほど歩いた 「新宿
区立漱石公園」 の入り口にあります。漱石が亡くなるまで過ごした
「漱石山房」 跡地に、その偉大な文豪を称え漱石の胸像を建立。
台座には漱石自筆の俳句も刻まれています。ここで漱石は、「三
四郎」 「それから」 「こころ」 といった代表作を執筆しました。現在、
公園の一部が 「新宿区立漱石山房記念館」 になっています。

明治時代から大正初期にかけて活躍した小説家・英文学者です。
東京帝国大学・英文科を卒業後、教員生活を経てイギリスへ留学。
帰国後は東京帝大講師を務めるかたわら、本格的な執筆活動を
開始しました。『我輩は猫である』 で注目を集め、以後 『坊ちゃん』
『三四郎』 など、現在もなお愛される小説の数々を執筆。

「秋立つや 一巻の書の 読み残し」 夏目漱石 (大正5年)

夏目漱石が芥川龍之介への手紙に添えられた句です。
若者へ後事を託す句とも読めます。 
この年の末、夏目漱石は没する。

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「寅さん像と見送るさくら像」 (東京都葛飾区柴又四丁目8-14)
渥美清さんが主演した映画 『男はつらいよ』 でお馴染み。「わたく
し生まれも育ちも葛飾柴又でございます」 と啖呵を切る。ここは寅
さんの故郷、東京都葛飾区の柴又。京成金町線の柴又駅改札口
を出ると駅前広場があります。平成11年に完成した 「旅に出る時、
さくらの方を振り返ったシーン」 をモチーフとした寅さんの銅像が
立っていました。(下左) 時が流れて・・・・・、寅さんが旅立つ前に
振り返る視線の先に 「見送るさくら」 像が出来ていました。(下右)
平成27年3月に、寅さん像のそばに寅さんの妹さくらの像も完成。
旅に出発する寅さんを、エプロン姿で見送る妹さくらというのがコ
ンセプトだそうです。(上) 映画 「男はつらいよ」 で、さくらの 「お
兄ちゃん 」 の呼びかけに、振り向く車寅次郎が思い出されます。

家族と喧嘩をしたり、マドンナに振られたりして、やるせない思い、
寂しさを抱えて柴又駅から旅立つことが多かった寅さん。けれど、
寅さんは本当に孤独だったのか? というと、決してそうではなか
ったと思うのです。なぜならば、妹のさくらがいたから。いつでも兄
を案じて帰りを待ち、そして、旅に出る兄を送り出していたさくら。
この優しい妹との絆こそが、寅さんを真の孤独から守っていたに
違いありません。だから、寅さんは、長い旅を終えた後、いつも
さくらがいる柴又へ帰ってきたのでしょう。家族っていいね~。
「お兄ちゃん、いつ帰ってくるの、今度?」。今もきっと日本の
どこかを旅している寅さん。故郷の柴又で、さくらさんが帰り
を待っていますよ!

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ところで銅像、特に人物像にはモデルとなった人物の人柄や業績
などを広く伝え、後世に残していくという役割があります。作られた
時代を象徴し、時には国家の歴史や威信、思想といったものを必
然的に背負わされていることもあるわけです。銅像を見ることは、
モデルとなった人物を通して、日本の歴史を透かし見る手がかり
になるかも知れませんね。

慶應義塾大学のシンボルともいえる図書館旧館。(下左)
この赤煉瓦の建物の外壁には大きな時計が据えられています。
(下右) その文字盤の数字の部分には 「TEMPUS FUGIT」 とい
う11文字が刻まれ、12 時にあたるところには砂時計がデザイン
されている。文字はラテン語で 「時は過ぎゆく」、すなわち 「光陰
矢のごとし」 という意味です。砂時計の砂が流れ落ちるように瞬く
間に時は過ぎてしまう若き日々を悔いなく生きようと語りかけて
いるのです。建物にしても様々な事を学ぶことができます。
【光陰矢の如し】 でも、まだまだ賞味期限は過ぎていません。(笑)
幾つになっても 「学ぶ」 ことを忘れないでいたいものです。





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西郷どん 「愛の物語」

...2018/06/24 16:12...

日本チーム、勝利、おめでとう!
サッカー ・ ワールドカップの日本チームの初戦、
日本対コロンビア戦。絶対に、熱狂的なサッカー
ファンではない私ですが、それでもやはりこの結果
は嬉しいです。きっと、サッカーファンも、私同様に
この期間は、にわかサッカーファンとなっている大勢
の日本の方々も、ここは素直に喜んでおきましょう。
ただ、次の相手、セネガルが調子よさそうなのが・・・・、
ちょっと心配。日本、頑張ってグループリーグ突破
して下さいよ!!!

判で押したよう?
先週は、職場で健康診断がありました。
いろいろな検査の結果が出てくるのは先ですが、
測ったところで、すぐに数値の分かる身体測定の
結果を見て思ったのが、判で押したようというもの
でした。だって、身長も体重も去年と同じ。

身長なんてもう伸びるはずがない。ついでに、血圧
測定の結果もまったく同じ。トレーニングとか、結構
頑張ったので脂肪が減って、ちょっと体重も減って
いるかな・・・なんて密かに期待していたのですが、
そんなに簡単に結果は出てこないと言うことですね。
ガンバレ日本!、ガンバレ takasan! (笑)

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西郷どん 「愛の物語」

波乱の人生を送った西郷隆盛ですが、
5 年間、離島へ流罪になった時期があります。その中で、
3 年間を過ごしたのが奄美大島。さらに、奄美大島で
出会った島娘、愛加那と出会い結婚をします。本日は、
その愛加那と西郷どんの 「愛の物語」 を語っることにします。

安政の大獄で幕府の 「お尋ね者」 となった薩摩藩の
西郷隆盛は、藩命により奄美大島に名を菊池源吾と改め
身を潜めた。藩命は罪人としての 「遠島」 ではなく、
幕府の目から逃れるための 「潜居」 でした。

すべてに絶望し、かたくなに心を閉ざしてしまう西郷どん。
不遇な身の上の西郷を世話することになったのが愛加那。
一度逢ったら誰もが惹き込まれるという澄んだ瞳の娘でした。
「愛加那 (あいかな)」 の幼名は於戸間金 (おとまがね) と
いい、於と金は敬称なので、本名は 「とま、とうま」 でした。
やがて島民たちが薩摩からの搾取に苦しんでいること
を 「とうま」 から聞き、がくぜんとする菊池源吾でした。

弱い島民を虐める政治に義憤を感じて、島の役人と
掛け合いついには、搾取を止めさせることに成功します。
暮らしに馴染み、住民に学問を教えるようになります。
島での生活で、「とうま (愛加那)」 らの優しさに触れ、
お互いの文化の違いから当初は反発し合うが、やがて
愛し合うようになり、愛加那は西郷の 「島妻」 となります。

旦那様、私に名前ば付けて下さい。島の女は嫁に行くと
名前が変わります。島では名前の下に 「加那」 を付けて
呼びます。そんなら 「愛」 はどうじゃ。愛・・・加那? 
そう 「愛加那」。結婚したときに西郷が 「愛」 の名を与え、
とうまは、愛加那 (今風に愛ちゃん) と名を変えました。

愛加那は訪ねます。旦那様の本当の名前を教えて下さい。
わしか、西郷吉之助じゃ。もうその名を捨てた。
おいは菊池源吾として、この島で愛加那と生きる。
ありがとう、私の旦那様。島に来て2年。元気な男の子だよ。
吉之助と愛加那に長男の菊次郎が生まれます。
「海の向こうから来た夫」 と幸せな日々を過ごします。

やがて、藩主 ・ 島津久光から吉之助への召還命令が
下ります。井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されたのです。
藩主からの命令です。愛加那に別れを切り出せない吉之助。
当時、薩摩藩には島妻 (とうさい) 制度があり、島妻を
連れ帰ることは許されなかったのです。吉之助の苦しい
胸の内が目に見えるようではございませぬか。

薩摩へ帰りなさい。旦那さんの魂は薩摩に向いておる。
ここにいるのは愛加那の旦那様ではなくて、薩摩の
西郷吉之助じゃ。泣きながらそう叫ぶ愛加那には・・・・、
次の子が宿っていたのでした。何という事でしょう。クスン
愛加那と菊次郎は愛しい、しかし、旦那様にはそれ以上
に果たせねばならない勤めがある。愛加那にはそれが
分かったのでしょう。吉之助は、愛加那と最後の別れを
して薩摩に戻ります。

藩命で呼び戻された西郷であったが、大久保利通の讒言
によって島津久光の怒りを買い、命令違反で帰還からわずか
2 カ月後に捕縛され、今度は徳之島への 「遠島」 の藩命が
下ります。この頃、京都では寺田屋騒動が起こっています。
そして、「生麦事件」 が起きます。島津久光のいる大名行列
を横切ったイギリス人に腹を立てた薩摩藩士が、イギリス人
を斬ってしまったのです。絶えず揺れ動く政局は、いよいよ
西郷隆盛の存在が必要不可だと判断した薩摩藩でした。
藩主に翻弄されながらも再び藩命によって召喚命令されます。

西郷は、沖永良部島から薩摩に戻る途中、奄美大島に
立ち寄り数日間、愛加那と親子水入らずの日々を過ごします。
ひたすらに西郷どんと家族を愛した愛加那ですが、その同居
生活は2年程に過ぎなかったのです。これが愛加那の西郷
との永劫の別れでした。 西郷はその後、戊辰の役で勝利して
鹿児島に凱旋したあと、隠居するつもりであったが、薩摩藩主
・島津茂久(忠義) に請われ、藩の参与に就任します。
奄美大島に行くことができなくなったのです。

奄美大島での3年間は、激動の西郷どんの人生では、
例外的に長閑な時間でした。夫婦仲もよく、島の人々とも
打ち解けた西郷どんは、このままお呼びがないなら島に
骨を埋めようとも思っていたのです。あの島津斉彬も認めた
「すごい人」 西郷でさえ、どん底に落ち込んてしまった時には、
誰かの助けが必要だったのです。それが島民であり、愛加那
が傷心の西郷どんの心を癒していたのかもしれません。

一方、愛加那は生涯、奄美大島を出ることなく独り、浜昼顔の
ように、西郷が残した家に住み、田畑を耕しながら過ごします。
雨の降るなか一人で畑に行き、農作業の途中で倒れ、そのまま
息を引き取りました。西郷が西南戦争で自決してから25年が
たっていました。西郷にとって、奄美大島での家族水入らずの
3 年間は最も幸せな時期だったであろう。「島妻」 という悲しい
運命にありながらも西郷を愛し続けた愛加那。この稀代の英雄
西郷隆盛には,一人の女性 「愛加那」 が支えていたのでした。

                          ―― おしまい ――

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  「西郷どん」  NHK大河ドラマ特別展
      東京藝術大学大学美術館

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2018年NHK大河ドラマ 「西郷どん」 の放送にあわせて、主人
公 ・ 西郷隆盛に関連した資料や文化財を通じ、ゆかりの地の歴
史や文化、歴史的な出来事を紹介する展覧会があるというので、
東京藝術大学へ行って来ました。芸術や音楽を学ぶ学生の作品
や音楽を聴きに文化祭にはよく行くのですが、展示会は滅多に
ありません。歴史好きとしては、胸躍る気持ちで・・・・イザ!

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「東京藝術大学 ・ 大学美術館」
国立博物館前の通りから谷中方面へ進むと、樹木の間から一際高
いコンクリートの建物が見える。 ここが藝大の美術館です。 目的が
無い限り、ほとんど訪れる機会はないのだが、道行く人は学生では
なく一般の方ばかり。 不安が見事に的中、皆さん藝大の美術館へ
吸い込まれていきました。なんと歴史好きの方が多いこと。

NHK大河ドラマ特別展 「西郷どん」
会期     2018年5月26日 (土)~7月16日 (月)
会場     東京藝術大学 ・ 大学美術館
開館時間   午前10 時から午後5時まで
入場料    一般1,500円  高校生 ・ 大学生1,000円

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明治維新から150年、本展覧会では、西郷隆盛や大久保利通の
ゆかりの品、篤姫愛用の着物や調度品など、「本物」 の美術品や
史料を多数展示。幕末から明治にかけての激動の時代をけん引
した西郷隆盛の魅力的な人物像を浮き彫りにし、歴史的な出来事
を紹介する展覧会です。

スタートして、はや半年を迎えようとしているNHK大河ドラマ 「西郷
どん」。これまであまりフィーチャーされてこなかった青年期や、愛
加那との出会いにより本物の愛を知る姿など、従来のイメージとは
異なる西郷隆盛の魅力にハマった方にお勧めしたいのが、東京藝
術大学美術館で開催中の大河ドラマ 「西郷どん」 の特別展です。

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「すべての民が幸せに暮らしてこそ日本国は強くなる」 と信じ、故
郷を愛し、民を愛し、国を愛し、 “見返りを求めない愛” を与え続
けた男を、人は親しみを込めて、『西郷どん (セゴドン)』 と呼んだ。

薩摩 (鹿児島県) の下級藩士の家に生まれた西郷隆盛 は、両親
を早くに亡くし、家計を補うため役人の補佐として働きます。やがて
薩摩藩主の島津斉彬に目を留められた西郷は、島津斉彬の密命
を担い江戸へ京へと奔走し、薩摩のキーパーソンとなっていきます。
多感な青年期を経て、3度の結婚、2度の島流し。極貧の下級武士
に過ぎなかった素朴な男は、勝海舟、坂本龍馬ら盟友と出会い、
たぐいまれ 「勇気と実行力」 で、明治維新を成し遂げます。

「プロローグ」
最初に入口で出迎えてくれるのは、庄内藩士 ・ 石川静正が西郷
没後に描いた肖像画。また、薩摩藩独特の剣法を伝える 「示現
流秘伝書」 や薩摩武士の教養ともされた 「薩摩琵琶 (銘 木枯)」
等、ルーツとなる薩摩藩の風土を紹介。

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      「西郷隆盛肖像画」 石川静正筆 個人蔵 
これがホントの西郷どん!? 地下2階の展示室で一番最初に出迎
えてくれるのが、庄内藩士・石川静正筆の「西郷隆盛肖像画」です。

西郷隆盛の実像に迫る必見の肖像画。生前の西郷隆盛に幾度も
接した庄内藩 (今でいう山形県鶴岡市、酒田市) の藩士 ・ 石川静
正が西郷没後に描いた肖像画だそうです。その出来を、西郷隆盛
を知る多くの人が称賛したことから、もっともよく風貌をとらえたもの
とされています。眉が太くて、目が大きく、恰幅よいというのは共通
していますが、こんなに有名人なのに、本当の顔がよくわからない
とは不思議なことだと思いますね。「命もいらず、名もいらず」。愛犬
を連れて狩りへ出かけ、温泉に浸るひとときをこよなく愛したという
西郷隆盛のイメージにピッタリな顔立ちだと私は思っています。

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「示現流秘伝書」  鹿児島県歴史資料センター黎明館
示現流 (じげんりゅう) とは、薩摩藩を中心に伝わった古流剣術の
こと。薩摩藩内では江戸後期に島津斉興より御流儀と称され、藩外
の者に伝授することを厳しく禁じられていたそうです。人間には 「無
我夢中になってしまうと左右の振り下ろし攻撃を交互に繰り返す」 と
いうクセがあり、もし実戦でそのような状態になってしまっても敵を倒
せるよう、袈裟斬り ・ 逆袈裟斬りを徹底的に練習するのだという。

第1章 「船出」
名君 ・ 島津斉彬に取り立てられ、志士として奔走する西郷隆盛。
島津家から徳川将軍家に嫁ぐ篤姫の婚礼担当も務めました。西郷が
生涯思慕の念を抱きつつけた斉彬ゆかりの品々の他、展覧会初公開
品を含む、篤姫所用の華麗な調度品や着物等が展示されています。

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篤姫 (天璋院) は、薩摩藩島津家の一門に生まれ、島津本家の
養女となり、五摂家筆頭近衛家の娘として徳川家に嫁ぎ、江戸幕
府第13代将軍徳川家定の御台所となった人物。渋谷の藩邸 (現
常陸宮邸) から江戸城までの輿入れは先頭が城内に到着しても
最後尾は依然、藩邸にいたという話が伝えられています。凄~い。

「天璋院所用 薩摩切子 藍色栓付酒瓶」  德川記念財団 (左)
薩摩藩が幕末から集成館事業 (洋式産業事業) の一環として生産
させた薩摩切子。このカットガラスは、篤姫の婚礼の際に島津斉彬
が持参させたものとされています。淡い藍色の地に、亀甲文様とス
トロベリー・ダイヤモンド文様が刻まれています。薩摩切子は、当時、
最先端の技術を駆使した故郷 ・ 薩摩の工芸品でした。
「天璋院所用 小袿」  公益財団法人德川記念財団 (右)
気品を放つ篤姫の着物 は、篤姫 (天璋院) の美意識を反映したす
っきりしたデザインが印象的。 平安時代は身分の高い方ほどくつろ
いだ衣装を着るため、中宮の装束は小袿 (こうちき) でした。小袿は、
表と裏の間に中陪という裂地が入って衿、袖口、裾がオメリとなって
三重になっているとか。また、篤姫所要の華麗な調度品等も展示。
大河ドラマの 「西郷どん」 では、西郷が篤姫の輿入れ道具を準備
する様子が放送されましたが、もしかしたらこの着物にも西郷が
関わっていたかもしれませんね。

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「伝島津斉彬所用 紫糸威鎧」 京都国立博物館蔵 (左)
西郷隆盛を取り立てて、飛躍のきっかけを与えた薩摩藩主・島津
斉彬所用と伝える大鎧です。大鎧とは平安時代から鎌倉時代に
かけて制作 ・ 使用された甲冑の形式のひとつです。本来騎馬武
者が着用するもので、歩兵戦に重きが置かれるようになると衰退
を余儀なくされましたが、江戸時代になると逆に復古調の鎧が好
まれました。処々に島津氏の家紋である轡 (くつわ) 十文字と
五七桐を配しています。鎧の美しさには目を見張ります。
「奥奉公出世双六」  東京都江戸東京博物館 (左)
奥務めの女性の出世を題材とした双六です。各マスには様々な奥
仕えの身分や役職が描かれています。双六とはいえ、大奥におけ
る役職や役目について、詳しく知ることのできる面白い資料です。
このような双六を 「出世双六」 と呼び、江戸時代から明治時代に
かけて多種多様な出世双六が刊行されたようです。江戸時代は
身分制社会です。「御三家」 の家に生まれないかぎり将軍になれ
ませんが、女性ならば武士の家に生まれなくとも将軍の母になる
可能性はあるかもしれないという、江戸時代の女性の夢物語を
描いているのかも知れません。他にも所用品が多数展示。

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素顔は、脇は甘く、愚直でうかつ。彼に出会ったものは皆、西郷が
好きになり、愛嬌あふれる男の周りには、いつも “笑いと愛と波乱”
が満ちていた。日本史上に残る 「革命家」 であり、誰にも愛された
「モテ男」 であり、また希代の英雄でありながら肖像写真一枚残さ
なかった、謎多き男 ・ 西郷隆盛。

第2章 「流転」
島津斉彬の死後、西郷は離島での日々を過ごすことになります。
奄美大島、沖永良部島での生活は実に5年に及びました。しかし、
この時代に西郷は、妻との愛を育み、思索にふけるなど、人格を
陶冶しました。妻に宛てた手紙、島での愛読書など西郷の人と
なりを伝える作品等が展示さえていました。孝明天皇の御宸筆
「忠誠」 は初めて近くで拝したが、やわらかに筆致ではあるが、
強さがにじみ出ていました。

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「薩英戦争絵巻」  鹿児島県歴史資料センター (左)
薩摩藩は、「生麦事件」 に伴うイギリスとの賠償問題が決裂、イギリ
ス艦隊と砲火を交えました。「薩英戦争」 は、日本が欧米先進国と
本格的に戦火を交えた初の戦いでもありました。薩英戦争という実
戦を通して、西洋諸国の強さを認識した薩摩藩は、なぜか戦争相
手のイギリスと仲良くなり、薩摩藩英国留学生へとつながります。
薩英戦争のわずか2年後のことなので、歴史は面白いですね。

「那波列翁 (ナポレオン) 伝」 鹿児島県歴史資料センター (右)
文久3年 (1863)、西郷隆盛は二度目の流罪となる、沖永良部島へ
向かっていました。島へと向かう荷物の中に、ある本が入っていたの
です。それが小関三英が命がけで翻訳した 『那波列翁伝』。一将校
から、フランス皇帝にまで出世し、ヨーロッパを征圧したナポレオン。
その立身出世は、遠く離れた日本においても、人々の心に火をつけ
るだけの力があったのです。吉田松陰はナポレオンに関する漢詩を
作り、西郷隆盛は自らとナポレオンを重ねるなど、幕末の志士たちは
国を変えることを目指し、大きな影響を及ぼしました。

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「伝西郷隆盛製作 薩摩烏賊餌木」 公益財団法人荘内南洲会
これは2 回目の遠島処分となった沖永良部島の座敷牢で西郷隆
盛が作ったと伝わる疑似餌 (ぎじえ)。イカ釣り用のもので、手先
が器用だった西郷が島の住人に作ってみせたといわれています。
正直、そんなものまで残っているのかと驚きました。擬似餌とは、
魚を釣る際に本来は魚が食べない物を餌として用いるものです。
波乱の人生を送った西郷どんですが、都合5年間離島に流罪に
なった時期があります。その中で、3年間を過ごしたのが奄美大
島でした。そこで出会った愛加那を島妻として娶る事になります。
二人は仲睦まじく、一男一女をもうけます。

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西郷は遠島となっていた沖永良部島から帰還して約1年後、薩摩
藩家老 ・ 小松帯刀 (たてわき) の媒酌で糸子と結婚します。坂本
龍馬が、薩摩藩に薩長同盟を説くため鹿児島滞在中、坂本龍馬
が西郷の上之園の借家に泊まったときに雨漏りがし、隣の部屋で
糸子が西郷に 「お客様に申し訳ないから屋根を修理しましょう」 と
言うと、西郷が 「今は国中の家が雨漏りをしている。うちだけ直す
わけにはいかない」 と叱るのを聞いて感心したという。このとき龍
馬29歳、西郷37歳、糸子21歳でした。そして 慶応2年 (1866)
坂本龍馬立ち会いのもと西郷隆盛と木戸孝允の間で薩長同盟が
結ばれるのです。

第3章 「飛翔」
政治の表舞台に復帰した西郷は、的確な判断力とたぐい稀な指
導力で、目まぐるしく変転する幕末の政局に巧みに対処。ついに
討幕をなし遂げます。薩長同盟関連資料、幕府瓦解のきっかけ
となった 「討幕の密勅」。幕末維新の重要史料など、新時代を切
り開く貴重な歴史資料に食い入りました。(笑) 会津の西郷頼母
と西郷隆盛が親交があったこと初めて知った。西郷隆盛は敵方
であった庄内藩士からも慕われていたんですね。

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「討幕の密勅」 鹿児島県歴史資料センター  (左)
武力討幕に向けて政治活動を行っていた西郷隆盛に呼応して、
岩倉具視の発案により正親町三条実愛から大久保利通に渡され
たもので、薩摩藩の島津久光、茂久 (忠義) 父子に対して、すみ
やかに幕府を討つべきことを命じたものです。 徳川家康が築き、
265年間も続いた江戸幕府終焉への道筋ができたのは、朝廷か
ら薩摩藩へ下されたこの密勅があったからなのです。たった一枚
の紙ですが歴史を大きく動かしました。

「御花畑絵図」  鹿児島県歴史資料センター (右)
近年発見された薩摩藩家老 ・ 小松帯刀の京都における居所 「御
花畑」 の詳しい場所や規模を示す絵図。大きな屋敷であったことが
明らかになり、これまで不明だった薩長同盟締結の場であった可能
性が高まった。絵図によって、詳しい場所や規模がほぼ判明しました。

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       「江戸開城談判 下図」  明治神宮
江戸城の無血開城を決めた、西郷隆盛と勝海舟の会見の様子を
緊張感いっぱいに描いた 「江戸開城談判 下図」 の貴重な資料。

鳥羽 ・ 伏見の戦いの後、新政府は徳川慶喜を追討するため、江
戸へ向けて軍を進撃させます。旧幕府軍は応戦する姿勢をみせ、
江戸城攻防戦は避けがたい状況となりました。徹底抗戦が高まる
中、江戸を戦禍から守るため、新政府軍と交渉にあたったのが陸
軍総裁の勝海舟でした。勝は軍を指揮する西郷と旧知の仲でした。
剣豪で知られる山岡鉄舟を駿府城 (静岡) に陣を構える西郷の
もとへ派遣し、西郷との会見の場を設けることに成功。

会見は江戸の薩摩藩邸で行われました。勝は江戸を戦場にする
ことで多くの命が失われ、わが国の国力を削ぐことになると訴えま
した。 西郷は勝の訴えを聞き入れ、総攻撃の中止を命じました。
西郷の手腕なくして、突如前日に中止が決定されることはあり得
ませんでした。同じ日、奇しくも京都御所の紫宸殿では、明治天
皇が天神地祇にお誓いになられた「五箇條の御誓文」 が布告さ
れ、維新の基本方針が示されました。この日は、わが国にとって
歴史的な一日となったのです。

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印象に残った展示物は、西郷隆盛が大久保利通に送った手紙。
勝海舟がどれほどすごかったのかという長文の手紙で、2 m くらい、
もっとあったかな? 長い文章でものすごく達筆。達筆すぎて読め
ませんでした。(笑) 百何十年も前のものなのに、それがそのまま
今の時代に奇麗に残ってるのに驚きました。これは日本中の大河
ファンの人たちにはぜひ見ていただいて、実際に起きたことをドラ
マ化することの面白さ、そういったことを想像しながら楽しんでいた
だけたらなと思いました。

第4章 「英雄」
維新回転の大事業を達成した西郷は、盟友 ・ 大久保利通とともに
明治新政府に参画します。が、やがて袂を分かち、鹿児島に帰郷。
そして日本最後の内乱 ・ 西南戦争で命を散らすことになります。
巨大な体躯を包んだ軍服、西郷が好んで揮毫した 「敬天愛人」
など、英雄の晩年の日々を見つめます。

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こちらの展示室には大久保利通の肖像画をはじめ、ゆかりの品々
も展示されていました。大久保利通所用の懐中時計がすごく綺麗
で、大切に使っていたのだなぁ~と思いました。

「西郷隆盛所用 刀装具 目貫 (上左) 縁頭 (上左)」   個人蔵 
犬好きの西郷が地元鹿児島の住民から白い名犬ユキを借り受ける
代わりに渡したという逸話が残る刀装具。繊細な装飾が施された縁
頭と目貫で、明治天皇が下賜したものとされる。西郷がいかに犬を
大切にしていたかがわかる逸品です。

「西郷隆盛所用 太刀 額銘 雲次」  大阪歴史博物館  (下)
西郷隆盛が薩摩藩最後の藩主・島津忠義から拝領したとされる 「雲
次 (うんじ)」 の太刀。刀の何処を見て、その良さを見分けるかという
と、匂い口を見ることだといわれます。その状態が美しいものこそ完
成度が高いということであり、その完成度は武器としての価値でもあ
ります。日本刀の焼き刃と地の境を匂い口といいます。つまり匂 (刃
文) の状態のことをいい、ひいては刃文総体を指します。

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「敬天愛人 (西郷隆盛筆)」 鹿児島市立美術館
乞われて揮毫することの多かった西郷隆盛。中でも最も多く好ん
で書いた言葉が 「敬天愛人」。「人は天を敬い、素直に生きなけ
ればならない。全霊で人を愛することは天の心にかなう」 という
意味でしょうか。人に書いて与えただけでなく、西郷自身の座右
の銘としても心がけていたと考えられています。号の 「南洲」 は、
2度にわたり南の島へ遠島になったことに由来しており、西郷の
代名詞としても知られています。

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「西郷隆盛筆 武者絵」  鹿児島県歴史資料センター (左)
西郷隆盛と三番目の妻 (糸子) との間に生まれた三男の午次郎に
描き与えた鎮西八郎為朝の絵。現存する西郷の絵はこの1枚だけ
といわれています。午次郎は政治家・軍人ではなく、日本郵船の
社長秘書として企業人の道を選び平穏な人生を送ったようです。

「西郷隆盛軍服 (夏服上下)」 鹿児島県歴史資料センター (右)
3 階の展示室には、西郷が実際に着ていた軍服や狩羽織等が展示
されています。最初の陸軍大将に任ぜられた明治6 年 (1873) に
所用していたとされる西郷さんの軍服 (夏服上下) です。西郷の身
長は180 ㎝、体重は110キロであったと推定され、当時の大人の
身長と比べると、西郷さんの大きさがわかる軍服です。
 
エピローグ 「人々の中の西郷」
史上最も愛された英雄とも言われる西郷隆盛。死後も人々は敬愛の
念を募らせました。その象徴ともいえるのが銅像 「上野の西郷さん」
です。西郷隆盛の銅像制作過程の困難さを伝える写真も初公開。
また、上野に先んじて京都で計画された 「幻の銅像」 の資料も紹介
していました。

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「故西郷隆盛翁建碑広告」 石川 ・ 山鬼文庫  (左)
上野の 「西郷さん」 銅像建設の10 年前に、京都 ・ 清水坂に馬上
軍服姿の西郷銅像の建設計画があったことを示す広告なんだそう
です。明治22 年頃という。しかし、呼びかけ人の植田楽斎の急死
により、幻の計画に終わってしまったようです。

「西郷隆盛未成像幷面部」  東京藝術大学  (右)
西南戦争で西郷隆盛は敗れますが、亡くなった後も人々からの人気
は絶えず、明治31年(1898)に上野に銅像が建てられます。こちらは
銅像 「上野の西郷さん」 の制作過程の困難さを伝える写真が初公開
されていました。 この銅像は東京藝術大学の前身となる東京美術学
校の教授、高村光雲率いる制作チームが9 年もの歳月をかけて制作
したそうです。西郷さんと犬の顔面がのっぺらぼうになっており、写真
が残っていない西郷さんを、どう表現するか苦悩した痕跡が見えます。

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「上野公園 ・ 西郷隆盛像」
展示会後は、上野公園の入口にある 「上野の西郷さん像」 を見に
立ち寄って来ました。西郷さんの身長はおよそ180cm あったそう
ですが、銅像はその2倍以上もあるそうです。相変わらず観光客が
写真を撮っていました。当時、着流しで犬を連れている姿はとっても
斬新でした。西郷像の隣の犬は、ツンという名前だそうです。(下左)

着流しの銅像は一部の人に衝撃を与えました。特に、西郷夫人は、
除幕式で 「ウチの人はあんなではない」 と言ったそうです。これは、
旦那様は人前に着流しで現れるような不作法な人ではないという
意味があったという事です。日本で最も有名な銅像になりました。
上野公園は、幕末から明治維新期に繰り広げられた戊辰戦争の
激戦地。日本の新たな夜明けに尽力した西郷さんの銅像は、
150年以上経った今でも、上野のランドマークとして多くの人々
に愛されています。

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多感な青年期を経て、3度の結婚、2度の島流し。極貧の下級武
士に過ぎなかった素朴な男は、勝海舟、坂本龍馬ら盟友と出会い、
揺るぎなき 「革命家」 へと覚醒し、徳川幕府を転覆させる。類まれ
な 「勇気と実行力」 で、明治維新を成し遂げた西郷隆盛ですが、
最後は明治新政府と闘い、命を散らすことになります。

なんともいえない、人間味があふれる優しい顔立ちの西郷隆盛。
とても親しみが沸きます。 「命もいらず、名もいらず」、愛犬を連れ
て、狩りへ出かけ、温泉に浸るひとときをこよなく愛したという西郷
どん。イメージにピッタリな姿に、改めて好きになりました。入口の
ホールに、記念撮影出来るようにボードが設置されていました。

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多くの貴重な資料により、西郷隆盛の生涯、そして明治維新から
西南戦争までの歴史を学ぶことが出来ました。やはり日本国史上
西郷隆盛は、偉大なる人物であったと思います。薩摩人は凄い!
さて、NHK大河ドラマ 「西郷どん」 もいよいよ折り返し地点です。
「特別展」 を堪能し、西郷隆盛だけでなく、今後登場する人物たち
も、より一層身近に感じることができるかもしれません。楽しみです。
帰りは西郷隆盛になった気分の足取りでした。(笑)





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