一ヶ月に2回満月を迎える月を「ブルームーン」という。 そのブルームーンを見ると願い事が叶う・・・・。





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「つらさに敏感な人は本当の教養人」

...2019/06/16 09:03...

今日は 6月の第 3日曜日。
アメリカでは 「父の日」 として祝日になっています。
これにならって我が国でも 「父の日」 なんですね。

「父の日」 の始まりは1910年、妻を亡くし
男手一つで 6人の兄弟を育ててくれた父ウィリアム ・
ジャクソン ・ スマート氏に感謝したいと兄弟の一人、
ジョン ・ ブルース ・ ドット夫人が母の日にならって
提唱したのが始まりと言われます。

さて、週末に同僚たちとと飲みに出かけた。
その席で、読書好きな同僚が 「今月の19日は太宰治が
入水して6日後、遺体が見つかった日なんだよな」 と
突然、話された。48年6月13日、太宰は愛人山崎富栄と
玉川上水の急流に入水自殺する。2人の遺体はひもで
固く結ばれていたという。その19日は誕生日でもあった。
いま、「桜桃忌」 として忍ぶ人は多い。

太宰は恵まれた環境に生まれながら、裕福であることに
罪の意識を持ち、自らに対する不信感、劣等感が強い。
川端康成に絶賛された 『女生徒』 や人間を信じる
ことの大切さを説いた 『走れメロス』 に対して 『斜陽』、
『ヴィヨンの妻』、『人間失格』 といった作品に至ると、
滅びゆくもの、破滅的なものが描かれていくようになる。

確かに太宰治の作品は、多数派から見た価値観を
説いた文学ではありません。太宰作品には、「弱さ」 が
出ているような気がします。それは、太宰本人が駄目な
自分をさらけだしているから・・・・。自分はこんな駄目な
ところがある、こんな弱さがある、ということを出している
での、なんというか、読んでいて傷つくことがありません。
太宰自身、優しい人だったのかなと思います。

ちょうどこの時期は、梅雨時だ。
雨の日は、外出もおっくうになりがち。
久しぶりに太宰作品を読んでみようと思う。

「え、父の日。そんなものも有るのか。
いいよ気にしなくたって・・・・・」 。と心中は
「母の日は、祝ってもらって、お母さんが羨ましいな」
と思ったって、表立ってはこれくらいの余裕の発言を
しておきたいものです。 うふ


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「つらさに敏感な人は本当の教養人」

太宰治が語った言葉らしいです。
親戚の子どもに、太宰は、「君、教養人ってどういう
人のことを言うんだと思う?」 と聞いたそうです。
そして、「学問のある人が教養人じゃないんだよ。
つらさに敏感なひとを本当の教養人というんだ」
と言ったという。同じ意味合いのことは太宰の
書簡にも書かれいると恩師から聞いたことがある。

書簡の中で、「優れている」 の 「優」 という字が
自分は好きなんだと。人に憂と書いて優しいと詠む。
人の辛さや悲しさに敏感なことが優しさの条件であり、
人に優れているということの条件なんだ、と。
また、「文化」 という言葉に 「はにかみ」 という
ルビをふるべき、と太宰は言っています。

人の前で何かを言うって、とても恥ずかしいことなんだ。
どんなに正しいと思っても、堂々と言って何の疑問に
思わない人は信用できない。「てらい」 とか 「恥ずかしさ」
を常に感じられる人を自分は信じるという。

これらの言葉が、私には印象に残りました。
自分の意見を堂々と主張している人を見ると、すごいな、
自分に自信があるのだな、と尊敬することもあるのですが、
どこかで、もやもやすることもあって、それは何故なんだろう
と言葉にできないままでした。

ですが、「どんなに正しいと思っても、堂々と言って
何の疑問に思わない人は信用できない」 という
感じ方に、ハッとしました。そうだ、私が感じてきた
違和感を言葉にするとこれかも! と 思いました。

太宰治の作品は、「弱さ」 を描いていて、
弱さを持つ人に温かい視線を感じます。太宰自身の
弱さも書かれていて、あ、そんな風に思ってもいいんだ。
そっか、そういう感じ方もあるんだなぁと思えることも。

強さをアピールしたり、強さに憧れるよりも、
弱さに寄り添いたい。そういう人間になりたいなぁ
と、ふっと思った今日この頃です。


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  「太宰治」   ~太宰が生きた街 「三鷹」~

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吉祥寺の友人宅を訪ねたのですが、つい話し込んでしまい夜遅く
なってしまった。次の日は日曜日だった事もあり、泊っていくことを
勧められ一泊した。翌朝、三鷹駅まで送ってもらったのですが、途
中、「風の散歩道」 を通った時、太宰治が入水自殺した場所を示
す 「玉鹿石」 があり見学。三鷹は太宰治が過ごした場所でもあり、
興味があって太宰治の足跡をたどろうと観光案内所でマップを
頂いて回って見ることにした。友人も初めてらしい。紹介します。

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「三鷹駅」
この三鷹駅に来たのは実に学生以来で、随分と変わっていました。
JR中央線、総武線 ・ 東西線 ・ 東葉高速線直通が走るターミナル
駅で、駅出口からペデストリアンデッキを通じて各方向へと出られ、
駅乗降客が車を気にせず利用できるようになっていました。(下左) 
また、駅ビルとしてアトレヴィ三鷹などちょっとしたショッピングも楽
しめる施設もあります。電車の発車メロディーは、三鷹市に住んで
いた 『ちいさい秋みつけた』 など童謡を作曲した中田喜直の 「め
だかの学校」 でした。 めだかの学校は川の中~。発車します!

三鷹市 (みたかし) は、東京都の多摩地域東部にある人口約19万
人の街で、 武者小路実篤、三木露風、山本有三、太宰治など多く
の作家たちが住んだ街として知られ、市内には国立天文台三鷹キ
ャンパス、調布飛行場 ・ 武蔵野の森公園、国際基督教大学 (眞子
佳子内親王が卒業) などのほか三鷹の森ジブリ美術館を筆頭に、
山本有三記念館、武蔵野市にまたがる場所には井の頭恩賜公園。
三鷹駅南に位置する禅林寺には太宰治および森鴎外、市内南西
端の龍源寺には近藤勇の墓が存在する。駅から都心へ通う人も
多く、新宿まで23分くらいでしょうか。

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「伊勢元酒屋店跡 (現 ・ 太宰治文化サロン)」
太宰治文学サロンは、三鷹駅から歩いて5分足らずの所にあ り、
太宰ファン等、多くの人が訪問して来るそうです。サロン内には
太宰の生い立ちや、在りし日の太宰の姿を伝える多くの写真、
さらに彼の代表的な文学作品の資料などが展示されています。

ここは戦後、太宰治がウィスキーを買いによく訪れた 「伊勢元酒店」
があた所で、「伊勢元」 の跡地に建てられたビルの1階が、現在は
「太宰治文学サロン」 として資料館になっています。2008年3月に
開館して以来、太宰治に関する情報を発信し続け、「情報交流と発
信」 の場、そして市民の 「交流」 の場となっているようです。入場は
無料で、毎回趣向を凝らした展示が行われているようです。

「太宰治文化サロン」
場所 :  東京都三鷹市下連雀3-16-14
時間 :  10時~17時30分
定休 :  月曜日 ・ 年末年始 (12月29日~1月4日)

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文学サロンでガイドの方に太宰治の生涯について、色んなエピソ
ー ドを交えて解説してもらいました。彼がいかにお酒を愛したかを
示しているのがサロン内に置かれたバーカウンターと本棚。カウン
ターは、太宰治が通った銀座のバー 「ルパ ン」 のイメージを再現
したものだそうです。(上) ルパンで撮った椅子に片足を上げて
いる写真は有名ですが、このカウンターで飲んでいたのですね。
中央のケース内にあるのは、太宰が7年半を過ごした三鷹の
「陋屋」 の模型です。尚、写真は許可を頂いて撮ったものです。

太宰治文学サロンには、執筆した小説の数々や自筆の手書き原稿
も展示されています。(下左) 太宰治の直筆の葉書が展示中で、芥
川賞選考委員で作家の佐藤春夫さん宛てに出された葉書 「ついで
の際には下連雀へおいで下さい」 と書かれていました。その他、複
製ですが 「ヴィヨンの妻の原稿」 や、川端康成への手紙もありました。
今官一が太宰の命日を 「桜桃忌」 と命名した時のエピソードに触れ
ることができました。今官一 (こん かんいち) は、太宰と同い年の青
森 ・ 津軽出身の作家です。愛用した火鉢もあり、昔は火鉢で暖を
とったのでしょうね。(下右) 太宰治がとても身近に感じられました。

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太宰治が三鷹に住んだのが昭和14年 (1939) から、終戦前後
の疎開を除き、昭和23年 (1948) までの10年間を三鷹で過した。
昭和21年 (1946) に疎開先の青森県金木から三鷹に戻り、三鷹
での最初の仕事部屋として借りたのがこの場所でした。三鷹駅の南
口から斜め右手に延びる通りを進み、最初の交差点 「三鷹駅前郵
便局」 を右折するとすぐ左手のマンション前に案内板がありました。

「中鉢家跡」
当時は、昔懐かしい木造2 階建ての家があって、元々、女性が住ん
でいた2階の部屋を、昼間、仕事に出ているときだけの約束で、昼の
間だけ部屋を借りていたようです。太宰が最も信頼していた弟子宛
には、「十四日にこちらへ移住しました。それから客と酒と客と酒、
あすから雲がくれして仕事をはじめるつもりです。雲がくれとは、近く
に別に一部屋を借りて、べんたうを持って通勤するのです」 と。ここ
で執筆されたのは 「メリークリスマス」 「ヴィヨンの妻」。「朝」 は、この
部屋が舞台になっています。案内板の写真には、木造二階建ての
家屋が写っていますが、今では当時の面影を忍ぶものはありません。

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「田辺肉店離れ跡&太宰横丁」
太宰治の足跡コースという散策マップを見ながら行ったのですが、
マップには記載されていない道もあるので 「何本目の道を曲がる」
という考え方で行ったら迷いまいました。三鷹駅南口側、南にまっ
すぐ延びる商店街と斜めに交差する通り、さくら通り沿いにあった。
ビルの右側沿い (下右) が、太宰いきつけの小料理屋 「喜久屋」
が、この通りの駅近くにあったことから 「太宰横丁」 と呼ばれている。
酒好きだった太宰は、ここを毎日のように千鳥足で通ったのでしょう。
ビルの右側壁面に案内板がありました。(下右)

ここが2番目の仕事部屋で、太宰連絡場所たる若松屋というところの
仲介で田辺精肉店の 「裏のアパート」 を借りた。ここでは、大ロマンス
小説たる 「斜陽」 が執筆された。この店を舞台に 「犯人」 も書かれた。
この案内板 (下左) が掲示されていたのは、ゴミステーションの場所で、
大きなポリパケツが数個置いてある想像とかけ離れた所にあり、何とか
ならないものかと感じました。「太宰治ゆかりの地」 が泣いています。

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「小料理屋 「千草」 跡」
太宰治文学サロンの前の商店街を抜けると、小料理屋 「千草」 跡
がありました。再開発ビルの植え込みに小料理屋 「千草」 跡の金
属プレートもありました。(下右) 太宰治が、作家仲間や編集者と
の打ち合わせ場所に使い、二階を仕事部屋として借りていました。
酒も強かったみたいで、いつも楽しそうに、友達や仕事仲間とワイ
ワイ過ごすのが好きだったみたいです。

驚いたのは、太宰治の行方不明後は捜索本部となり、玉川上水で
の遺遺体発見後は検死が行われた場所のようです。「千草」 の主人
は、太宰をしのぶ桜桃忌の世話人で、当時をこう話していたという。
「・・・十四日の朝、と云っても、十一時頃になっていたかと思います。
山崎さんの所の野川さんに、お部屋の様子が変だと聞かされて、私
は思わずはっといたしました。不吉なものが私の胸をかすめて、そん
なばかなことが、と打消しながら、野川さんと山崎さんのお部屋にあ
がってみました。部屋の中は綺麗に片づいて居りました。本棚の上
にはお二人の写真が飾られ、小さな茶碗に水が供えられて、机の上
には奥様やお友達、そして私どもに宛てた遺書が置いてありました」。

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「野川家跡」
家族ぐるみの付き合いがあった小料理屋 「千草」 跡の斜め向かい
には、美容師山崎富栄さんが三鷹駅前の美容院で働くための下宿
先 「野川家跡」 がありました。野川家は現在の永塚葬儀社。(上右) 
建物の駐車所の壁に案内板があました。(上左) 太宰治と一緒に
心中した山崎富栄さんが、ここの2階に住んでいました。ここも太宰
は仕事部屋にしていたようです。 最後の作品 「グッド ・ バイ」 を
執筆していた場所でもあると言われています。

二人が知り合ったのは屋台のうどん屋。看護婦代わりとして体の弱
い太宰の面倒を見たりしていたが、別な愛人 ・ 太田静子に太宰の
子供が生まれ、山崎富栄は衝撃を受ける。年が変わり二人の間に
も 「秋」 が到来、捨てられる予感に嫉妬が激しくなったようです。更
に太宰の結核再発などもありました。その後、ここから二人は遺書
を置き、遺品を片付け、13日の深夜に玉川上水に向かいました。
実際、深夜という時間帯どのような心境で、二人が玉川上水に向か
ったのだろうか・・・。様々な思いが脳裏をよぎる。

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「うなぎ若松屋跡」
さくら通り沿いにありました。昔は、この辺りに品川用水が流れて
いて、周りには屋台がズラリと並んでいたようです。そんな話を聞く
と、うなぎの匂いを思い出してお腹が空いてしまいました。(笑)
今は用水も屋台も見当たらず、何の俤もない駐車場になっている。
案内板も見落としてしまいそうでした。(下右) 立体駐車場の下に
ひっそりと佇む案内板には、苦々しく笑う太宰の写真が。(下左)

仕事部屋に人をいれる事を嫌った太宰治は、編集者の方との打ち
合わせを 「うなぎ若松屋」 でしていたそうなんです。また太宰が一
番良く通った飲み屋だったようです。仕事のあとの酒はまず若松屋。
奥の腰掛けに坐って、のれんのあいだから道行く人をぼんやり眺め
ながら、うなぎの肝でコップ酒ということになる。肝を好んだようです。
だから、太宰治に会いたいときは、若松屋に行けば会えたという。
戦後の太宰治が書いた本には必ず登場する飲み屋です。若松屋
跡のすぐ近くに三鷹駅前郵便局があります。この郵便局は、太宰
が住んでいた頃からこの場所にあり、太宰は原稿料の受け取り
などの際によく利用していたという。

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「陸橋 (跨線橋)」
町並みは大きく様相を変え、もはやあの頃の面影はほとんど残っ
ていない。太宰治の家も、通った店も、歩いた道も、みんな姿を
変えた。残っているものといえば、三鷹電車庫の跨線橋。(下)
三鷹駅を線路に沿って西に歩くと跨線橋が見えてきます。この
陸橋は、昭和4年 (1929) に竣工した当時の姿を今も留めて
います。打ちっぱなしのコンクリートで、骨組は錆びかかってい
たが、私を太宰のいたあの時代に誘う。

太宰治は、この陸橋が好きで 「いい所がある」 と言っては、友人
や編集者を連れてきたそうです。この橋で写真家の田村茂が撮
影したマント姿の太宰の写真はよく知られています。(上) 橋か
らは多くの電車を眺めることができ、ここがお気に入りという太宰
って、もしかしてテツ (鉄道好き)? なんて想像して思わずニヤリ。
電車に興味を持っていたかどうかは定かではないが、ここから見
える夕陽や富士山の眺めは格別なのだろう。現在は小さな子供
が喜ぶ場所として親子連れをよく見かけます。電車庫に沢山並
ぶ電車や、陸橋の下を通過する特急電車など子供が喜ぶのは
当然です。「線路は続くよ、どこまでも~」 そんな歌もありました。
  
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「禅林寺通り」
三鷹駅前郵便局の表示が出た五差路の細い道に進路をとります。
この道、禅林寺通りのプレートが掲げられているように、どんづまり
に三鷹の名刹 「禅林寺」 があります。マンションが林立する、地味
な路地ですが、ほとんどのマンションが 「禅林寺」 の名を掲げて
いるのを見ると、このお寺が土地のブランドであることがわかる。

太宰治が住み始めた頃の三鷹は、現在とまるっきり違い商店も近く
にはなく、上下水道もないような田舎であり、家で使用する水を一日
何度も運んだりしなければならなかった。一家の主ともなれば、そう
いった力仕事や大工仕事など、女手にあまる仕事がたくさんあった
のに、太宰治は一切手を出さなかったという。美知子夫人は、そうい
った太宰治に 「金の卵を抱いている男」 と心の中であだ名をつけて
いたとか。 いつもいくつかの小説の構想を、めんどりが卵を暖めて
いる時のように、じっと抱えて、家事には全く手を出さず小説を生み
出す事ばかり考えていたからでしょうかね。

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「禅林寺」
三鷹に来たら、一番最初に訪れなければいけない場所。それが、
禅林寺。太宰治のお墓があるお寺です。三鷹駅から禅林寺通り
を南下すると太宰治の墓がある禅林寺に到着です。禅林寺の山
門、近隣に例を見ない独特のデザインをしています。(上) 山門
の屋根に厄除けの鬼瓦、四方をにらんでいました。手前の手入
れされた松も立派です。本堂は、樹木に囲まれ柔らかな感じが
します。庭には聖観音像も。 (下右) 境内に入ると左手に墓地
入り口があり、案内板も設置されています。(下左)

お寺は江戸時代初期、下連雀村開村 (明暦の大火によって移住
させられてきた神田連雀町の町民) の際に名主松井治兵衛が松
の坊 (浄土真宗本願寺派) という庵室を建立。元禄13年 (1770)
の台風で倒壊、黄檗宗の賢洲元養が再興し、禅林寺に改名した
ようです。当寺を太宰治の墓所に定める際は、檀家の猛烈な反対
を慈悲深い当時の住職が説得したという。禅林寺は森鴎外・太宰
治の墓所としても有名です。ここには霊泉斎場もあるようです。

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「太宰治の墓」
案内板に従って、スロープを下り、アーチをくぐって、お墓のある
側に出ます。異なる世界に来た訳ではないですが、アーチをくぐ
り終えると急に 「ここに太宰さんが眠っているんだな・・・・・」 とい
う想いが押し寄せて来ます。季節の綺麗な花が供えてあります。
お墓の前で手を合わせて眼を閉じると、とても心が落ち着く自分
がいます。不思議な感じです。私たちが訪れた時には、学生や
女性3人組、老夫婦と幅広い年代の方がお参りしていました。

このお墓には、太宰治 (本名 : 津島修二) と奥様の津島美知子
さん、長男の津島正樹さんが眠っています。墓石には本名では
なく、ペンネームの太宰治とだけ彫られている。太宰は小説 「花
吹雪」 の中で、禅林寺には 「森鴎外の墓がある。(中略) ここの
墓地は清潔で、鴎外の文章の片影がある。私の汚い骨も、こん
な小綺麗 (こぎれい) な墓地の片隅に埋められたら、死後の救
いがあるかも知れない」 と書いた。 その意を汲んで、美智子夫
人が太宰をこの寺の鴎外の墓の側に葬ったという。かつて森鴎
外の墓前に密かに佇んだ太宰だが、時を経て今、同じ墓地の
土の下に作家は眠る。毎年6月19日の桜桃忌には、全国から
多くの太宰文学愛好者が集うという。

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「森鴎外の墓」
驚いたのは、なんと太宰治のお墓のほぼ向かいに、森鴎外の墓
があったんです。私はそれを知らずに訪れたので、びっくりです。
有名な文豪が、二人も同じお寺のお墓に入っていて、しかも向か
い合う位置にいるとは・・・・。森鴎外を尊敬していた太宰治が生
前それを望んでいたためです。森鴎外のお墓は、遺言通り 「森
林太郎」 と本名が書かれています。禅林寺の山門わきに森鴎
外の遺言が記された遺言碑があります。(下右)

この遺言を読むと、鴎外の覚悟のほどが伝わってくる。鴎外は、
石見人 (現島根県津和野出身) である森林太郎 (本名) として
死にたいとしている。宮内省と陸軍にはつながりがあったが、そ
れは生きている間のことであって、死んだら終わりで、それまで
の縁によるあらゆる外形的な取扱は辞する。陸軍軍医総監まで
出世した官僚でもあったが、死が近づき意識が遠くなる中、それ
でもこの点に限っては覚醒していた。鴎外は、単なる岩見人とし
て死ぬことになるが、しかし、その名はいまに至るまで残り、これ
からも消えることはない。だが、森鴎外といえども後世に名を残
そうと文学に打ち込んだのではない。そうせざるを得なかった
なにかがあるのだろうと思います。森鴎外は権力サイドにいた
とは思えぬほど、貧しき者の絶望の声に敏感でした。そこが凄い。

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「井心亭 」
井心亭と書いて、「せいしんてい」 と読みます。玉川上水沿いの風
の散歩道から平和通りと称される幅5 メートルほどの道を長らく進
むと閑静な住宅地にありました。木造のぬくもりが感じられる玄関、
落ち着いた雰囲気です。道路側、庭の樹木が溢れるように茂って
います。「井心亭」 は直接、太宰治との接点はありませんが、木の
下に太宰治ゆかりの 「百日紅」 という事で説明板がありました。
(下右) そばに太宰治の住居跡が近くにある為、注目されてます。

「井心亭」 は、個人から寄贈された土地へ三鷹市が和風文化施設
として建設したようです。木造数奇屋造りの茶室と和室大広間それ
に庭園のある純和風建築で、この文化施設は、市民が茶道・華道
・ 歌会などの目的で利用することが出来、また 「寄席井心亭」 と
いう落語会が毎月1回開かれているようです。

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「百日紅 (さるすべり)」
閑静な住宅地をそっと見守っていたのが庭先に植わっていた 「百
日紅」 の木です。太宰が他界し、その後借家が全て取り壊される
時にすぐ近くの 「井心亭」 の庭に百日紅の木が移植されました。
太宰治宅の庭にあったもので、ここに移植して今もまだ生き続け
ている木です。正面の通りから百日紅の木を見ることができた。

木と会話ができれば当時のエピソードをたっぷり語ってもらうところ
だけど、今のところその技術は発明されておらず、私自身そういう
たぐいの特殊能力を持ち合わせていないのが残念。百日紅から
してみればしゃべりたいことがたくさんあるのかもしれないけれど。
作品 「おさん」 にも登場する木で、太宰はとても気に入っていた
らしい。サルスベリは、木肌がツルツルしているのが特徴。猿も
滑り落ちそうな、なめらかな木肌でした。もしかしたら太宰のファ
ンが撫でてここまで磨かれたのかもしれない。(笑)

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「太宰治旧宅」
太宰治旧宅跡は、井心亭の向かい側、左側の少し入ったところに
太宰治宅跡があったようです。旧居跡といっても、家そのものは残
っていない。案内のたぐいもないので、何も知らずに見つけることは
難しい。 この時、たまたま近くの人が教えてくれたので知ることがで
きた。路地は私道なので立ち入りはNG。道から3 軒目の住居跡を
遠めに垣間見ました。現在、跡地は個人宅でもあるので省略します。
太宰の死後、人手に渡ってしまったと話してくれた。最後に 「 ご苦
労様です」 と声をかけられ、なんとなく照れくさくてこそばゆかった。
なんだか自分達が太宰巡礼者にでもなったような気がして・・。(笑) 

太宰治文化サロンに、住居模型が展示されていたので参考にします。
昭和14年9月から太宰は、東京府北多摩郡三鷹村下連雀の住民と
なった。六畳四畳半三畳の三部屋に、玄関、縁側、風呂場がついた
十二坪半ほどの小さな借家ではあるが、新築なのと、日当たりのよい
ことが取柄であったようです。(上) 太宰は菓子折の蓋を利用して、
「津島修治 (太宰治)」 と毛筆で並べて書いて、表札にしたようです。
(上右) 長女と次女と一緒の写真を見かけたのですが、縁側での
微笑ましいワンシーンも、ばっちり再現されていました。(下右) 
玄関。(下左) 門柱ぎわには百日紅も・・・細かく再現されています。

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「風の散歩道」
三鷹市 ・ 武蔵野市の市境を流れている玉川上水の南側歩道が、
整備されて 「風の散歩道」 と呼ばれています。三鷹駅から井の頭
公園に向かうにはちょうど良い散歩道になっています。両岸は豊
かな樹木で鬱蒼として、昔の風景が残っています。玉川上水は少
量でも水が流れ、都内でみられる川を埋め立て、その上を緑道と
するよりも、「小川」 の形になって玉川上水の流れに新緑の緑が
映えて綺麗です。心地よい緑の散策路になっています。

玉川上水沿いの 「風の散歩道」 の途中にあるポケットスペースには、
太宰治が玉川上水について綴った一節を刻んだレリーフが設置され
ていました。(下) 玉川上水脇で腰を下ろした太宰治が写っています。
「四月なかば、ひるごろの事である。頭を挙げて見ると、玉川上水は
深くゆるゆると流れて、両岸の桜は、もう葉桜になっていて真青に茂
り合い、青い枝葉が両側から覆いかぶさり、青葉のトンネルのよう
である。(「乞食学生」より)」。

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「玉鹿石 (入水場所)」
太宰治は山崎富栄と心中しました。ここが2人で入水した地点の
ようです。車道を挟んで向こう側が玉川上水になります。現在は、
太宰治の故郷である青森県金木町産の玉鹿石が置かれています。
今でも、大勢の方が訪れて手を合わせているという。何故モニュメ
ントだけなのか? それは、金木町にいる家族が反対したからです。
愛人と心中した場所に記念碑なんて考えられませんよね?!
玉鹿岩は青森県特産のいわゆる 「にしき石」 の一種で、藩政時代
から多くの人々に親しまれてきた。磨いて置物になどするようです。

昭和23年6月13日の雨の深夜、愛人山崎富栄の部屋に二人の
写真を飾って間に合わせの仏壇をしつらえ、太宰は机に連載中の
「グッド ・ バイ」 の草稿、妻に宛てた遺書、子どもたちへのオモチャ
を残し、山崎富栄と互いの体を紐で結んで抱き合い、自宅近くの玉
川上水に入水する。近くには草を踏みしめて土手を下った跡が残っ
ていて、現場には男女の下駄が揃えて置かれていたという。

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「玉川上水」
目の前に広がる玉川上水は非常におだやかで、水量も少ない。
太宰はこの玉川上水が好きで、川の流れを散歩がてらよく見に
来ていたそうです。当時の玉川上水は水量も豊富で、急流だっ
たとのこと。太宰治の小説 「乞食 (こじき) 学生」 の一節には、
「川幅は、こんなに狭いが、ひどく深く、流れの力も強いという話
である。この土地の人は、この川を、人喰 (ひとく) い川と呼んで、
恐怖している」。現在では水も減り、穏やかな小川ですが・・・・・。
当時は自殺スポットで、この川で命を落としていたのだという。
その遺体のほとんどが上がらなかったというから、想像すれば
今でも川底には・・・・いや、想像するのはやめておこう。

遺体はなかなか見つからずようやく6日後の6月19日早朝、入水
推定箇所より2キロほど下流 (吉祥寺方面) へ下った新橋辺りで、
近くにある明星学園の若い教師が2人の遺体を発見しました。奇し
くも太宰治39歳の誕生日でした。事件後には様々な憶測、流言飛
語が四方八方からとびかったが、50回忌直前の平成10年に遺族
から公開されたワラ半紙に毛筆清書の9枚の遺書には、「小説を
書くのがいやになったから死ぬのです」 と記されていのです。

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三鷹ゆかりの文学者は数多く、三鷹駅前から続く中央通りには幾
つかの碑が建っています。太宰治と亀井勝一郎の 「本のレリーフ」
もその一つ。太宰治の一番の理解者 ・ 亀井勝一郎の交流を垣間
見る三鷹で執筆された 『斜陽』 の一節に、文芸評論家 ・ 亀井勝
一郎の太宰評を加えた 「本のレリーフ」 のようです。

太宰が没してから70年あまりの歳月が流れた。
町並みは大きく様相を変え、玉川上水もすっかりおとなしくなり、
太宰治の家も、通った店も、歩いた道も、もはやあの頃の面影は
ほとんど残っていませんでした。しかし、行く先々で太宰ファンと
思われる方から話を聞きながらでしたので、充実した散歩でした。
私が最初に手に取ったのは 『走れメロス』。授業で読んだ親近感
からだと思います。青森の大地主の家に生まれながらも、波乱万
丈の人生を歩んだ太宰治。現代では考えられないような行動の
数々、最後もなんとも太宰らしい結末であったと思う。小さい頃
から文学に興味があったといえ、短時間に後世まで読まれる
作品を作ったのは、結局、天才だったのだろう。





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「何事も成らぬは、人の為さぬなりけり」

...2019/06/09 09:54...

東京も梅雨入りとなりました。
先日、歴史的な暑さとなった北海道をはじめ、
一昨日までは晴れて暑い日が続いていましたが、
昨日、今日と東京の朝は曇り空で涼しいです。

梅雨入りすぐに、その荒っぽい面が現れてしまった
ようで、各地で大雨が・・・・・・。雨も必要ですが、
「程々」 に降ってくれたらなあと思う。降らなければ
降らないで文句をいい、降ったら降ったでもんくをいう。
どっちなんだ? お天道様にそう叱られそうです。

シトシト雨が降れば、田畑の土や穀物をうるおし、
その成長を助ける。山野の緑はいっそう青々と茂り、
草花の輝きも増して自然も息吹。嫌われることのない
程良い長さの 「恵みの雨」 になってもらいたいものです。
お財布と梅雨は、カラでは困ると知人がぼやいていた。

むかし、インドの修行僧は雨季には外に出ず、
屋内にこもって修行をしたそうです。
そこには、雨につられて出てくる虫達を不用意に
踏み潰してしまわないようにという配慮がありました。
人知れず踏み潰されて消えてゆく小さき命への共感。
思いやりの心の原点でしょうか。大切にしたい。

梅雨になると暑くてジメジメしていて、なんとも気が
晴れない日々が続きますが、美しい紫陽花が各所で
咲き乱れる季節でもあります。華やかでありながら
慎ましい紫陽花を愛でて、気分が下がりがちな
雨の日々を楽しんでみてはいかがでしょうか。

 突然の通り雨に  君の手を握り走り出して
     図書館の屋根の下に  駆け込んだけど~
   濡れたシャツ気にもせずに  笑う君をもっと見てたくて
      この時が続けばいい  そう願った


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「何事も成らぬは、人の為さぬなりけり」

誰にでも苦手なことがあります。
努力してもなかなか上達しないこと、努力しよう
にも方法がわからないこと・・・・・・、いろいろだ。
私にも苦手なことがある。好きで努力しても進歩の
スピード がきわめてのろく、悲しくなってしまうこともある。

最近気が付いたのだが、本当に一流と云われる人は、
できない人や進歩ののろい人に対して温かい。
苦手で苦しんでいる人が努力しているのを受け入れ、
そっと手助けしてくれる。ところが、自分もたいして
出来ない人ほど厳しく他人を批判し、手助けしよう
としない傾向がある。

苦手なものがある人は謙虚になるものだ。
だから人が手助け してくれると感謝の気持ちが生まれる。
これが人と人とのかかわりを円滑にさせるのだと思う。

以前、知人の看護師さんが、病院に入院している年配
のご婦人の話をしてくれた。このご婦人、動けないから
みんなの手助けが必要だ。そんな時、この方は 「ありがとう」
と穏やかに感謝の気持ちを伝え、夜勤の看護師さんに
お疲れ様と声をかけていたのだという。看護師さんたちは、
その方のそばにいくと、自分が励まされるような
気持になってほっとすると言っていた。

人間ってすべてダメだったり、苦手だったりではないはずだ。
自分のできることで相手を手助けし、できないことは気持ち
よく手助けしてもらう。「ありがとう」 の言葉を添えて。
自分が得意なことは優越感を感じて弱者を批判する
のには使わず、手助けするために使うと温かい
かかわりが生まれるのだと思う。

分かち合うと、うれしさは倍になり、悲しさは半分になります。
そして、できない理由は探さなくても見つかる。
できる理由は、探さなければ見つからないんだそうです。

天才なんていません。
その反対に、才能がないという人もいない。
場数を踏めば、何でも上達する人間の脳は
経験によって進化するといわれています。
たくさんの経験を積んで場数を踏んでいけば、
結果的にできるようになると思います。

if something is not done, that is because no one did it. 
    (何事も成らぬは、人の為さぬなりけり)


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「井の頭恩賜公園」
    ~池と雑木林がかもしだす武蔵野の面影~

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吉祥寺に住んでいる友人の誘いを受けて訪れることにした。午後
からの予定だったが、近くに井の頭公園があることを思い出して、
午前中に出掛け、散歩がてら立ち寄ることにした。 池があって、
橋があって、ボート乗り場もあれば奥の方にはお堂もある。結構
変化に富んでいるし、季節によっても雰囲気が変わるので、何度
行っても飽きない。小学生の頃、遠足で訪れた想い出の公園で
もある。実に久しぶりの井の頭公園です。ちょっと紹介します。

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京王井の頭線で吉祥寺を目指しましたが、そのひとつ前の駅 「井
之頭公園駅」 で下車しました。駅のすぐ前は、井の頭公園の入口
の看板が見えます。(下左) 公園のなかに入りますと、まるで森の
中に迷い込んだみたいです。井の頭池周辺をぐるりと廻って散策
しました。住んでいる近くに大きな公園がある人が羨ましいですね。

「井の頭恩賜公園」 は、三鷹市と武蔵野市にまたがる日本最初の
郊外公園です。井の頭池を中心に敷地が広がり、東の端には 神
田川が流れ出て、西側には井の頭自然文化園、御殿山の雑木林、
玉川上水、西園の運動場やジブリ美術館などの名所 が点在する
都内有数の公園となっています。花見の名所であり、井の頭弁財
天などの史跡などもあり、子供から大人まで幅広い年代の人が楽
しめるスポットとして、四季通じて多くの 人が散策に訪れています。

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「井の頭池と弁財天池の噴水」

井の頭公園にとっての春は、井の頭池を縁取る桜の季節です。
池の中央を渡る七井橋から眺めると、岸からせり出す枝々の桜は、
池に向かって水面を覆わんとするほどに折り重なって咲き、その
花の淡い色が水面や空とコントラストをなす風景は絶景です。秋
になると公園は、多種多様な木々の紅葉によって彩られ、散策道
をも埋めるほどに落ち葉が折り重なって、踏みして歩くのは何とも
言えない気分にさせます。一時止まっていた噴水も再開し、水し
ぶきがきらきらしていて、噴水がとても綺麗でした。(下右) 独特
の形をした噴水ですが、朝顔型噴水というそうです。水質浄化の
一環として行われているとか。

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「お茶の水」  神田上水の源流です。 (上)
水のあるところに人が住むという鉄則は、この井の頭の地も水が豊
かで、神田川の水源にもなっています。その名残が 「井の 頭公園」
の池の西側にある 「お茶の水」 の湧き水です。かつては清澄な水
が湧き出ていました。ここが神田川の起点です。

   歳月を 経たる静けさ 清水湧く

その昔、当地方へ狩に来た徳川家康が、この湧き水の良質を愛し
てよく茶をたてました。以来この水は 「お茶の水」 と呼ばれています。
しかし、このお茶の水、残念ながら今は湧き水ではありません。井の
頭公園の湧水池は、当時、七か所あったので、井の頭公園池の名を
「七井池」 ともいったそうだが、時代が下るとともに水が枯れ、いまで
は、お茶の水に使われた源泉は、ここ一か所だけで、それも井戸水
を汲み上げ、湧水量の不足を補っているんだそうです。しかし、この
湧水のおかげで、大正5年以来、この広い雑木林と池に恵まれた公
園は、東京市民の憩いの場になり、池から流れ出る小川 は、地元の
子供たちの水遊びの場になっています。

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「神田川」 (上) 神田川と書かれた石碑。 (下右) 公園内のひ
ょうたん池からの流出口。(下左) ここが神田川の源流で、ここか
ら神田川が都内へと流れゆき、隅田川に注いでいます。

玉川上水と並んで有名な神田上水は、江戸時代日本最初の水道
として作られました。江戸の人たちに水を送り続けました。神田川は、
二代将軍徳川秀忠の元和2年 (1616) に江戸市民への上水供給
河川として工事を始め、万治3年 (1660) に、現在の三鷹市から杉
並、中野、新宿、文京、千代田区を通って、台東区にいたる延長25
キロの神田上水を隅田川と合流させた人工の河川です。この小川
こそが、一時、「かぐや姫」 のヒット曲、貴方はもう忘れたかしら~
で有名になった 「神田川」 の源流なのです。井の頭公園の湧水に
発していることを知る人はどれだけいるでしょうか。 いまでは、「神
田川」 というと、JR飯田橋 ・ 御茶ノ水間の車窓から見える川とか、
柳橋の高級料亭や屋形舟の浮かぶ川を思い浮かぶと思います。

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池の周囲にはソメイヨシノを中心とした古木が多くあり、池に咲き
そろう桜の見事さは都内でも有数のお花見スポットになっています。
大通りや池に沿って小道もあり、それぞれの楽しみ方があります。
樹の種類や林の様相は、時とともに変化し、今では 「郊外」 という
響きも薄れてきましたが、都民の憩の場であることには変わりは
ありません。

吉祥寺駅から井の頭公園に向かう公園口 (南口) が設けられており、
吉祥寺駅から井の頭池にかけて、若者向けの商店が並んでいます。
南東の神田川沿いには、京王井の頭線の井の頭公園駅があります。
井の頭公園駅から井の頭池までは至近で、その間では小さな広場や
小道を散策することができる。 映画 「 ライブテープ」 に登場する野外
ステージ、週末に開催されるアートマーケット、大道芸人など見どころ
満載。 もちろんボート遊びもできますが、散歩が一番でしょうか・・・。

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季節が変わるごとに、色々な表情があり、いつも安らげる場所です。
以前は、時期によっては池が結構臭く、そこから流れる神田川も匂
っていたのですが、「かいぼり」 の効果で、だいぶ変化を感じます。
かいぼりとは、ため池から水を抜き、一定期間干して、清掃、堤や
水路の点検補修を行う作業を 「かいぼり」 と言います。 近年は、
公園などの池で水質改善や外来種駆除を目的に行われています。

天下泰平の江戸では、人々は名所旧跡に繰り出していました。
その一つがなじみの深い水道の水源地井の頭池だったようです。
弁財天を祀った堂は、池とともに近郊名所の一つであったのです。
その霊験はよく知れ渡り、幕末には江戸市中や近隣から多くの参
詣人が押し寄せたといいます。ここは江戸の中心日本橋から直線
距離でだいたい18㎞ありますが、当然道はまっすぐではないので、
往復すると40㎞ぐらいになるのでしょうか。昔の人の健脚でも途中
にコンビニもないわけで、それなりの小旅行であったはずです。

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公園は、休日になるとかなりの人出でになります。しかし、広い井
の頭公園ですので騒がしいことはなく、仰ぎ見るメタセコイヤ、落
羽松の溢れる緑の上の青空や、池の面を泳ぐ鴨など眺めな がら、
ゆったり過ごせます。池をを眺めているだけでも癒されます。

徳川幕府の御用林だった井の頭一帯は、明治22年 (1889) に
宮内省の御用林となり、大正2年 (1913) に東京市に下賜され、
大正6年に開園しました。なので正式名称は 「井の頭恩賜公園」。
恩賜公園 (おんしこうえん) は、第二次世界大戦前に宮内省が御料
地として所有していた土地が、公に下賜 (恩賜) され、整備された公
園のことです。なお、同様に庭園が下賜された場合には、恩賜庭園
と呼びます。都内には、上野恩賜公園 (東京都台東区) 井の頭恩賜
公園 (東京都武蔵野市・三鷹市) 猿江恩賜公園(東京都江東区)等
があります。

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井の頭池は、カップルや家族連れが乗る 「白鳥のボート」 が沢山
浮かんでいます。現在、池の中央を横断している橋を 「七井橋」
と呼びますが、それは、 井の頭池はかつて、7ヶ所からの湧き水
があったということで 「七井 の池」 と呼ばれていたことからきて
います。(下左) 弁財天の近くにも長い 「弁天橋」 があります。
(下右)  両方の橋からの眺めは本当にいいです。

井の頭公園内は、神田川の水源である井の頭池が多くの面積を
占めており、ボート場も整備されています。休日や桜の季節には
大勢の方が訪れ、親子連れやカップルがボート漕ぎを楽しみます。
昔は手こぎボートばかりでしたが、最近はスワンのボートの方が
人気のようです。(上) 池の水の守り神である弁財天は、女性の
神様です。カップルで乗ると女神様がやきもちを妬くというので、
ボートにカップルで乗ると別れる、という噂が昔からありました。
そのことを知っていた友人が、彼女と井の頭公園を訪れ、彼女が
ボートに乗りたいというのに拒み続けたという話を聞いた。(笑)

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かつては、杉の水源涵養林が池の水面をおおい、美しい風景を
作り出していました。しかし、第二次世界大戦による木材不足の
ため、池畔の杉1万五千本を伐採拠出ようです。樹の種類や林の
様相は時とともに変化していますが、武蔵野の面影が味わえます。

「井の頭の由来」
徳川家康がそうであったように、三代将軍家光もこの地によく訪れ
鷹狩りを楽しんでいたという。その時、供の者が井の頭の水を使っ
て茶を淹れた。お茶を飲んだ家光が、あまりのうまさに感銘を受け、
土地の者に地名をたずねたところ、地名がないと答えたので、「井
の頭」 と命名した。“井” には、「川や泉から水を取る場所」 という
意 味があり、その “井” の中でも最高の水であるから、“頭” と付け
たのでしょう。家光は、持っていた小刀で、池のほとりのこぶしの木
の幹に 「井の頭」 と刻んだと伝えられている。こぶしの木は枯れて
しまったため、その文字だけを切り取って 「弁財天」 で保存してい
たが、それも火災で焼失してしまった。現在は、「徳川 三代將軍
御切付旧跡」 の碑が建てらています。

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「弁天様 ・ 石燈篭」 (上) 「石橋」 (下左) 「水舎」 (下右)

「弁財天」 の入口には燈篭がりあります。この燈篭の台座には 「日
本橋」 の文字が彫られています。井の頭を水源とする神田川の水
流を利用して神田上水を整備し、江戸に水を分配したために、江戸
の人たちが 「井の頭 弁財天」 への信仰が盛んになり、境内の弁天
堂周辺の石造文化財は全て江戸下町の庶民が寄進された物のよう
です。そろそろ幕末にさしかかる、天保の改革で知られる時期のもの
です。正面入口に設けられた 「石橋」 は文化14年 (1817) に造ら
れたという。現在、誰もが普通に渡っていますが、約二百年前の江戸
文化最盛期につくられたものであることを思うと、なんだか感慨深い
ものがありますね。「水舎」 お参りの前、こちらで手を清めます。手水
鉢は正徳3年 (1713) につくられた三百年前の古い水盤です。

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「弁財天」 は、池の中の小さな島に赤いお堂がたっています。(上)
「井の頭の池弁財天の社雪の景」 安藤広重 (下右)  安藤広重が
弁財天の冬の夕景を描いており、これらからも井の頭 の弁天様が
江戸の庶民にとっていかに重要で、親しまれたかが分かります。

「井の頭弁財天堂」
弁財天の起源は、平安時代中期 (938-946) に源経基が弁財天
女像を安置するため、この地に建てたお堂が始まりとされています。
その後に元弘の乱の際に対戦の兵火で弁財天は焼失しました。それ
から数百年の間は放置されたままでしたが、江戸幕府3代将軍徳川
家光が、弁財天を再建したとされています。関東大震災で被害を受け、
現在の堂舎は昭和初期に再建されたものであるようです。

弁天様は水の神様であり、神田上水源を守護し、江戸町人から信仰
され、祀られていますが、じつはその正体は恐ろしい龍や蛇でもある
のです。恋人同士でお詣りすると、弁天様がやきもちを焼いて別れる
ハメになる、というもっぱらの噂の女神なのです。私もかみさんとデー
トで来たときは、一応念のため別々にお詣りしていました。(笑) でも、
井の頭公園でデートを重ね、結婚した友人を知っていますから、弁天
様にお詣りしてもよっぽど 「この人と別れられますように」 と、お願い
しない限りは問題ないと思います。井の頭公園の噂話は多々あります。

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「七井不動尊」 (上左)
弁天堂の正面から左手奥へ進むと、七井不動尊の小さなお堂が
あります。密教の根本尊である大日如来の化身で、「お不動さん」
の名で親しまれています。
「銭洗い弁天」 (上右)
井の頭弁財天にも、本堂の裏手に、龍の形をした銭洗い弁天が
あります。こちらでお金を洗うと、きっと財産が増えるご利益が
あるんだそうです。何度も、お金を洗って小遣いが増えますよう
にと洗ったんだけどね。増えなかったなぁ。(笑)
「宇賀神像」  (下左)
頭部の姿が老人で、胴体はとぐろを巻いた蛇という不思議で
ちょっと不気味な石像です。 小学校の遠足で来て、みんなで
「うんこの神さま」 だと言うと、罰が当たりますと、女の先生に
叱られた記憶があります。子供心に似てたんでしょうね。(笑)
宇賀神は、神道古来の五穀豊穣の神として祀られています。
「観音様」 (下右)
仏教の菩薩の一尊で、特に日本や中国において古代より広く
信仰を集めている 「観世音菩薩」。一般的には「観音さま」 とも
呼ばれ、日本で最も馴染みのある仏さまです。観世音とは
「心で自由自在に世の中の音を観る仏」 といわれています。

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池のベンチで楽しく語り合う二人。目にしみいる緑の中で会話が
弾みます。強い日の光を避けて木陰で休憩。時折、吹き抜ける風
が心地よいです。井の頭池の湖畔には井の頭弁財天という古くか
らの弁天様がおります。その弁天様のそばに、人頭蛇体の奇妙な
形の像が佇んでいました。子供の頃に聞いたお話です。

「井の頭池の白蛇伝説」
昔、今の世田谷辺りに子宝に恵まれない長者夫婦がいました。
なんとか子供が欲しいと思い、はるばる井の頭の弁天様までやっ
てきて、願かけをしたところ、時満ちて女の子が生まれ夫婦は大
喜びました。ところが娘の首筋に三枚のうろこがあったのです。
娘を育てるうちに、まるで「弁天様の生まれ変り」 のように美しく
成長します。娘が16歳を迎え、親子三人で井の頭弁財天へお参
りに行ったところ、娘はじっと池の面をみつめて動かない。わけを
問う両親に向かって、娘は自分が池の主の化身であることを打ち
明けた。「今まで育てて頂いたご恩は、決して忘れません」。娘が
池に身を躍らせると、その姿は大きな白蛇に変り、水底へと消え
ていった。娘を失って嘆き悲しんだ長者夫婦は、娘をしのび、
水の神様である宇賀神を石に刻んで供養したという。

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「御殿山遺跡 ・ 碑」  (上)
深い雑木林の小道を進めば御殿山の森が広がります。徳川家光
が鷹狩りをした時の仮宿舎が此の高台にあって、それで御殿山の
地名になったようです。御殿山の名が付つけられたが、山がある
わけでない。井の頭池をとりまく台地には大規模な遺跡群がひろ
がっていて、縄文時代の集落跡が主体ですが、先土器時代の
遺物も採集されています。

昭和37~38年に発掘調査されて、縄文中期から後期にかけての
竪穴住居跡三軒、敷石住居跡一軒が発見され、多数の土器、石器
類灯が出土しており、御殿山遺跡の名で呼ばれています。住居跡
は砂を入れて埋めもどされていますが、出土遺物は東京都武蔵野
郷土館等に保管されています。この遺跡群は、武蔵野台地の湧水
池周辺の原始時代遺跡の代表例として重要な遺跡群のようです。
縄文時代の竪穴式住居遺跡や、旧石器時代の石器や敷石住居
も出土することから、井の頭池は古くから人間の生活に不可欠な
水源となってきたことが窺えます。

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「作曲家 ・ 中田喜直の歌碑」
井の頭池をめぐる散歩道のわきに、木もれ陽の淡い光を浴びなが
ら建っているのが作曲家・中田喜直氏(故人)の生誕90周年を記
念して、設置された童謡 『ちいさい秋みつけた』 の歌碑です。見る
とピアノを模した歌碑で、思わず手を載せて触れたくなるぐらい精
巧に出来ていて、刻まれた五線譜から、いまにも童謡 「ちいさい
秋」 のメロディーが流れてきそうな気がします。写真を撮っている
と、 「これって弾けるのかしら~」 と近寄るおばちゃんがいました。
音は出ませんし、もちろんピアノも弾けません。 (笑)

中田さんは戦後の一時期、三鷹市内で暮らし、誰もが口ずさんだ
ことのある童謡 「夏の思い出」 「雪の降るまちを」 「めだかの学校」
など、数々の楽曲を作曲した日本を代表する作曲家の一人です。
自宅から近い同公園が好きで、「ちいさい秋みつけた」 は、散策
中 にメロディーを思いついたという。小学生の遠足で公園に来て、
めかくし鬼さんと、みんなで鬼ごっこをして楽しんだ記憶がある。
 めかくし鬼さん 手のなる方へ~

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「野口雨情歌碑」  (上)
野口雨情の石碑、刻まれた文字が読みにくいため横に木の説明
板があります。大正から昭和初期に活躍した詩人、童謡・ 作詞家
で、北原白秋、西條八十とともに、童謡界の三大詩人と謳われた。
「井の頭音頭」 の作者でもあり、代表作は 「七つの子」 「十五夜
お月さん」 「赤い靴」 「青い眼の人形」 「シャボン玉」 など。歌碑
には、雨情作詞の 「井の頭音頭」 の一節が記されています。

「徳川家光御切付旧跡」  (下)
畔を巡る遊歩道の道端に「徳川三代将軍御切付旧跡」という 「井の
頭」 の名称の故事を刻んだ碑で、明治26年に深川水船組の寄進
で建立されたものです。家光がコブシの木に 「井の頭」 と刻んだと
される木は枯れてしまい、今はただ、碑が昔日を偲ばせています。
井の頭という名称は一説には家光によって名づけられたものと伝
えられ、自ら小刀で弁財天の傍らのこぶしの木にその名を刻んだ。
現在、その場所に伝承を記した石碑が建てられています。

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公園を散策するといろいろな人に出会います。ベンチで弁当を食
べながら語る老夫婦の姿も見受けられます。黙々とジョギングをす
方や、楽しげに話をしながら井の頭池を眺める人、犬と散歩する人。
他にも親子連れや若いカップルもいて、静かな森をひんぱんに人
が往来しています。休日を過ごすには、もってこいの場所です。
いつも住みたい街の上位にきている吉祥寺にある井の頭公園。

井の頭公園はテレビ、新聞、雑誌、書籍などにおいて頻繁に紹介
されるほか、これまでに多数の作品において井の頭池などで撮影
が行われました。 テレビドラマや映画、またはテレビコマーシャル
などのロケが行われたこともあります。しかし、とんでもないj事件も
発生しています。平成6年 (1994) に起きた井の頭公園バラバラ
殺人事件。犯人に結びつく手がかりもないまま、平成21年(2009)
に公訴時効を迎えました。今年になってからもご婦人の遺体が池
に浮いているのが発見されました。ドキッ

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「武蔵野の面影を残す雑木林の公園
井の頭公園はとても広く、運動場もあれば、テニスコート、ボート乗
り場、井の頭自然文化園、さらに三鷹の森ジブリ美術館があります。
とても欲張りな公園です。有名な宮崎駿の 「三鷹の森 ジブリ美術
館」 は、日時指定の予約制です。その日に行っても入場できません。
今や全世界から来園者が絶えませ ん。黄色っぽい足とくちばしが
特徴のムクドリも見受けられました。(下右)

小学生の遠足で思い出したんですが、自由行動の時間に好きな
子と二人っきりで散歩がてら歩いていたら、御殿山の林の方に紛
れ込んで迷子になって、先生や皆を慌てさせたことがありました。
同窓会で話が盛り上がると決まってこの話になり、未だに冷やか
されます。小さな恋の行方は・・・・。彼女は南フランスに嫁いで、
今は二児の母親になっています。高島彩似の可愛い子でした。
あっ、いまのかみさんも高島彩に似てるよねといわれます。うふ

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江戸時代から行楽地として知られていた井の頭恩賜公園。
家康が江戸に入府後に開発された神田上水 (現在の神田川)
で、 その主要な水源が井の頭池です。天下泰平の江戸時代から、
現在まで、様々な出来事が多くあった公園ですが、今も人々は、
憩いを求めて訪れているのです。都会近郊でもあり、園内あち
こちにカフェやレストランや売店があって、ランチと散歩をセット
にすると、一日は気持ちよく過ごせますね。今度は桜の咲くころ
訪ねてみようと思います。

【おまけ】
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吉祥寺駅北口の駅前広場に井の頭自然文化園の人気者だった
ゾウの 「はな子の銅像」 があります。(上) 銅像は、親しい人が来
た際、あいさつをするように右前脚をちょこんと上げた生前のしぐさ
を再現したものです。「はな子」 は、戦後はじめて日本に来た像で、
当時の人々は、2歳半の子ゾウを熱狂的に出迎えました。(下左)

「はな子」 がタイから日本に来たのは、まだ戦後の混乱期にあった
昭和24年 (1949) 。タイと日本の友好のシンボルとして贈られ、
「平和の使者」 として人々に喜ばれました。戦時中の上野動物園
では、逃げ出すと危険だという理由から、3 頭のゾウが殺処分され
ました。罪もない動物たちが人間の戦争の犠牲になる、その理不
尽さの話は、「かわいそうなぞう」 という絵本となったほか、小学校
の国語の教科書にも採用されました。殺された1頭の名前にちな
んで 「花子」 と、名付けられました。当初は上野動物園で飼育さ
れていましたが、昭和29年 (1954) から 「井の頭自然文化園」
で飼育されるようになった。それ以降、仲間のゾウはいない、たっ
た1頭だけの生活が始まりましたが、終戦後のすさんだ世の中で
子供たちの夢をあたえ続けました。平成28年 (2016) 5月26日
に69歳で、この世を去りました。戦後の日本を元気づけたのです。





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「心で見なくちゃ」

...2019/06/02 16:20...

6月 (水無月) です。
「梅雨で天の水がなくなる月」 とか、水無月の由来には
諸説が色々あるようです。英語名である June は、
ローマ神話のユピテル (ジュピター) の妻ユノ (ジュノー)
から取られたらしい。ユノが結婚生活の守護神である
ことから、6月に結婚式を挙げる花嫁を 「ジューン ・ ブライド」
(June bride、6月の花嫁) と呼び、この月に結婚をすると
幸せになれるといわれてます。知り合いにも3年の交際を
経て、今月に結婚する方がいる。
苦労した方だけに幸あれと願わずにはいられない。

6月は和名では水無月。この呼び名は有名ですが、
京都の和菓子 「水無月」 は、ご存じですか?
京都の方にはいわずと知れたお菓子らしいのですが、
私は知りませんでした。

白いういろうの上に甘く煮たあずきを乗せて三角に
切ったもっちりとした食感が特徴の和菓子のようです。
美味しそう!! この和菓子の由来を調べたところ、
古くから京都では6月に、氷を口に含むと夏の暑さを
乗り切れると言われていて、室町時代の宮中では
わざわざ氷を取り寄せて氷の節句行事を催したそうです。

しかし、庶民にとっては氷は高価すぎて手が届かない
代物だったため、氷のかけらを表現した三角の形をした
お菓子を作って食べていたようです。そんな風に 「水無月」
を食べて夏を乗り切ろうとしていたなんて趣のある行事ですね。

さて、
このところ休日は外出が多かったので、今日はのんびり家で
過ごしたい気分でしたが、知人の誘いで出かけてきます。
相変わらず休日でも、ゆっくり休めない私です。 
皆さんは・・・・・・

Have a fun holiday  ( 楽しい休日を ! )

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「心で見なくちゃ」

かんじんなことは、目に見えないんだよ。

このことばは、フランスの作家サン ・ テグジュペリ
作の 『星の王子さま』 の一節にあることばです。
この小説は、児童文学でありますが、大人向けのメッセージに
満ちあふれていて、人間にとって大切な事柄、真実の教えが
随所にちりばめられています。

小説の中で王子は 「心で見なくちゃ、ものごとは
よく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」
と教えられました。ただ目に映るものが必ずしも真実とは言えない
こと、心の目で見ること、子供のように心の 曇りがなく、純真な目
でものごとを見ることが大切であることをこの小説は伝えています。

人は、正しくものを見ているつもりでも、自分にとって損か得か
という自己中心的で自分勝手な見方でしかものごとを見ていない
ため、何が本当で何が偽りなのかを見極めることができません。
現代社会に生きる私達は、目に見えるものばかりに心を奪われて、
数値ばかりを追い求めてきました。その典型が経済至上主義の
考え方であると言えるでしょう。その結果、私達は、大切なものを
見失い、目に見えない多くのものに支えられていることに
気付かなくなってしまったのではないでしょうか。

今こそ、物質の豊かさではなく、心の豊かさ、心の糧を
大切にすべき時だと思います。そして、一人ひとりが、ものごとの
本質、真実の姿、本当に大切なものを見つけていかなければ
ならないと思います。そのためには、純真な子供の心と真実を
見定める智慧の眼が必要であります。仏教の教えには、大いなる
仏の慈悲によって、生かされていることに気付き、その慈悲の中に
目に見えないけれども確かにある大きなはたらきに気付くことが
できるはずです。と、以前、知り合いの住職に聞いたことがあります。

その見えないけれども、確かにあるはたらき (慈悲の光) に
照らされて、自分自身とまわりのすべてのものを見ることにより、
ものごとの本質 ・ 真実を見定めていくことが最も大切なことだと
思います。こんなふうに知人に話すと、いつから僧侶になったと
笑われた。右手は先祖様、左手は私たち、合わせて合掌。(笑)

皆さんにとってかんじんなこと、本当に大切なことは何でしょうか?
心の目で、しっかりと見つけてください。

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第71回  東京みなと祭 2019
    ~珍しい船の一般公開~

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近所のカメラ好きの方の誘いを受けて、滅多に行かない晴海ふ頭
まで出掛けてきました。普段見ることができない 「珍しい船の一般
公開」 など様々なイベントが開催されるというのです。船舶の公開
でも軍艦となると、なかなか無いだけに興味があります。色々と
勉強にもなりました。「東京みなと祭り」 楽しかったので紹介です。

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開催される場所は 「晴海埠頭」 です。不便な場所で、交通手段は
バスしかありません。東京駅南口から晴海埠頭行のバスに乗って
30分くらいかかりました。始発から終点までバスに乗ったのは初。
埠頭からレインボーブリッジが見えます。(下左) そして晴海ふ頭
といえば、東京オリンピックの選手村の場所。現在、建設中で外装
工事は終わって、来年1月に完成予定です。(下右)

「晴海ふ頭公園」
対岸に高層ビルや竹芝ふ頭、レインボーブリッジ等が眺められる
公園です。展望台から停泊している豪華客船を眺めたりするのも
楽しみのひとつ。 春から夏にかけては、みなとまつりに東京湾花
火大会などのイベントもあります。すぐ隣の晴海客船ターミナルに
は、レストランや展望フロアーもあり、立ち寄るのもいい。 旅情を
かきたてる豪華船を見ながらとロマンチックな公園。何もないけど。

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晴海埠頭のある東京港は、昭和16年 (1941) 5月20日に国際
貿易港として開港しました。「東京みなと祭」 は、この開港記念日
を祝して行われるイベントです。毎年5月20日前後の土日に晴海
客船ターミナルをメイン会場として、様々なイベントを繰り広げます。
普段見ることができない 「珍しい船の一般公開」 や、東京消防庁
による 「水の消防ページェント」 など様々なイベントが催されます。
また、東京港で活躍しているレストラン船に無料で乗船できる 「体
験乗船」 も行われているようです。

「東京みなと祭 2019」
名称  :  第71回 東京みなと祭
日程  :  2019年5月18日 (土)~5月19日 (日)
時間  :  10時 ~ 17時
場所  :  晴海客船ターミナル および、その周辺
入場  :  無料

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東京みなと祭の目玉は、海上自衛隊や海上保安庁らの珍しい船
が一堂に会するイベントで、一般公開します。毎年好評のようで、
朝早くからたくさんの方が訪れます。やはり海上自衛の護衛艦が
人気のようで、私たちが埠頭に着いた時にはもう凄い行列です。

18日は、作業目的に沿う船体構造と設備をもち、特殊な作業、
任務に従事する 所謂 "特殊船" の中から、海上保安庁測量船
「明洋」、東京都浚渫船 「海竜」、海上自衛隊護衛艦 「てるづき」、
東京海洋大学練習船 「海鷹丸」 が一般公開 (船内見学) されます。
19日は、10艇の消防艇と3機の消防ヘリコプターによる、クライマ
ックスに紅白並びに5色カラー放水が登場する人気の 「水のペー
ジェント」、東京消防庁大型化学消防艇 「みやこどり」 の一般公開。
年に一度の東京港のお祭りといった感じのイベントです。

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長い行列が出来ていたのが、この海上自衛隊護衛艦 「てるづき」。
誰しもが興味があるのでしょうね。私たちも行列に並んでやっと乗
船が出来、見学すことが出来ました。船上から見ても凄い行列で
人気の程が伺えました。『敬礼!』 をしての乗船です。

海上自衛隊 護衛艦 「てるづき」
艦名 「てるづき」 は、「照りかがやく月 」 に由来し、旧海軍の秋月
型駆逐艦2番艦 「照月」 や海上自衛隊の護衛艦隊初代旗艦を務
めた護衛艦 「てるづき」 など、伝統ある名称であり知名度が高い
ことから選定されたようです。この名を受け継ぐ日本の艦艇として
3代目に当たるそうです。 全長150.5m、 最大幅18.3メートル。
排水量5.050トン、 乗員は約200名。 2013年に就役し、第2
護衛隊群第6護衛隊に編入され、横須賀に配備されています。

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護衛艦などは灰色が迷彩効果があるのでしょか。砲台やミサイル
発射機など、普段の生活ではお目にかかれない装備の数々。
自衛艦を見ると、ピリッと心が引き締まる思いになります。

「てるづき」 と言えば自衛艦好きの年配の方に、伊豆大島沖での
海難救助訓練を終え帰港中の 「てるづき」 が、貨物船と衝突事故
をおこした船だという話しを聞いたことがあります。衝突箇所にあた
る住区で就寝していた5名が死亡、他に23名が重軽傷を負ったと
いうもの。衝突の原因は貨物船の見張りが 「てるづき」 の尾灯を
小型の漁船と勘違いして、「小さい船だから尾灯の前を横切れば
いい」 と思い込んだもので、衝突直前になって巨大な護衛艦だと
気づいて回避行動を起こしたが間に合わなかったという。初代の
護衛艦だったんでしょうかネ。

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「高性能20mm機関砲 近接兵装システム(CIWS)」  (上)
艦へ接近する対艦ミサイルを迎撃する最後の手段として装備され
る近接兵装システムを 「CIWS (シーウズ)」 と呼ばれる。20ミリ
多銃身機関砲で、捜索 ・ 追尾レーダー、射撃指揮装置、多銃身
機関砲が一体となっており、上部のドーム状部分にレーダーと
指揮装置が、下段箱状部に多銃身機関砲ときょう体を動作させ
る駆動部分が入っています。毎分3000発というスピードで砲弾
を吐き出す。 脅威が近づくとコンピュータにより標的を判断し、
射撃を行うようになっているそうです。
「62口径5インチ単装砲と砲弾」  (下)
護衛艦に搭載されている62口径5インチ (127㎜) 単装砲は、
アメリカ製の先進的艦載砲です。全天候、夜間、対地、対水上及
び対空戦闘任務が可能。小型の艦船搭載用の火砲で、省人化
が図られています。砲弾は重く、どちらかというと対地攻撃重視。
側には砲弾のレプリカが展示されていて、持つとこれがめちゃく
ちゃ重い。こんな巨大で重量のある弾丸を1分間に何十発も撃
つことができるなんて想像できない。速射砲の凄さをより実感。

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「90式艦対艦誘導弾」  (上左)
90式艦対艦誘導弾は、これまで使用していたハープーンミサイルと
ほぼ同寸で、誘導方式や発射機なども互換性が高いためハープーン
と置き換えて使用することも可能。最近完成した艦艇や今後建造され
る艦には当ミサイルがハープーンの代わりに搭載されるようになった。
「3連装短魚雷発射管」  (上右)
連装短魚雷発射管は、対潜水艦用の短魚雷を発射する水上艦艇用
発射管です。従前の長魚雷発射管のように横に並べた連装ではなく
俵型 (三角形) に積み上げた3連装として使用する甲板スペースの
削減を図っています。発射管が軽量で安価であることから、発射可
能な魚雷の改良や発射管の改良により、現在でもほとんどの護衛
艦に搭載されています。
「MK41 Mod29 VLS」  (下左)
MK41 Mod29 VLS からは、対空ミサイルと対潜水艦用アストロミ
サイルを発射することができ、目標の方位や艦の進路に左右される
ことなく短時間で多くのミサイルを発射することが出来ます。ミサイル
発射装置の扉がパカっと開いてミサイルが飛ぶのか・・・・。そばで、
はしゃぐ子供の無邪気さに平和を感じた瞬間でした。

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最後に飛行甲板へ。通常は、格納庫には哨戒ヘリコプターが格納
されているそうです。今回は甲板を一周しただけです。もちろん防
衛上の機密から船内に入ることはできないのですが、甲板を周り
ながら大砲やミサイル発射装置などを間近で見ることができました。
見学しながら普段知れない仕組みや操縦破壊武器ではなく、新た
なソフトな制度設計で守りたいですよね。「平和&守る」 で思考停
止に陥らないようしたいですね。

護衛艦 「てるづき」 には、約15名の女性が勤務しているそうです。
通常航海時には、レーダーの監視し、船が安全に航行できるよう
に補佐をし、戦闘時には戦闘指揮室にて指揮官の補佐をする等
様々な任務があるようです。それぞれ仕事がバラバラなために、
女性同士でなかなか居住区で一緒に過ごすことが出来ないが、
お互いの休憩時間には居住区でテレビを見たり、おしゃべりした
りと楽しんでるそうです。自衛隊の人が丁寧に説明をしてくれた
ので、さすがに分かりやすかったです。

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自衛隊装備品展示コーナーがありました。自衛隊の活動で最も身
近なことと言えば災害派遣活動であり、国の防衛のために職務を
全うする姿は称賛と感謝しかない。そんな活動に自衛隊の車両が
あります。装備品の展示には係りの方が詳しく説明していました。

「偵察警戒車 (RCV)」 (上)
もし敵に上陸されて陣地を構築された場合、敵の陣容を解明する
ために陸上自衛隊は偵察部隊を派遣します。その時に活躍する
のが 「偵察警戒車」 です。以前はジープやバイクといった装甲化
されていない装備だったようです。隊員たちの安全性、生存性は
大きく向上。主要な武器として砲塔に25 mm 機関砲を装備。
「軽装甲軌動車」  (下左)
主として普通科部隊等に装備され、戦略機動及び戦場機動などに
使用されます。車体全体が装甲で覆われているので、任務に携わ
る隊員の生存性が高くなります。野戦の際の不整地走行や被災地
での散乱した瓦礫でも乗り越えられる走破性能があります。固有
の搭載火器はないが、機関銃の車載射撃、車上射撃が可能です。
「高機動車」  (下中)
一般道路の高速走行性能に加え、高い最低地上高およびタイヤ
の空気圧調整機能とランフラットタイヤにより、タイヤがパンクして
もある程度は航続可能という優れた路外機動性能も有する。後部
席に団体で乗り込んで物資や人員を輸送し走破力も高い。

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作業目的に沿う船体構造と設備をもち、特殊な作業、任務に従事
する 所謂 "特殊船" の中から、まずは海上保安庁測量船 「明洋」。

海上保安庁 測量船 「明洋」
測量船 「明洋」 は、平成2年10月に就役し、海上保安庁海洋情報
部に所属している測量船で、主に沿岸海域での海底地形調査 ・海
洋観測 ・ 海洋汚染調査・海底地殻変動観測等の各種の調査活動
を目的とした中型の多目的測量船で、海洋測量、海洋観測及び沿
岸調査を任務としています。全長60m、 幅10.5m、総トン数は
550トン。乗船定員38名、航海速度15ノット。航行区域 : 遠洋。

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船の船橋 (軍艦でいうところの艦橋) にある 「操舵室」 は、多くの
方にとって中央の羅針盤と舵輪を挟んで右舷側にある背の高い椅
子に座る船長、そして航海長 (一等航海士) や当直士官、操舵手、
見張り員などが直立不動で立っている」という風景を思い浮かべる
のではないでしょうか。羅針盤も大きな舵輪もなく、船長も航海士も
当直士官も操舵手もみな座って操船するという、「古き良き時代の
ロマンにあふれる操舵室」 とは異なる姿が現代の船の操舵室です。
船橋内 (上) では、操舵コンソール、舵輪、機関操縦装置、バウス
ラスター操作盤など詳しく説明され皆さん興味深く耳を傾けました。

舵輪とは、舵かじをあやつる輪形の把手のことです。
機関操縦装置は、プロペラの角度を変え、船の速度を増減する装置。
自動車のアクセルにあたります。バウスラスターは、船首部下部にあ
り、船を横移動させる離岸・着岸を容易にするための補助装置です。
海図台が見えます。(下右) 海図などで自分の認識に間違いはない
かを確認します。これらを見誤ると、浅所に乗揚げたり、船と衝突する。

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東日本大震災では被災地へ派遣され、港湾の水路測量や原発
沖での採水に従事し、南海トラフ海域の海底地殻変動観測も行
っているそうです。 「航海長室」 (上左)  航海長 (艦の運行の
責任者) の個室で、カーテンの裏にはベットがあるようです。
「観測室」 (上右) 情報の収集 ・ 分析、対処方針の立案 ・
調整をする場所です。

「自律型海洋観測装置 (AOV)」  (下左)
AOVは、太陽光発電や波の力を用いて無人で長期の海洋観測
する機器です。海象及び気象情報を継続的 ・ 長期的に観測す
ることができ、搭載された波浪計や気象計などのセンサーで観
測し、データは人工衛星を介して海保に送られる。観測結果を
リアルタイムに提供することで、航海安全のための基礎情報
の充実が期待されるようです。
「地層探査装置とマルチビーム音響測深機」 (下右)
地層探査装置は、超音波を船底に装備した音響送受波器から
海底に向けて発信し、反射音を受信することで地層を断面的に
捉えることができる装置。マルチビーム音響測深機は、船底から
鋭いビームを扇状に発信し、船の真下だけでなく、左右の範囲
も測ることができ、調査海域の概要を知ることができるようです。

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しゅんせつ船 「海竜 (かいりゅう)」
東京都港湾局の浚渫 (しゅんせつ) 船 「海竜」。浚渫船とは海底
に堆積した土砂を取り除く為の作業船で、海竜は航行しながら海
底に下ろしたドラグアームにより、土砂を吸い込む 「自航ドラグサ
クション浚渫方式」 の作業船だそうです。船舶が多く錯綜する港
での作業に適しています。「海竜」 と言う船名は、都民のアンケ
ートで命名されたそうです。

しゅんせつ船 「海竜」 は、 全長69 m、幅14 m、総トン数1410㌧
泥槽容量約750㎥、浚渫方式はドラグサクション式 (右舷ドラグア
ーム) で、排泥方式が船底ホッパードア方式のようです。 最大搭
載人員が29名。 平成23年に竣工とのことです。東京港に接続
する河川から流入、堆積する土砂を取り除く浚渫事業に従事して
います。泥槽積込、パイプライン洗浄等が、シーケンス制御を主
体として自動化されているそうです。

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赤いアームを海底に降ろし、航行しながら掃除機のように土砂を
吸い上げ、船体中央のタンクに溜められ土砂捨て場で船体下部
にあるハッチから土砂を海底に投下するそうな。国土交通省のド
ラグサクション式浚渫船 「白山」 が両舷に備えてるのに対し 「海
竜」 は右舷のみ。「自航ドラグサクション浚渫方式」 について、
よく知らなかったんですが勉強になりました。

「ドラグアーム」 (上)
ドラグヘッド、浚渫主管、リサイクル官、ジェット水管からなり、
中間部及び上部ジョイント部の特殊ゴムラバースリーブにより、
複雑な海底形状にもフレキシブに対応する仕組みで、最大19
メートルまで浚渫が可能なそうです。前兆26M、総重量21トン。
「ドラグヘッド」  (下左)
摺動部には耐摩耗ライナーを装着し、6本のジェットノズルで、固く
締まった土砂を粉砕します。4本ある爪は必要に応じて脱着が可
能のようです。幅約1.8メートルあります。カリフォルニア型とか。
「スウェルコンペンセータ」  (下右)
ドラグヘッドを上方向に支えているシリンダーです。海底の土砂の
やわらかさに対して、どれくらい重さ (接地圧) でつりあわせるか
を調整する装置です。約2㌧から5㌧まで設定可能のようです。
また、起伏を補う装置の名の通り、最大3メートルの起伏や波に
よる船の上下動にも自動で対応いてくれるそうです。

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河川や港のように土砂が流入する場所は次第に水深が浅くなる
ため、定期的に海底をさらう必要がある。浚渫船はこうした水路の
安全確保や、水中土木工事の基礎固めに使用されるわけです。
操舵室も見学出来たのですが、 器機に触らないで下さいと書い
てあるにも関わらず、触る人がいるんですよね。何故でしょうかネ。
船内には様々な関係資料が展示されていました。(下左) 昔の
航海灯 (灯油式) や船用機関ピストンヘッドなども展示。(下右)

浚渫船は船とは言っても必ずしも船の形はしておらず、四角い
プラットフォームに近いものも多い。艀のように自走能力がなく、
タグボートに牽引されるものもあるようです。浚渫する場所の土
質 ・ 水深 ・ 地形などで用途別の船が使い分けられるようです。
泥土や砂など柔らかい底質の場合グラブ、バケット、サクション
式などが用いられ、より強固な底質の場合には大型のバケット
式や、発破をかけ岩を崩した上でディッパー式など削岩できる
浚渫船が使用されるそうです。海底を掃除する船があることを
知れて面白かったです。

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東京海洋大学 練習船 「海鷹丸 (うみたかまる)」
埠頭の一番端の方に停泊いていたので、随分と歩かされましたが、
最後に乗船したのは東京海洋大学 練習船 「海鷹丸」 です。乗船
実習教育や調査研究、東京海洋大学の水産専攻科学生の遠洋
航海をおこなう船だそうです。こちらは女性実習生が制服を着て
お出迎えで、思わず顔も緩みます。うふ

東京海洋大学は、東京都港区に本部を置く日本の国立大学です。
日本の国立大学では、唯一の海洋の研究 ・ 教育のみに特化した
大学で、2003年に設置されました。120年以上の歴史を持つ東
京商船大学と東京水産大学が統合し開学した。通称は海洋大。

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船内では、同大の実習生が、次々と乗船する市民らを迎え入れ、
案内と説明に当たってくれました。人気の的は船を操縦するブリ
ッジ。(上) ずらりと並ぶレーダーなどの機器を前に、見学者は、
海底の形状まで分かる魚群探知機の見方などの説明を聞いて
いてうなずくばかり。私もその一人でした。(笑)

東京海洋大学 練習船 「海鷹丸 (うみたかまる)」 は、
昭和24年、元海軍特務艦荒崎の移管を受け、練習船として改装、
「海鷹丸」 と命名した。平成12年に練習船 海鷹丸 (第Ⅳ世) とし
て竣工しました。4代目なんですね。長さ93メートル、幅8.90m。
総トン数1886トン、速力17.4ノット。

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ブリッジ部分の一番下が教室兼、学生食堂とのこと。(上左) 中は
公開していませんでしたが、窓から覗いてみるとなかなか広いです。
実習生の居住区で、こちらの部屋は4人が住み込みます。自分の
プライベートはベットのみ。(上右) こちらはテレビや冷蔵庫等が
あるので休憩場所でしょうかね。(下左) そして洗面所。(下右)
 ウサギの絵が描かれた貼り紙がしてあって、「手を洗いましょう」
・・・・と。船外から来た時、例えばインフルエンザを持ち込んだら
大変なわけです。そしてパイプが詰るので嘔吐は禁止と、でも船酔
いしたらどうする? 太平洋、インド洋、南氷洋等々で、乗船実習教
育及び調査研究を実施するとともに水産専攻科学生には遠洋航海
をとおして高度な海技教育を行います。

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船のシンボルともいえる 「号鐘 (ゴウショウ)」。(上) 海上衝突予
防法によると、長さ20メートル以上の船舶には、「号鐘」 を備え付
けることが義務付けられています。船に装置して時報を知らせたり、
霧中の衝突防止などのために鳴らす鐘。また、船員に交代の時間
を告げたり、悪天候の時に船の位置を他船に知らせるために使わ
れます。船には、澄んだ音色の鐘が似合う。丸い球は気象レーダ
ーのようです。
「採水器 (CTD)」  (下左)
海水を採取して調べる採水器は、調査する深さの海水を採取する
ために用いられる機器です。上下にふたが付いているパイプ状の
ボトルを、海中へ投下し、目的の深度で海水を採取します。採取
された海水は、塩分や、二酸化炭素 (全炭酸)、栄養塩濃度、
溶存酸素濃度、透過率などを精密に測定することができます。
「クエーン」  (下右)
様々な装置を使うのに欠かせないのがクレーンです。機材は特に
重いですから、海へ投下したり、回収したり観測準備するのに重宝
されます。人の力は限られていますから。

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この海鷹丸の練習船ならではの航海機器、調査 ・ 観測機器、
測定機器、漁労設備等について、船舶教職員や水産専攻科
学生からの説明に熱心に耳を傾け、質問をする来場者が見
受けられました。マグロ延縄装置、トロール漁装置、ARGO
ブイ、他各種計測装置を有し、南極海観測航海も行なって
おり、日本の南極観測隊との共同観測も行なっているという。

「投下式水温水深計 (XBT)」  (下左)
海水中にセンサーを投下し、水温を測定する装置です。CTDは
観測後に回収しますが、XBTは使い捨てなので回収しません。
また、船を停止させずに観測が行えるようです。現在では、投げ
込み式のCTD(XCTD)や流速測定装置 (XCP) も開発され
ているようです。1500mまで観測が出来るそうです。
「南極の氷」  (下右)
これは海鷹丸自身が南極の氷山から採取した氷です。数万年
前の小さなタイムカプセルが、ウイスキーの琥珀色のグラスの
中で弾ける・・・この氷を使って一杯といきたい気分でした。(笑)
南極の氷に耳を当てると、気泡がプツプツと弾ける音が聞こえる。

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日本経済の大動脈となって、産業や暮らしの基盤を支えている様々
な船も、それを運行する船員がいなければ、その役割を果たすこと
ができません。 相互に協力し合い、船舶の安全運航を維持するた
めの責任を持って、それぞれの職務を担当する姿には感服です。

護衛艦もすごかったけど、しゅんせつ船 「海竜」 は衝撃だったな。
砲弾の重さはどれくらいだろうと、自分も持ち上げてみたが、あま
りの重さにちょっと驚いた。でも面白かったです! 一般公開して
いる船の見学にばかり夢中でステージイベントやブース展示など
はほとんど見ることができなかったのが悔やまれますが、なかな
か見ることができない船に入ることができて満足な一日でした。

【おまけ】
EE170555-1.jpg 
EE171838-1.jpg EE171851-1.jpg
東京都中央区晴海に整備される東京オリンピック ・ パラリンピック
の選手村の宿泊棟です。外装はほぼ完成し、来年の1月頃に完成
の予定らしいです。大会後、住宅棟は改築し、新たに建つ50階建
ての高層マンションと合わせて、およそ5600戸の分譲・賃貸住宅
となり、1万2000人規模の街に生まれ変わります。その街の名は
「HARUMI FLAG」。難点があるとすれば、交通の便の悪さ。街から
最も近い都営大江戸線の 「勝どき駅」 でも、歩いて約20分ほどか
かります。すぐ隣に晴海客船ターミナルがありますが、船に乗って
何処へ行くつもり。(笑) 周辺は何もなく 「陸の孤島」 みたいな感じ 。





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